🇦🇷Aquasilabas - Sebastián Macchi Trío

🇮🇱Lemon The Moon - Nitai Hershkovits Trio

🇺🇸Beat Music! Beat Music! Beat Music! - Mark Guiliana

🇺🇸Finding Gabriel - Brad Mehldau

🇰🇷Philos - Park Jiha

🇳🇴A Different Kind Of Human - AURORA

🇹🇷Aykut Gürel Presents - Gökçe Bahadır

🇫🇮Vildaluodda / Wildprint - Vildá

🇯🇵まぼろしEP - 蒼山幸子



🇯🇵まぼろしEP - 蒼山幸子




個人的にずっと聴いている歌の人なのもあって特別思い入れが深いが故の選譜なのだけど、それを差し引いても作品を出す毎に研ぎ澄まされる歌の魅力には目を見張るものがある。まぼろしEPは前身邦ロックバンド「ねごと」解散後のソロ名義での初アルバムで、バンド編成ではあるものの幸子さん本来の歌い手、作詞作曲家としての本質に一気に迫った作品となっている。流石にバンドアレンジ自体には音数の多さや粗が目立つものの、電子音や楽器の音色選定は研ぎ澄まされており、かなり効果的に独自の世界観を映し出す要因を担っている。それでいてメロディーのポップさは勿論、言葉のリズム感を大事にした歌心が健在で、これがねごとを含め長く聴いていた過程がある上で何よりも嬉しかった点。彼女の言葉は、尖っている訳ではなく、しかし絶対に気休めは言わないが故の具体性を秘めており、本人はそれを暗い歌詞と言ってはいるものの、それが深々と拡がり流れる曲のイメージと相まってより力強いメッセージとして心に響く。そのニュアンスは、ルーツは違えどもBjorkの内面を聴くような感覚に近く感じる。個人的に心動かされた作品として、今回は特別枠にEPとしてこちらの「まぼろし」を選ぶことにした。



🇫🇮Vildaluodda / Wildprint - Vildá




フィンランドのヨイクユニットバンドSoljuのリードボーカルHildá Länsmanの、アコーディオン弾きViivi Maria Saarenkyläとのデュオ作品。北欧サーミ人の伝統唱法であるヨイクを耳馴染み易い歌心で歌い上げる、Hildáの歌声は動物のようで、それでいて人間だからこその優しさのようなものも等しく感じ、非常に野性的で、幻想的。Soljuではシンセサイザーやパーカッションをまじえ母親Ullaのそれこそ本格的に喉を鳴らす激しめのヨイクと凄まじいハーモニーを響かせていたのが、このユニットではコード感やリズム感はViiviのアコーディオンに一任され、それ故にHildáの声の広がりや美しさによりスポットが当たるような仕上がりになっている。Viiviはライブでもルーパーを使いこなして多層に世界観を作る為、この音源でも多重録音が施され、迫力は充分。アコースティックで和声的ながらリズム感をも刺激するのは、そういったアコーディオン奏者の工夫と、そしてやはりヨイク自体の細やかなリズム感もあってのことだろう。勉強していないので憶測に過ぎないが、サーミ人の文化は北欧からグリーンランドを渡ってイヌイットの文化とも通じる部分があるように思う。それは民族衣装と、イヌイットの喉歌であるカタジャックとの近似性である。息を吐く、吸う、のリズムに合わせて交互に動物の鳴き声を真似る独特な遊び。SoljuUllaのヨイクには、むしろカタジャックのようなものを感じることもあり、構造的な倍音の使い方も近しいものなのではないかと再認識した。Hildáの歌声は、喉を巧みに扱う癖の強い伝統唱法を見事に歌心に昇華しており、非常に音楽的であることにとにかく感動させられる。まだ26歳の若手ながら、未来のヨイクを担える素晴らしい才能を感じこの作品を選ばせてもらった。



