キテレツ諸子百家〜論語と孔子と、ときどき墨子〜

キテレツ諸子百家〜論語と孔子と、ときどき墨子〜

孔子、墨子をはじめ諸子百家について徒然なるままに語らせていただきます。

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 前回我々は、フリーデリーケとの接吻・舞踏・抱擁の歓喜・幸福の絶頂から、急転直下、翌朝の夜明け前、ルチンデの呪いの幻影の出現によって絶望の淵に突き落とされたが、鎧戸の隙間から差し込む朝日の光によって救出されるところまでを見た。

 今回は、その続きである。

『詩と真実』第三部岩波文庫昭17p23

 

   フリーデリーケを目の当たりに見、彼女の愛を感じ、環境の晴れやかさに接すると、そのすべては、私が最も幸福な日々の真っただ中にいながら、不吉な夜の鳥どもを心に宿らせようとしたことに、非難を浴びせた。私は、そんな夜の鳥は、永久に追い払ってしまったのだと信じた。愛する少女の、益々打ちとけた、信じ切った振る舞いは、私を有頂天にした。そうして、彼女は、今度の別れ際には、他の友人、親戚などと同じように、私にも誰憚らず接吻をしたので、私はわが身の幸福をしみじみと感じた。

   町では、非常に多くの仕事や慰みが待ち構えていたが、私は、それに没頭してしまわないで、今は常習となった愛人との文通によって、しばしば自分の心を彼女に集中したのだった。手紙の中ででも、彼女はいつもかわらぬ彼女であった。何か新しい事を物語っても、既知の事件を暗示しても、また軽い描写を試み、感想を述べるにしても、いずれの場合にも、あたかもペンを手にして、やはり身も軽く、危なげもなく、行ったり、来たり、駆けたり、跳んだりしているような趣があるのだった。私もしきりと彼女へ手紙を書いた。というのは、彼女の種々の美点をまざまざと心に想い浮かべると、彼女と遠く隔たっていても私の思慕はつのってきて、そうして、この手紙での談話は、逢うときのそれに劣らぬばかりか、むしろ、のちには、かえってひとしお楽しく、ひとしお貴くも思われてきたのである。

 

 

 長年の御愛読、誠にありがとうございました。

今回をもちまして、ブログを閉じさせていただきます。

皆様が、無事、コロナ禍を乗り越えられますことを祈念しつつ、、、、、、、、、、、、、、、。