Work , Journey & Beautiful

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オルタナティブな学びを探求する

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圧倒的な“学びの原体験”をはたらく全ての人に 社会人教育3.0
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歩道を歩いている母親と子供がいる。それまで並んで歩いていたが、子供が一歩先に進み母親に「追いかけてごらん」とポーズをする。いつのまにか、歩くという行為から遊びが生まれる。


このように本来遊びというものは、遊びとして用意されたものではなく、行為の中に、ただただ自然に立ち上がる。遊びには始まりの境界線はない。そして、終わりの境界線もない。遊びは自ずと、不意に終わる。


この自然な遊びというもののありように対して、世の中に用意されている遊びの場は、お金を払い、意図的に遊びを始めることを許可され、定められた時間が経てば遊びを切り上げる。いかにもデザインされていて、不自然なものばかりだ。


そして、不自然なまでにデザインされた遊びの場でしか遊べなくなった都会の大人が、自分の子供を不自然な遊びの場で遊ばせ、自分はスマートフォンのスクリーンの中で遊ぶ。そんなシーンが都市には確実に存在している。


そんな不自然な遊びしかできないようになっているのも、仕方がない。何故ならば、自然に遊ぶことができる場所がどんどんなくなってきてきている。


その際たる例は、公園だ。公園がおしゃれになり、スターバックスが出店し、遊具が安全になった。浮浪者は注意され、球遊びは禁止された。


パブリックな場であるはずの公園は、いつのまにかマジョリティにとって心地よい空間としてデザインされてきた。結果、一部の人にとっては公園は居心地が悪くなり、自由な振る舞いが許されない場所になりつつある。公園の中でも、遊ぶ場所は区切られ「柵を越えたら遊んでいいよ」などと、誰かに始まりと終わりを定められている。不自然なまでに。


公園はパブリックの象徴なのかもしれない。不自然な都市設計の際たる例であり、このようなマジョリティのためのデザインは都市全体に見られる。歩道を歩いていて、子供が一歩先に進み母親に「追いかけてごらん」とポーズをする。「危ないからやめなさい」と母親が言う。こうして遊びは殺される。


遊びは、行為の中に自然と生まれる。しかし、遊びが生まれるためには何かしらの余白が必要だ。その余白とは、人が人として自然な振る舞いができるだけの十分なスペースのことだともいえるかもしれない。


子どもは、都市の中にあっても、少しばかりの余白を見つけ、遊び始める。例えば、周りに誰もいなくなったエレベーターの中で。大人には、その小さな数メートル平方の余白は、自然な振る舞いをするには小さすぎる。もっと大きな余白を求めている。


そう、大人こそ、もっと単純で広大な余白を求めている。


「だったら田舎に移住すればいいじゃないか」と国もメディアも囃し立てるが、おいそれとは都市を離れられないのが、一度都市に暮らしてしまった人の宿命でもある。子育てを始めてしまったら、なおさらだろう。そんなシティファミリーのためのレッスンとして、僕らは都市と山とを行き来することになる。


来年は、東京と奈良に、そんなシティファミリーを待ち受ける場所を用意していく。消費者を増やさない程度に。