🇹🇷Aykut Gürel Presents - Gökçe Bahadır




トルコ人歌手であり、女優であるGökçe Bahadır1stアルバム。トルコの音楽の伝統性は凄まじく、ハルクやサナートにおける歌心と歌唱技術の連動性には目を見張るものがある。また地方に点在する伝統舞踊は複雑な変拍子を基礎とするものが多く、感覚的に培えるリズム感も通常の踊りやすいダンスミュージックと比べ段違いのものであることが窺える。そんな音楽大国(とわりと勝手に言う)トルコでは、ポピュラーソングの部門に関しても純粋にレベルの高い歌い手が揃っている。Gökçe Bahadırもそのひとりで、歌手としてのキャリアはそんなに長くはないものの、その歌声は非常に貫禄があり表情豊かで、それを楽しむだけでも充分にヘビロテのしがいがある。作品としてはある種テンポ感が似通った曲が多いものの、34分間という時間をポップな歌謡曲でサラっと流すと考えれば、それだけでも充実した内容であるように思う。それ故、出先でテンションを維持しなければならない時には迷わずこれを愛聴していた。今年かなり聴いたアルバムのひとつ。余談だが8月に富山のスキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドというワールドミュージックフェスのナイトステージで出ていた和製ワールドアンサンブルグループのFamous Japaneseの演奏を聴いた時、こういったトルコのポップスを聴くのに近い感覚を得た。トルコでの演奏経験もあるFamous Japaneseは中東旋律にも造詣が深く、複雑で独奏的になりがちなそれを彼等なりの親しみやすさの中に落とし込むことが出来ていたように思う。そういった独自の発見と重なったこともあって、このアルバムからは非常に多くのインスピレーションを得るに至った。



🇳🇴A Different Kind Of Human - AURORA




今年は来日公演も果たしたノルウェーのアーティストAURORA3rdアルバム。前作から繋がったコンセプトのうえで作られたこのアルバムは、環境問題等に関するコンセプトを孕んだ非常に深刻な内容となっており、リリース以降発表され続けているMVについても、ショッキングなものが多い。そういったインパクトの強さを表現するにありあまるAURORA自身の歌唱力にとにかく脱帽させられた。1stアルバムがリリースされた2016年から3年間、わりとしっかりファンでずっと聴いていたのだが、元々宿っていた天性の歌声に年々磨きがかかり、表現者として何段も躍進しているのを感じている。前作前々作と比べると、アレンジは不明瞭な電子音やコーラスワークが中心となり、主旋律としての歌声のリアリティ、大迫力ながら非常に微細な表現の緩急に一気にスポットが当たった。北欧歌手という肩書きとサウンドは、常にBjorkEnyaのイメージの連想と共に認識されるように思う。AURORA自身の音楽にも当然彼女達のような、北国の冷たい空気に雪景色といった特有の癒しの側面や、それこそオーロラや白夜を想起させられるような虚ろな旋律の不協感、それらが影響することで育つ超感覚や天才的な側面というものは勿論感じる。しかしそのうえで、前作今作のコンセプチュアル・アートとしての断続的なエネルギーの昇華を経て、彼女の音楽は全く別のパフォーマンスの性質を得るに至ったように思う。それはむしろ野性的で憑物的な、非常に動的な推進力をもって発せられる歌声。そしてそれらを取り巻く、民族的というよりは呪術的なサウンド。そういった方向にどんどん彼女の音楽性が研ぎ澄まされていくのを感じる。そんな経過をはっきりと目撃したような1枚だった。もしかするとこの作品以降、また音楽性が変ってしまうかも知れないし、それ程この手のアーティストは本気で変化を恐れず、それだけの気概も支柱も兼ね備えているものだと思うのだが、ひとまずはAURORAを決定づけるひとつの到達点としてこのアルバムに最大級の賛辞を送りたい。



