ある雨の日、不自由な足に下駄 を引摺った一人 の小商人 が藩の上士 ・山田 にぶつかり無礼討ち された。
土佐藩 では士分 以外に下駄 は禁制 。下士 ・中平 は怪我人 に下駄 と雨傘 を与え た親切があだとなり、「御法度 破りの同類 」として山田 のために討ち果たされた。
この一件 は烈しく坂本竜馬 の心魂 を揺ぶり故郷の土 佐を脱藩 させた。
江戸 を訪れ た竜馬 は、かつて剣の腕を磨いた千葉 道場 に落着 いた。
千葉 は時の 幕府海軍 奉行 、勝海舟 を開国論 者の先鋒 とみて、嫌っていた。しかし、竜馬 は海舟を邸に訪ね、立場 こそ違え 互に 国を愛し 、国を憂うる心に違いない ことを知った。
ちょうど、勤王 倒幕 の雄藩 、薩・長 二藩の主導権 争い 激しき折り だった。
慶応元年 。竜馬 は長崎 に「社中 」を創設 し海運業 に乗り だした。だが、竜馬 は海運業 に携わる よりも、中岡 と共に 薩・長 二藩連合 のために奔走 する方が多かった。
その留守 を預る近藤 が「社中 」規約 違反 の廉で詰腹 を切らされ、中岡 は同志 のケチ な差別 根性 を嚇怒した。
同正月 二十日 。竜馬 は長州 の桂と薩摩 の西郷 との間を周旋 して、ついに両藩積年 の確執 と反目 を解消 させた。だが、それと同時に 竜馬 は幕吏 に狙われるところとなり、お良と結婚 したものの安住の地 はなかった 。
が、幕威 に比し薩・長 二藩の実力 は伸長 していた 。この現実 に周章 したのは公武合体論 の士佐藩だった。
土佐藩 家老 後藤象二郎 は竜馬 に助言 を求め た。竜馬 は「将軍 慶喜 をして大政 を奉還 せしめる 」ことを説いた。
慶応 三年 十月 十五日 “朝廷 勅して大政奉還 の請願 を許す”その頃、竜馬 は河原町通 りの醤油 商・近江屋 に下宿 。
十一月 十五日 、風邪 の見舞 に来た中岡 と竜馬 は「新政 府綱領 八策」について議論 した。
刺客 が疾風 の如く 躍り 込りこんで、二人 の生命 を奪い去ったのは、その最中 だった。
高知県立美術館