〔聖武天皇〕
701(大宝元)年父文武天皇と母藤原宮子との間に藤原宮に生れる。母藤原宮子は藤原不比等の娘であり、4人の兄武智麻呂・房前・宇合・麻呂はそれぞれ藤原南家・北家・式家・京家の祖である。ちなみに平安時代に摂関政治を行ったのは房前を祖とする北家である。
聖武天皇は幼名を首(おびと)親王と称し、714(和銅7)年6月に皇太子となる。716(霊亀2)年不比等の娘光明子(母は県犬養橘三千代)と成婚。724(神亀元)年伯母の元正天皇が譲位し、首親王が平城宮太極殿で即位して聖武天皇となる(『続日本紀』)。
聖武天皇の治世を中心とする奈良時代は律令国家の最盛期であったが、政治的には藤原氏と反藤原氏勢力=皇族・貴族・僧侶との政権争いであり、多くの戦乱が起こった。また天然痘が流行し社会不安が拡大していった。こうした政治・社会の不安のもと聖武天皇は、仏教を厚く信仰し鎮護国家の思想によって国家の安定をはかろうとした。
聖武天皇が749(天平勝宝元)年7月に譲位するまでの時期に起こった出来事を見てみよう。
729(天平元)年政権をにぎっていた右大臣長屋王(天武天皇の孫)は、藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の藤原4兄弟の策謀によって自殺させられた。長屋王の変である。乱後、聖武天皇は光明子を皇后とした(『続日本紀』)。法律=大宝令の規定では皇親を立后することになっていたが、光明子の立后は人臣では最初の例である。
政権をにぎった藤原氏であったが、当時流行していた天然痘に罹り武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟が相次いで急死した。藤原氏にかわって皇族出身の橘諸兄が政権をにぎった。当時、唐から帰国した吉備真備・玄昉が聖武天皇の信任を得て活躍した。
740(天平12)年藤原式家宇合の子の広嗣(大宰少弐の地位にあった)が、吉備真備・玄昉の政治を批判して九州で反乱を起こした。これに対して諸兄政権は、大野東人を大将軍として1万7000人を派兵して討伐した。藤原広嗣は同年11月に処刑された(藤原広嗣の乱)。この乱以降聖武天皇は都を転々とする。
まず740(天平12 )年10月乱の最中に伊勢・美濃国へ行幸し、乱後も平城京へ戻らず同年12月に恭仁京(くにきょう)へ遷都した(山背国)。741(天平13)年3月恭仁京で「国分寺建立の詔」を出した。この詔は、諸国に国分寺(正式には金光明四天王護国之寺=僧寺)と国分尼寺(正式には法華滅罪之寺)を建立させ、仏教の加護によって、政治・社会の不安を鎮め国家の繁栄を祈願しようとした。
742(天平14)年には紫香楽へ行幸し離宮を造営した(近江国)。743(天平15)年10月紫香楽離宮で「盧舎那仏造立の詔」を出した。『続日本紀』によると“それ天下の富を有つは朕なり。天下の勢を有つは朕なり。この富と勢とをもってこの尊き像を造らむ。”とその造仏の理由を述べている。参考までに749(天平勝宝元)年10月大仏本体の鋳造が終了し、2年後に完成した。いわゆる東大寺の大仏である。752(天平勝宝4)年4月インド僧菩提を導師として盧舎那仏開眼供養の儀式が行なわれた(この時の天皇は娘の孝謙天皇)。聖武天皇はこの後も遷都を繰り返し、744(天平16)年難波宮へ遷都し、745(天平17)年紫香楽宮へ正式に遷都し、9月には5年ぶりに平城京へ戻ってきた。その後、749(天平勝宝元)年7月聖武天皇は譲位し、娘の阿倍内親王が即位して孝謙天皇となった。聖武太上天皇は756(天平勝宝8)年5月56歳で没した。
聖武天皇を中心としたこの時期の文化を天平文化と称した。正倉院宝庫には聖武天皇が遺愛した品物(正倉院御物)数千点を保管しているが、これは光明皇太后が東大寺に寄進したもので、服飾・調度品・楽器・武具など様々である。「螺鈿紫檀五絃琵琶」・「銀薫炉」・「漆胡瓶」などはその一部である。また、仏教は国家の保護をうけて国家仏教として展開した。奈良の大寺院では仏教理論の研究が進められ、三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の南都六宗とよばれる学派が形成された。法相宗の義淵・華厳宗の良弁や法相宗の教義を学んだ行基など多くの僧侶も活躍した。
<関連人物>
藤原不比等→659(斉明5)年中臣鎌足の子として生れる。父鎌足は、乙巳の変(645年)で中大兄皇子と協力して蘇我蝦夷・入鹿を討伐した。不比等は701(大宝1)年大宝律令の撰定に参画し、律令制度による政治の仕組みを整えた。708(和銅元)年には右大臣に就任。710(和銅3)年平城京への遷都を推進し政治を領導した。娘宮子は文武天皇夫人、光明子は皇后となり藤原氏繁栄の基礎をきずいた。また、4人の兄弟はそれぞれ藤原四家発展の基礎をきずいたが、房前を祖とする北家が摂関政治を展開した。
藤原光明子→生没年は701(大宝元)年~760(天平宝字4)年。父藤原不比等、母県犬養橘三千代の間に生れる。聖武天皇の皇后となり孝謙天皇の母となる。福祉事業に尽力し、貧窮者・孤児の救済施設である悲田院や、貧窮の病人に施薬治療する施薬院を設けた。