🇰🇷Philos - Park Jiha




朝鮮伝統楽器のマルチ奏者Park Jiha。前作Communionで朝鮮伝統楽器を中心としたジャズとのコラボレーションにより、それらの独奏性やアンサンブルへの実用性を示したその作品は、純粋なコンテンポラリージャズとしてかなりの完成度を有しており、私も去年の2018年のベストにこのアルバムを選譜したのだが、早くもリリースされた2作目がこちら「Philos」。前作とは打って変わり、朝鮮伝統楽器のみを使った多重録音による、完全にひとりのみの演奏によって作られた作品。一部サンプリングや歌声も挿入されるものの、基本的には大きな展開は見せず、ヤングム(朝鮮のハンマーダルシマーみたいな楽器)を軸としたループを主として楽曲が進んでいく為、前作よりむしろこちらの方が聴き流しで瞑想的な感覚に浸れるかも。個人的な聴きどころはピリやセンファンの旋律。それぞれ日本の雅楽でいう篳篥や笙とルーツを同じくする楽器なのだが、ロングトーンの中でゆっくりと移り変わるような揺らぎが非常に美しく、一気に幽玄な世界へと誘われるような気持ちになる。前作Communionでは、それこそピリなんかは独奏によるダイナミクスを見せつけかなりの展開を聴かせてくれたのだが、今回はそういった大胆さはなりを潜め、代わりに多重録音故の和声的な響きが浮き出て聴こえてくる。故に所謂アジア音楽的な癖も少ない聴きやすさにむしろシフトしているのが今作の特徴とも言えるかも知れない。しかし、時折ヤングムで大胆に不協となる音を重ね打楽器的なアプローチをしてくることもあり、こちらはむしろアジア音楽的な感性のうえに成っているもののようにも思う。いずれにせよ普段身近には感じづらい朝鮮伝統音楽が、彼女の活動がGlitterbeatのワールドレーベルに取り上げられこうして発信されていることで、一気に接近して感じられたように個人的には思った。それ故過去作もさることながら、彼女の音楽活動には特別注目していきたい気持ちがあり今回も非常に楽しんで新譜を聴かせて頂いた。



🇺🇸Finding Gabriel - Brad Mehldau




今年のグラミー賞ジャズ部門においてもノミネートされているこの作品。Miles DavisKeith Jarrettらと比べるとかなり若手ながら、既にレジェンドと並んで名前を上げられることも多いピアニストBrad MehldauRadioheadOasis等オルタナティブ・ロックバンドの楽曲を独自の解釈でジャズピアノに落とし込んだり、バッハの曲群から着想を得たアルバムを作ったり、電子音楽に取り組んだりとその表現方法は非常に多彩。しかしながら彼の音楽には通底して鳴る鍵盤のメロディとしての美しさがあり、むしろそれを効果的に聴かせる為の左手の抑制した運びや緩急の優しさが、ジャズ界に進化をもたらしたのではと個人的には思っている。さて、そう書くとかなり音数を減らした聴きやすい音楽を奏でるセンスの持ち主かと感じるもので、実際私もそういう先入観で彼の活動を追ってはいたのだが、この作品で彼はコーラスやストリングス、ブラス等を大胆に取り入れ、自身もピアノに加えシンセサイザーで多種の音色を弾きこなし、若手ながら人工エレクトロドラムの巨人とも言える鬼才Mark Guilianaをドラマーとして迎える超絶音数過多の構成を取っている。そして何より凄まじいのは、そのうえで全ての旋律が効果的に鳴ることで、あまりに広大な世界観を映し、情景を描き見せるに至っていることだ。バロックを思わせる旋律、恐れを感じさせる不協、曇天を維持するかのようなシンセサイザー、嵐を起こしながらも絶妙に空けた隙間から全ての音を届ける神域のドラム。これら全てが、聖書からインスピレーションを得たという本作の世界の流動をあまりに深くリアルに伝える為に機能し、人間的な感性を有したうえで鳴っているのが感じ取れる。素晴らしい作品であると同時に、最早ジャズという枠組みの上で語られるには非常に勿体なく、それ程にBrad Mehldau自身がこれまで妥協なく追究してきた音楽的要素が全て結実したかのような作品と言えるのだ。そこには最早ジャンルなど存在しない。あるとすれば、どこか昨今の世の中への不信感にも似る、通底した激動寸前の淀みのようなイメージ、とでも言えば適切か。彼のピア二ズムに関して、非常に考えを改めさせられた1枚である。



