自伝の傑作があります。湯川秀樹博士の『旅人』です。52枚の挿絵入りで講談社から出版。角川文庫にも収められています。

 博士は「素読の生き証人」である貝塚茂樹氏の実弟であり、博士もまた素読の経験者です。小学校に入る前から祖父に四書五経を教わりました。

 

「旅人」湯川秀樹

 

 自伝『旅人』には心に沁みる場面がたくさんありますが、ここでは「美」と「運命」の二つについて取り上げることにします。今回は「美」について。

 

 博士の父・小川琢冶は明治三年に南紀で生まれました。田辺藩の儒者の二男で十四歳で和歌山中学校に入学するまで、父親から四書五経を教わります。特に愛読していたのが後漢書、三国史など。上京して一校(現在の東大教養学部)に入り、後に金色夜叉を発表する尾崎紅葉らと親交を結び、我楽多文庫の同人になります。やがてこの父が京大の初代地質学教授になるのです。

 

 この父の子である湯川秀樹も、父と同じ軌跡をたどります。小学校の同窓会の時、旧友の一人が言います。

 「湯川さんは文学の方面に進まれると思っていました」と。

 この文学少年が後に中間子を発見し、日本最初のノーベル賞受賞者となるのです。

 文学と理系とは一見、無縁のように思われますが、この父子に見るように案外深いところでつながっているのかもしれません。

 

 とにかく『旅人』を読んでいて気付くことは「美」に感動する場面が多いことです。たとえば「朝夕に仰ぎ見る富士山の美しさに驚倒した」「自然の力の偉大さに驚嘆した。感動と言ってもいいかもしれない」などのように。

 

 「美」を主題とする文学と、自然の「美」に感動し、感嘆する心の大切さに気づかされます。三千年もしくは四千年の歴史をもつ「四書五経」や、雄大な自然によって培われた心が偉大な業績につながっていくのかもしれません。

 

 ちなみにケンブリッジ大学は戦後だけで四十数人のノーベル賞受賞者を輩出しているそうです。そしてその要因は優れた「古典教育」にあるそうです。

 

 『旅人』に世界的数学者・岡潔が登場します。

 

 数学は情緒だ!

 

 という彼の言葉はあまりにも有名です。超難解な多変数複素関数論のインスピレーションを彼は芸術の鑑賞から得たと言います。そして彼もまた文学を好み、夏目漱石・芥川龍之介・松尾芭蕉などを愛読したということです。

 

「旅人」湯川秀樹