今日は、お友達が運営している地元ママサークル【はぴきゃリバナナ】の
上映会に参加し、金城幸政 さんのDVDを見ました。

金城さんは、「人間学」講師として、「人間力講座」「子育てと親力」
などの、実体験に基づいた独自のセミナーを全国各地で開催されている方です。
お母さんにとって暖かいメッセージということで本日のDVDが上映されました。


DVDの中で心に残っているのは、
身体感覚、身体感情が大事だということ。
お母さんとの身体的なかかわりが大人になっても人と触れ合うことに抵抗感のない子に育つということだそうです。子供のころにお母さんとたくさん触れ合って、その身体感覚が残っているので、人に対して不信感を抱くことなく関わっていける。子供のころのお母さんとの関係性がコミュニケーションのベースということなんですね。


しかも、抱っこしていればいい。それだけです。

DVDの中にも、助産師さんという出産に関してはプロフェッショナルな方がその知識がある意味邪魔して、子育てに躓いた話をなされていました。
印象的だったのが、プラスチックのコップとガラスのコップを触っても、
その違いが分からない。つまり、その違いが分からないほど、皮膚感覚が鈍っている。
だから、赤ちゃんをだっこしても気持ちいいとかそういうのを感じない。
抱っこするのが苦痛、赤ちゃんとどうスキンシップをとっていいかわからない、そんなお話でした。


お母さんが赤ちゃんを抱っこして、気持ちがいいと感じれば、赤ちゃんも気持ちがいいようです。
そういう皮膚感覚が子育てには大事だと。
『皮膚は露出した脳』
いっぱいいっぱい触ってあげると安心感のある子が育つ。それを金城さんは、『愛着心』とおっしゃっていました。
抱っこをいっぱいしてあげることで愛着心を育てる。

赤ちゃんを全部理解しなくてもいいそうです。ただただ抱く。
金城先生言う抱っこは、一日中ずーっと抱っこしているという意味です。

お母さんたち肩こるだろう~と思って聞いていましたが、
四六時中、飽きるぐらい母親に抱っこされれば、赤ちゃん自らの意思で、抱っこではなく、床で遊びたいと出たがるかもしれないですね。
それは、十分すぎるぐらい満たされているので、外の世界に対して、不安など感じず、遊びたーい好奇心いっぱいで動き出すのかもしれないですね。
私も三人目を産んだら、ぜひずーっと抱っこ試してその行く末を見てみたいですね。
どんな子に育つのだろうか。


抱っこは、何歳からでも可能だということ。
ディスカッションタイムでは、11歳の息子を持つ父親がいらして、
体験談として、息子との関係性の再構築として、抱っこを11歳からやったとおっしゃっていました。
抱っこが人間関係のベースということなんですねー。


そういえば、今朝、うちの娘がお着替えをしてーと駄々をこねてきて、
『じぶんでやってー』と軽くスルーしてしまいました。
明日からは、抱っこ攻撃でいきたいと思います。
抱っこもいつまで出来るかわらないですからねー。
触れられるときに皮膚感覚を味わいたいと思います。

私は、現在、教育コンサルタントとして、学校支援の仕事をさせてもらっています。
もともとは、人が自分らしく輝きを絶やさず、
組織の中で豊かに働くことを願いにコンサルティング会社に就職したのですが、
もともと教職経験があることから、学校支援をまかされ今まで来ています。


主に生徒指導に役立つコーチングを学校に広めることを中心に
学校の総合的な支援をしています。
なんとなく流れに身を任されて今まで来ていますが、
つい最近育児休業中に何日か研修に行き、すごくいい仕事をしているなと感じました。
個人支援もいいけれど、やはり私は組織にアプローチしていきたい。
ひとつ自分がやりたいことだなと感じました。


これからきっと学校教育は変わっていくと思います。
これは私がなんとなく感じていることです。
今でさえ、ゆとり教育が見直され、様々な変化がありますが、
これからもっともっと大きく揺れ動いていくのではないかなと。
だから、自分の娘や息子が学校に進むとき、心からいいなと思える学校に進んでほしいなと切に感じています。自分が教育に携わる仕事をしているのでなおさらです。妥協、あきらめはしたくないなと思います。


今日は、オランダ教育視察の報告会に行ってきます。
何かヒントがあるかもです!


