今日ネットをみていたらオカマという言葉は差別語だとある人が他の人から注意されている話を読んだ。オカマの人がオカマと自虐的に言うことすらもグレーゾーンだと。

話し手が当事者であろうがなかろうがその言葉を発することで潜在的に言わないまでも傷つく人がいるからというのが趣旨らしい。



しかし一方ではこの指摘は言葉狩りだという声も多い。

わたしもこちら側(言葉狩り)かなと思っている。表現の萎縮につながるかなと。

これはこのようなセクシュアリティのカテだけではなくて障害者にもあると思う。

しんしょーという言葉をよく同級生が馬鹿にして使っていたがこれはダメだと思う。でも乙武さんみたいな人がたまに自虐的!?にいうのはやはりまあ、ありなんじゃないかとも思う。

要はこの言葉までダメならなにも言えなくなっちゃうじゃないという言葉の線引きなんだろうなあ…

でもこういうのって属人的な感性に大きくよるものだし、明らかに差別じゃなければ仕方ないんじゃないかなあ…と勝手に1人オチをつけました。
20年前くらい小学生の時の話です。弟の友人で、知的障害みたいな…うーん、今でいうところのアスペルガーみたいな感じの男の子がいました。
その子は私より年上だったんですが 私の顔をみるなり

○×君のおねいちゃん

と連呼していました。

かなりカツゼツ良く私を見て真正面からいってくるので、なんかしらないけどホンワカした記憶があります。

しかも、○×君のおねいちゃんて、思い切りまんまな事実述べとるやんかと。


障害者とくらしているとたまにこういったホンワカかつシュールな場面に出くわすことがあり、意外に面白い一面を垣間見ることができます。


そして時刻表の詳細をそらで暗唱し、全ての駅の駅員の真似をするのが一連の流れです。
正直、そんなに慈悲にあふれていない私はこれがはじまるとそっとフェイドアウトをしていました…


あのこは元気にしてるのかなあ…


きょうだいの会というのがあって、私は賛助会員だから集まりには参加してないんですが、冊子は購読しています。いろいろな人の体験談や感想をよむと、障害者のきょうだいだからわかり会えるという効果よりも、似たような境遇でも周りの環境(親子関係や近所関係や学校での先生の理解度)でかなり自分の人生や感じ方に差がでるなあと実感しました。

しかしこの物心ついたときからの特有的な孤独感てなんなんだろう…マイノリティの人が感じる疎外感に似ているかんじがしますわあ…