🇺🇸Beat Music! Beat Music! Beat Music! - Mark Guiliana




David Bowieの遺作「」にも参加した実績を持ち、人工エレクトロと言われる程複雑かつ正確無比なドラムワークが最早世界最前線とも言われるMark GuilianaのライフワークのひとつであるBeat Music。ビートやグルーヴに対する純粋な追究精神は彼の多くの独特なドラミングを作り、また同時に効果的な音の鳴らし方の脅威的な洗練にまで至った訳だが、今作はそれらがBeat Musicとして結実した作品であり、ひとつの到達点と言えるような作品であるように思う。彼のドラムは、あまりにも洗練されたテクニック、音作りであるものの決して悪目立ちはせず、バンドのアンサンブルとして全体感で鳴るドラムとして非常に心地良いものとして響いてくる。グルーヴとしての本質はまず周囲との調和にあるのだということを再認識させられる。特にChris Morrisseyの流れをほんの少し塞き止めるような軸を取るベースや、実に微妙に語感の軸が曲と合致するように配置されたボイスサンプリング等は、機械的なニュアンスながら人間の感覚でないとコントロール出来ない部分であり、これらを取り持つにも、正確無比なドラムであることに加えて、BPMより全体に通底する空気の波のようなものに即したドラミングであることが求められるように思う。そういう意味でMarkのドラムは実に心地良く、美しい。実は変拍子を取るポイントがあったり、強烈なテクニックを炸裂させている部分があったりと聴き込めるポイントが満載なのにも関わらず、特筆すべきはそれらを無意識のうちにスルーさせる程のアンサンブルとして完成度の高いバンド技と、曲にある。加えて、実際にBillboard OsakaBeat Musicのステージを体感した時に思ったのは、バンドメンバー全員の余裕、軽やかさで、非常に楽しいことが伝わってくる演奏であることが特別一層に感じられたことにあった。それは個人的には、メンバーの技が為せる技であると同時に、Mark自身の人柄によるものも大きいのではないかと思っている。Markの別グループMark Guiliana Jazz Quartet1stアルバムのタイトル「Family First」からも取れるように、彼は支えてくれる人達に対して愛と感謝を返す機会を非常に大切にしている。多忙でありながら、休日は必ず家族と過ごしている様子がInstagramのストーリーに上がる。周囲との和に几帳面な彼の性格は、決して悪目立ちしようとしない彼の音楽にこそよく表れているように思うのだ。リードするのではなく、メンバーの音が活きる空間を空けるからこそ、全てが効果的に活きてくる。それ故にメンバーそれぞれの演奏は意味を持ち、引き締まっていく。それが結果的に、総和としての無比のグルーヴを創りだすのだ。Beat Musicの新作は、間違いなく彼の人間力が導き出した作品だ。



