彼(英霊)は生きている。彼らのお陰で今の我々がここにいる。 | よしくんのブログ ~愛する日本を守りたい~

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売国・安倍政権を糾弾!
アメリカは、資本家・グローバリストという王侯貴族の国家。
アメリカ、韓国、竹中平蔵、統一教会のために売国する、
安倍政権を批判します。
当初は、経済評論家・三橋貴明さんに期待しましたが、安倍政権の一味と解り、批判に転じました。

17歳で特攻に散華された方がいる。17だ。人生は始まったばかりだ。

死んだのだからどうしようもない、ではないだろう。

 

彼(英霊)は生きている。彼のお陰で今の我々がここにいる。

ここにいるのは、彼らのお陰だ。彼らの戦いが、今の我々だ。

今の我々は、彼らそのものだ。

 

自分の存在は自分だけのものではない。我々がここにある恩人のためにも、ここに居る。

(一例。彼らのお陰で日本語を喋ることが出来る。英語ではなく。あとは自分で。)

彼らのお陰でここに居る我々は、意思を引き継がなければならない。

我々は、彼らを引き継いだ我々だ。他の何者でもない。

 

その本来あるべき存在意義を忘れて生きる所に、何があるというのだろうか。

自己実現? 虚栄? 成功? 哲学? 

 

何も掴めない、浪費の人生があるだけではないか。

どこに行ける。どこに行きたいんだ。

行けるはずがない。

我々がここにある恩義を忘れて、どこに行ける。何かがあるのだろうか?

彼らのお陰で今の我々がここにいるという、恩義を忘れた人間に、何が待っているというのだ。

忘恩の徒に何が為せる。最上級に大切なものを忘れ、置き去りにした者に。

それは人間にとって何が大切なのかという事を、捨て去るに等しい。

 

彼らの意思を継ぐとき、我々は大切なものを掴める権利を得るのではないか。

人生で掴むべきモノへの扉が開くのではないか。

愛国とか、大日本帝国とか、鬼畜米英とかではないよ。

 

普通に人間として大切にすべきものへの扉が。

格別難しい何かを掴め、というものではなく。普通に人間として大切なもの。

例えば愛した人を得た時、ただただ愛しぬくという心。ただ君の手を握っていられることのしあわせ。愛することが出来る幸運を知り、無私の感謝を注ぐことのしあわせ。

格別難しい何かではない。人として大切なこころ。

 

死ぬとき、別れの涙を流してくれる人がいるしあわせ。またあなたに会いたいと思える人を得て、旅立てるしあわせ。

こんな些細なものが私たちが掴みたいものではないだろうか。

 

我々がここにある恩義を忘れたものがどこに行ける。忘恩の徒に何かがあるのだろうか?

 

彼(英霊)は生きている。彼のお陰で今の我々がここにいる。

彼らのお陰でここに居る我々は、意思を引き継がなければならない。

何を引き継ぐのか。

こころだとおもう。

人として、至極まっとうなこころ。

(日本のために散れとかではないよ。)

 

人として、至極まっとうなこころをもって、生き抜き、できれば世の中につくす。

とんでもない鬼畜のような人間がいるから、ひとのために尽くすのは難しいので、

漠然と世の中のために、でいいだろう。

 

多くの人がしあわせになれるように尽くすのは、英霊の方々が示してくださった道だとおもう。

もっとおおくのことを学ばなければと思うけれど、いまは言葉がたりない。

でも、ひかりへの一筋のみちは、これで良いとおもう。

 

彼(英霊)は生きている。彼のお陰で今の我々がここにいる。

ここにいるのは,彼らのお陰だ。彼らの戦いが、今の我々だ。

今の我々は、彼らそのものだ。

 

敗戦記念日に、「子犬を抱く少年兵」出撃2時間前の写真より。

https://ameblo.jp/navy-paratroop/entry-11593328690.html

 

 

【涙腺崩壊】18歳にして散っていった特攻隊員の遺書に涙が止まらない!その衝撃の内容とは・・・

https://lemon-like.info/posts/1247

 

〇書かなければならないことがあったので書きました。

かさねて書いておきますが。愛国とか、大日本帝国とか、鬼畜米英とかではありません。

そんな狭小なことではありません。

普遍的なこころのことです。

人がむかうべきところ。人がむかうべきひかりが、それのような気がします。

(宗教ではありません。哲学でもありません。こころがおしえてくれて、こころがみちびいてくれるところのこと。)

