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三日間 妙心寺で行われた夏期講座:最終日


最後に河野太通管長猊下の特別講座で締めくくり


「おかげさま」のテーマで行われた。



通願と別願…


別願とは、例えばよく子供にする質問

「大きくなったら何になりたい?」の答えのようなもの。

サッカーの選手になりたいとかお花屋さんになりたいとか・・・


ただし別願の根底には通願がなければならないのである。


通願とは「仏になること」 あるいは 「something great」ともおっしゃてました。


私はそれを聞いて


○自分の欲のためではないこと

○世の中に役に立つこと

○人を幸せにすること


それが根底にあることが通願なのかな…と解釈したのですが、あってるのかな?


人は時として、あくなき欲望の追及のために通願が抜け落ちて

欲望の追求が幸せであると錯覚してしまうけれど、人の欲望には限りがないのです。



管長猊下は、いくつか例に出して教えてくださいました。


ガンジーの非暴力については

「非暴力」とは単に物理的な力を用いないことではなく、この世の真理の力を行使すること。

そして、それを唱えだしてからガンジーはスーツを脱ぎ

僧侶の衣に変えたのだそうです。


幸せも世界を動かす力も物理的なものではないのですよね。

人間はとかく物理的なものに振り回されすぎて

いつまでたっても愚かな歴史を繰り返してますね。



また良寛さんの漢詩も。


「毬子(きゅうし)」

  
袖裡繍毬値千金 
自誇好手無等匹  
有人若聞箇中意  
一二三四五六七

(誤字脱字あったらごめんなさい)


私の懐にはきれいに刺繍した毬があり
その値段は値はつけられるものではない

そして毬をつくつき方は私にかなうものはない
「どうしてうまく毬をつけるのか」と誰かに問われたら
「一二三四五六七」と答えてやるのだ

これは単純に毬のことを言っているのではなく

良寛さんの心のことを言っているのです。


私の中にはお金でははかれない

きれいな心がある

この心を上手に使えるのは自分だけである

どうしてそんなに上手に使えるのかと聞かれたら

「一二三四五六七」と答えるのだ


ということのようです。


子供たちと無心に数を数えて楽しむのがいいんでしょうね。


たくさんつかねば…

誰より上手に…

などと考えてはだめだということなのでしょう。



そして話は原発の話にも。

原発を進める人たちの別願には通願があるのでしょうか?


管長猊下はこれが一番おっしゃりたかったのかもしれない。

自分が儲かれば原発もよし

そんな考えがまかり通る

そんな政治がいいわけがないのです。


もし通願があったなら

原発はなくす方向に進むのではないかと思います。



他に「人は生きているうちに仏にならなければならない」というお話がありました。

仏になれば死ぬのが怖くないのだそうです。

もちろん心穏やかにというのが前提でしょうが…


そして生きているうちに仏になれなかった人を

仏にするために葬儀という儀式はあるのだそうです。


死ぬのが怖いという人は、まだまだ仏になれていないということで

そう言われれば政財界には

もうとっくに心穏やかに隠居生活を送ってもよさそうなのに

現世にしがみついてる人、すがりついてる人いっぱいいますね~