🇮🇱Lemon The Moon - Nitai Hershkovits Trio




タイミングが掴めずにいたが、年内ギリギリに何とか購入出来るに至り、視聴した途端に全てを覆されたような気持ちにさせられた作品。それ故に、勢いで今年の9枚に選譜するにまで至ってしまった。Avishai Cohen Trioのピアニストとして起用されキャリアを積んだNitai Hershkovitsは、トリオを離れた後多くのミュージシャンの作品に参加しながら自分のソロにも着手していく。その際に大きな役割を果たしたのがButtering Trioの中心人物であり、ビートメイカーであり、数多くのミュージシャンのプロデュースをこなす敏腕音楽家のRejoicerだ。そこからNitaiは自分のエレクトロに対する才能も開花させていくことになる。またこれの前作にあたる「New Place Always」では、ポーランドの天井高い特殊なスタジオ、そこに置かれたファツィオリという特殊なピアノの特性を活かし、マイキングや奏法等あらゆる趣向を凝らし実験を凝らして、まるで部屋の様々な場所からピアノを聴いている感覚になるような非常に音響的なピアノソロ・アルバムの革命を成している。この作品は所謂音の良さも充分であるが故に、録音術の具体性を明瞭に映し出したアルバムだったように思う。こういった経験を経て作られたNitai Hershkovits x Rejoicerプロジェクトの集大成であり、それがトリオのメンバー自体の音楽的な幅の広さと超反応を起こしたアルバムが「Lemon The Moon」なのだ。一聴して跳び上がるのは、ジャズとは思えない程に若々しく、しかしながら巧みに織り込まれたグルーヴで、これこそ全体的なサウンドスケープとしてはエレクトロが主軸を担っているように思う。しかし例えば1曲目のベースラインはまるでアフリカ音楽の大極循環で、ドラムはフォルクローレやカタルーニャの土着音楽のニュアンスにすら近しいパタニズムを感じる、非常にジャンル的にも幅の広いものであることが窺える。それらがトリオというフォーマットで、エレクトロの視点で音数の抑えられた抜群のバンドワークとして嵌るのだから、どういったジャンルの視点から見ても非常に面白いのである。そのうえでやはり特筆すべきはNitaiのピアノで、これまでのクラシック的な展開様式を基軸としたピア二ズムから打って変わって、ルートのうねりをベースラインに委ねたぶん、かなり自由度の高いピアノワークを披露している。そのうえで、音の強弱、更にはタッチのニュアンスまでもが史上類を見ない程に繊細に洗練され抜かれており、それがはっきり聴こえるということも含めて「New Place Always」の経験が活きているものと思われる。それ故音響的にも、例えばシンセの音色の選定ひとつとってもこのアルバムが内包している繊細さはある意味普通のジャズやエレクトロ以上に深い。特殊な経験を元に、別次元のサウンドスケープを聴き手に与えられるべく進化した、Nitai Hershkovitsのピアノを「未来のレジェンド」へと推し進める作品のように思う。この作品を聴き終えてまず溢れたのは、Rejoicerに対するあまりに大きな感謝の気持ちだった。



🇦🇷Aquasilabas - Sebastián Macchi Trío




アルゼンチン音楽、特にパラナ周辺の音楽を語るうえでCarlos Aguirreの存在は最早隠し通すことが出来ない。そして彼の音楽を知っているからこそ、パラナの音楽を聴く際にはまず先入観としてどこか安心感が付きまとう。それ程に彼が成し遂げた「パラナの音楽」の流動性に対する功績は大きいように感じる。革命的な程に大きくはないものの、それ故の隣人愛に満ちた地域性が、彼を取り巻く周囲の音楽家やそれ以外の人々にさえ素晴らしく深い愛情、優しさをもたらしている。この作品はSebastián Macchi Tríoという形式でリリースされながらも、20年経っても変わることのない隣人愛を、色褪せないままに感じられる作品のように思う。それは何より、Sebastián Macchiのピアノが、かつてCarlosCarlos Aguirre Grupo等で育んできた優しさの音そのものだからであって、同等の推進力を感じるものであるから。加えてCarlos Aguirreのベース、Gonzalo Diazのパーカッション、3つの要素が、互い互いを支え合う為に優しくしなやかに音を紡いでいく。それによって生まれる光景は、最早何ものにも変え難い、彼等にしか紡げない安息の情景となり聴き手の身体に降り注ぐのだ。これこそが、彼等がパラナという地で紡いできた音楽の""であるように思う。いつもそんな信頼を寄せながら、この「Aguasilabas」を再生するのだ。しかしこの作品もまた、移り変わる世界やその中で生じる環境問題に関して歌っているアルバムでもある。Sebastián自身の歌によって語られていたそのストレートな言葉の数々が、音世界から想起する情景を一気にパラナの町中へと転移させた。私にとってこのアルバムが特別なのは、そういった深刻な側面に向き合うような気持ちになった時、より大切にしたく、抱き締めたく、愛し抜きたくなるものをこそこのアルバムは宿しているように思ったからだ。そしてそれを歌うには、Sebastiánの歌声はあまりに儚く、可愛げに感じる。それを支えるCarlosのベースの、優しくもそのたくましさといったらそれらは言葉では表せない関係性なのだ。またそれらをリズムとしても効果音としても、空間的要因として巧みに支えるGonzaloのパーカッションが、あまりにも無くてはならない彼等の総和を創るに至っている。気付けば全ての音が全ての音を支え合い、流れてくる愛情を一秒一秒、ひとつひとつ両手で受け取るように聴いていた。