報われる努力、報われない努力。
仕事の環境が変わってから、すでに3年の歳月が流れた。
会社で置かれた環境は、納得のいくものではなく、企業で働くこと、経営者に対する不信感は、ますばかりで、もはや呪いといっても過言でない(笑)
一方、妻との関係は、母が生きていた頃と比べると格段に改善された。
ただし、子供達との関係は、少し微妙な関係になってしまった。
二人いる娘は、独立して、家を出ていった。
上の娘とは、色々とあって、殆ど話さなくなってしまった。
妻を介して、私の事を気にかけている様子を聞いているので、憎まれたり、恨まれたりしている訳ではないのは、わかっている。
けれど、恐らく、死ぬまでの間に、娘と私は昔の様な関係に戻る事は、もうないだろうと感じている。
私が父や母にそうだった様に、子供達に自分の世界が出来れば、親の存在は、それほど重要ではなくなる。
私と娘達の関係性を考えると、
私が今より歳をとり、身体の自由が効かなくなり、誰かの助けがなければ命を維持できない様な時が来たとき
彼女達にとって私は大きな負担となる存在となってしまうだろう。
思えば、会社で上手く行ってたころは、
(会社での地位や仕事での成功。こんなもの必要ないから、家族との関係を改善したい。。大事なのは家族だ)
と心から願っていたから、ある意味、今の私は、私が望んでいた姿なんだと思う。
あれも、これも手に入れたわけではなくて、失ったものもあるけれど、欲しかったものは手に入れたのだろうか。。
そして、今私は。
会社という器から這い出るために資格の取得に挑戦中。
何度も何度も返り討ちになっている資格試験へのチャレンジ。
今年の結果はまだ出ていないけれど、微妙な状況であった。
でも。ダメだったとしても、もう一回チャレンジする意欲は衰えていない。
最近思う事。
(もしかして私は定年後に、本気で資格を活かした仕事に就こうと思っていないのかもしれない。)
と言うこと。
勉強して、難関資格と言われる資格にチャレンジする事が、今の私には、生き甲斐であり、自分を肯定する為の行為となっているのであって、その先にある結果としての資格自体は、多分それほど重要な事として、私の中に存在している訳ではないのかもしれない。
この様に思いはじめた。と言うか気がついた。
今年の結果が、ダメだったとしたら、今年の努力は、『報われなかった努力』となるのだろう。
合格に必要な知識量は確かにあった。
キーワードは全てわかっていたのに、解釈を間違えて、あえて書かなかった記述問題。
時間を気にするあまり、正解の選択をせず、途中で結論づけたあの問題。
最後の最後に見直して、答えを変更したら間違ってしまったあの問題。
これさえなければ確実に合格圏内の点数にたどり着いていた。
知識は足りてるのに。
運がない。努力したのに、報われなかった。
(神様ー、なぜあの問題をあんな風に考えさせたのですか?こう言う時こそ、運良くするとか、お祈りした事を叶える力を頂戴よ。全く…。とほほだよ)
罰当たりにもそんな風にちょっと思う。(笑)
でも、一方で。
『人間万事塞翁が馬』
と言う諺も頭に浮かぶ、ら
今年、ダメだったとしたら、それはきっと、そうした方が、私にとって最終的に良いことにつながるのではないか。
そう考えると、『報われない努力』ではなく、
努力はいつか報われるべき時に報われる。
ああ、眠くなってきた。