こないだ、居酒屋で食事をしました。あ、タイトルは全然関係ないです笑


その店の店員の動きの悪さ。声の小ささ。テキトーさ。


やりたくないんやったらやめーや、と。


客が店員さんに偉そうにするのはいくらお金を払っているからと言っても横暴。

何で初対面の人にそんなに偉そうにできますか。最低です。


ただ、態度の悪い店員はもっと最低だと思います。底辺です。

お客さんからしてみれば、なんでわざわざ金払ってイヤな思いしなきゃいけないのかと。

自分の周りでイヤなことだったり疲れていたりといろいろあるかもしれないけど、それをお客さんの前で出すのは最低だと思う。

その仕事がキライならやめーや。自分のタメにも店のタメにもお客さんのタメにもならん。


バイトで利益出せない人には、就職なりなんなりしても、きっと利益は出せない。

靴下のことですね。


まぁそれはそうと、最近昔親や先生に言われてきたことが、昔思っていた以上に大事な気がします。

例えば、「あいさつをちゃんとしなさい」「人の話を聞きなさい」「お礼をちゃんとしなさい」などなど


子供のころはなんとなくわかっていたような気になってはいはいと行ってきたけれども、歳をかさねるにつれて、こんなふうに昔から言われてきたことって大事なんだな、って今さら気づきました。

いや、正確には今さらにならなきゃ気づけないのかもしれません。


あいさつはひとの印象などを左右する大切なコミュニケーションステップ。しなきゃ始まらないし、しなくても死にはしないけど、ロクなイメージはない。


ひとの話も聞かなければ相手は相手に興味をもってくれないし、ひとから聞かせてもらえる話は聞くにこしたことはない。特に先輩やその分野に詳しいひとの話なんて、タダでいろんなお得な情報が聞けるんだから。


お礼についてもそう。生きているといろんなひとからお世話になってる。親だってそうだし、ささいなことかもしれないけど何かと助けてくれるまわりのひとたち。

最初はそのありがたさなんてわからないかもしれないけど、だんだん成長してみるとその大切さが身にします。


こんなことを考えて、親や先生も自分と同じような道をたどってきてきたのかとか思うと、やっぱり自分より長く生きてるだけのことはあると妙に納得していまいました。


僕もまだまだ知らないことがたくさんあるだろうけど、そうやって学んだことを後から同じ道を通ってくるひとたちに、迷惑かもしれないけどそっと教えてあげていきたいです。


お前それ当たりまえじゃーん!



・・・実はこれ真理だと思うんですよね。

当たり前を定義することほど難しいと思うんです。


いろんな当たり前、たとえば人生がうまくいく当たり前とか知ってれば、みんな何も苦労しないわけです。

みなさんもよく知っている聖書。

キリスト教の人はあれを神の言葉としてあがめ倒すわけです。こんな言い方をするとキリスト教の人に批判を買いそうですが、キリスト教の人がキライというわけではありません。

ただ、聖書に書かれていること全部が聖なる言葉というわけではありません。実は、日常の普通がたくさん描かれているんです。

それじゃ、聖書は神の言葉でもえらくもなんでもないの?

そんなことはありません。

当たり前のことをつらつらと書くことが実はとんでもなくすごいことなんです。


なぜなら当たり前のことほど気づきにくく、いつもと違うことほど気づきやすい。

ありがとうってなんで言うのか、何ではしを使うのか。

パソコンやケータイがない日常なんて考えたりしない。だってないことが異常なんだから起こる可能性も低いし考える必要もない。

全部日常のこと。エイリアンが来たらどうしたらいいかなんて、まずエイリアンが来るかどうかもあやしいこのご時世。

まずは自分の日常から考えてみません?


日常とおしゃべりもできなくなるほど見つあってみると、自分がするべきこと、間違ってることがきっと見つかると思います。