今までは、教育コンサルタントってちょっと頭でっかちな感じでいやだなと思いました。

(今でももっとしっくり来る言葉を捜しているのかもです。)

なんとなく、ママとして、または教育者として「正解者」であらねばならないと思い込みが窮屈で。

自分を自分で縛ってしまうのです。これは教員をやっていたときもそうでした。


でも最近思うんです、一部は正しいかもしれないのですが、一部は違うんだなと。
生身の人間が完璧なはずはありません。
ママとして、子供を泣かせることもありますし、
うまくいかなくて悩むこともある、それでいいのだと。


正解者=完璧。
そんな人いるわけなんです。「正解者」になる必要はないのです。それでいいのかなと。
解は、その人によって、違うわけですから。
失敗から、学べば、それが答えになるわけですから、全部正解なのです。


学校の先生たちも同じだなと。
完璧をを求められるとき、その先生の「個性」が死んでしまうのではと。

もっと先生方は、力を抜いて、自分を自由に表現できる社会があればいいのに。

私が出会う先生方は少し窮屈に見えます。もちろん、うまくやっている人はいます。
もっと自由に、豊かに、表現できる土壌があれば、よりよい学校、社会が出来るのになぁと感じます。


では行ってきます。


これは、今月、長野県佐久穂町のこもれび山荘という民宿のトイレのカレンダーで見かけた
フレーズ。こんなところにも出会い・・・が思いましたが、バッチリキャッチしました。


これからの自分の生き方の指針のひとつになると思う。
自分自身もそうだけれど、自分の子供たちにそうあってほしいと感じました。


最近は、かなり幼いころから、英語教室など、いろいろとお稽古ごとに通う子供が多いですが、
そういう私も娘に、吸収しやすい今のうちに効果的な教育を受けさせてあげたいと、
一時期いろいろ調べまくりましたが、なんとなくむなしさが残るわけで、今はぱたりとなくなりました。


これがいい、あれがいいと、いろいろやってあげてあげるのはいいんだけれど、
勉強ができるからいい子
スポーツができるからいい子
というふうにはしたくないなぁと思うのです。
他者からの評価でしか自分を図れないのは、悲しい。

過剰な外からの枠は目はその子らしさを奪ってしまう気がします。


『生きることは表現である。』


かなり深い言葉なので、自分の理解がまだ追いついていない気もするのですが、
その人がその人らしく生きたとき、その生きた行為自体が表現になるのかなと感じています。
日々の暮らしの中に自分の見る。日々の暮らしが表現、みたいな。
一瞬一瞬を大事に生きるその行為自体が尊いものなのではないかなと。


だから、家庭の中で、娘が自らを表現できる場を作ってあげたいなと。
自然体験をさせてあげたり、家庭の中で自分を意見を言う場を作ったり、お料理を一緒にするのもそのひとつですね。
私たちが形作るのではなくて、その場は提供するが、表現者は彼女でありたいなと。そんなふうに思うのです。


そして、あなたがそこに存在しているだけで、かけがえのないものであると私たちは伝え続けること。
私たち両親は、コーチ的な存在でありたいなと思います。
そして、彼女がいつか自らの意思で、「私は~になりたい。」と言えるようになったらうれしいなぁ。


枠にはめないで育てるって難しいことなのかもしれない。
でも、子供はみな無限大の可能性に満ちた存在だから、その可能性を精一杯応援してあげたいですよね。

まずは、親である私たちがはまっている枠に気づき、それを取り外し続けることが大切ですよね。
今、私は、枠をはずしまくっているタイミングなので、もっともっと軽くなって、『生きることは表現である』と自ら体現できるよう、生きて生きたいなぁと思う今日この頃です。