 

追記。

>人として、至極まっとうなこころをもって、生き抜き、できれば世の中につくす。

 

人として、至極まっとうなこころをもって、生き抜くのは、自分のためだろう。これは正解だろうし素晴らしいこととはおもう。

ふつうはこれすら出来ない。ひとのこころすらわからない人生でおわる。

でも自分だけのこと。自分のからに閉じこもった閉じたせかい。

ひとをよせつけず、引きこもったせかい。

英霊の方々のいきかたは、じぶんだけの殻にとじこもってはいない。

そとに開かれたありかた。

 

鬼畜のような人間がいるからむずかしいことではある。だから誰かのためにではなく、ばくぜんと世の中のため。

ひとが目指すべきひかりの方向がそこ、なのかなとおもう。

そのときこころは開かれ、ひかりのなかに進み、とけこんでいけるのではないだろうか。

 

英霊の方々がしめしてくださった恩義は、我々をそこにみちびいてくださるのではないか。

狭小な思想ではなく、ひとのすすむ普遍のひかりへ。

 

追記。

狭小な自己犠牲とかではない、とおもう。そういう捉え方は失礼千万。

靖国であいましょうと散華なされた。靖国は靖国で良いが、あの狭小な靖国ではないとおもう。

国は、このせかいすべてのことだと、捉えるべきだ。

本来なら、争わなくていいせかい。そんなせかいの到来するのをねがって逝かれたのだとおもう。

英霊の方々がおられるのは、争わなくていいせかいだと思う。

あの松岡洋右や白鳥敏夫、広田弘毅らが祭られているところではないだろう。

 

すくなくとも純粋にしずかな靖国だと思う。

現実問題として欧米の全世界植民地侵略は、遂行されていたのだから、それと戦うことは、疑いなく正義だった。

その意味でも、靖国は、やはり正義のために殉国の靖国、としての意味を持つと思う。

 

現在に生きる我々は、そんな靖国の意義を正しく評価しつつ、さらに純化した存在に昇華させないといけないと思う。

現実問題としてあった欧米の全世界植民地侵略への抵抗は、その基盤をなすものの、今生きる我々のみちを照らすひかりとなすべきだとおもう。

そこまでの願いといのりが、散華された英霊の方々の意思を継ぐ私たちに、望まれることではないか。

欧米の全世界植民地侵略への抵抗への評価は当然として、その先に。

普遍的なねがいといのり。一個人としての人生をあゆむひかりでもあり、ひととして閉じこもる殻をやぶって、せかいにひらかれて、人がむかうべきところへの一筋のひかり。

 

〇書かないといけなかったので書きました。

自分自身も良く解っていない内容です。でも書かないわけにはいかなかったので。

政治的な問題は、基本関係ありません。

 

宗教ではありません。哲学でもない。

私のブログの分類にある、オカルト・スピリチュアルの幸運な証明に書いた、経験からのものです。単純な感想といったものでしかないでしょう。あくまで感想です。自分の考えを書いたようにみえるでしょうが、そんな大層なことを目論んではいません。感想です。

まだ何もわからない私の、幸運な経験から眺望したにすぎない、ただの感想です。

それ以上のことを、私は書けるはずがない。

 

良くはわからない。わかるはずがない。でもいつか、わかりたいと思う。いつになるか、わからないが。

少なくとも、わかりたいと思う事がそこにあることはわかった。これからの人生でわかるときが来るのだろうか。

 

 

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追記。

私が通常のたまう日本のためにというスタンスではなく、英霊の方々は、そんな騒々しい所ではなく、もっと高次で静謐なところにおられるのではないか。

そういうところに居て頂くべきなのではないかと思ったのです。

 

我々のような押しかけボランティアがうるさく活動する、その中に英霊の方々を巻き込むべきではないだろうと。

我々が英霊の方々を引き継ぐと粋がるのは、勝手なのだが、あるべき慰霊の在り方は、そんな次元にあるべきではない。

英霊の方々は、人類普遍の領域におられるべきであり、そこまで昇っていただかないといけない。

押しかけボランティアがうるさく活動する中に英霊の方々を巻き込むことは、

逆に貶めるようなことになるのではないか。

こんな感想を抱いたのです。

 

下衆について書きますので、コメント欄に飛ばします。