レトロロのブログ

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 「でね、リーレがね、お兄ちゃんとSexしたいんだって。」

 聞き間違いだと思い、返事をしないでロックを流し込み、少し頬を赤らめた理沙を見る。

 「聞こえた?」

 「もしかして、リーレが俺とSexしたいって言ったのかな?」

 「そうよ。 何回も言えないわよ、私も少しは恥ずかしいんだから。」

 「どういうこと? ロンドンでそんな話したの?」

 「話をしたっていうより、聞かされた、教えてもらったが正解みたい。」

 「で、どうしてそういうことになるんだ?」

 「来日して1年数ヶ月だけど、何か怖くてボーイフレンドも作れなかったし、今もそうだって。 それで、時々そうしたいと思うらしいんだけど、言葉に習慣、それに妊娠、相手の人柄も解らないで無茶はできないって。」

 まあ健康な若者なら男女問わずSexの希求は当然だろうが、不慣れな外国でいろいろ苦労と共に、欲求不満はストレス障害さえ引き起こしかねないなと心配にさえなった。

 「で俺とという流れになるのかい?」

 「お兄ちゃんは優しいし、リーレの環境を理解しているし、避妊もちゃんとして、そうして欲しいんだって。」

 「それを俺に伝えるのが理沙の役目なわけ?」

 「進んでじゃないけど、リーレが可哀想でしょ。」

 リーレのナイスボディには男として魅力だが、こうなってくると、興味本位で妙なことはできないようなブレーキが作用する気がする。

 「ただね、私はまだSexのことは解らないんだけど、リーレとお兄ちゃんがお互い好きになって国際結婚なんかにはなって欲しくはないの。」

 「理沙、俺はジェントルマンでもフェミニストでもないから、レディファースト圏の女性との結婚なんて考えられないね。 それに、今の話じゃSexフレンドということになるのかなあ。」

 「Sexフレンドって?」

 「簡単にいえば恋愛感情なしでそれだけのお付き合いかな。 まあ話は聞いたけど、ここでどうこうっていう結論でもないから、もうこの話は止めよう。」

 「そうね、変なこと言ってごめんなさい。」

 「ラウンジで呑み直すかな、食べ物もあるみたいだよ。」

 Gパンに着替え、フルーツ盛り合わせや小ピザ、その他で芋のお湯割りをを舐めるが、理沙はぽつぽつ口に運びながら楽しそうに賢を見上げる。

 「夢みたいよ、今の私の生活全部が。 お兄ちゃん、ママとお父さんが居てくれるのが全部そう。 夢じゃないよね。」

 仄暗いラウンジのシートで、理沙の頬にそっとキスした。


 残り1週間の夏休みを、理沙は勉強と料理を楽しそうに頑張り、賢は図書館と道場のルーチンワークで合間に二人で散歩したり、庭で体操して理沙に汗を流させる。

 9月7日午前中に帰るとリレーゼからメールがあり、平日だったので賢一人で〇田に迎えに行った。

 ここは日本だし、派手に抱きつかれてキスでもされたら恥ずかしいと思いつつ待っていると、ゲートを出たリレーゼが控えめに腕を腰に廻し、薄くパールピンクのルージュを塗った唇で挨拶のキスをした。

 「久し振り、元気だった? 理沙がお世話になって有難う。」

 「楽しかったわ。 食事の違いは大変よ。 私もマァムの料理がいいわ。」

 ターミナルや駅、電車の中でリレーゼを振り返る人が、男女の別なく沢山居た。

 「暫く振りで家族に会ってどうだった?」

 「引っ越して安心したみたい。 でもね、ホームに帰って、私はもう賢の家のほうが居心地がいいって思ったわ。」

 「そりゃあご家族に悪いよ。 お昼近いけど、おふくろが用意してるから我慢できる?」

 「断然マァムのご飯よ。」

 事務所で皆と抱き合い、日英入り混じりの会話が飛び交い、待ち焦がれたという母の昼食を食べて、賢はPCを持って図書館に出かけた。

 道場には寄らず夕方帰宅すると、まるでそれが毎日の日常であるかのように、3人であーだこーだと夕食の用意をしていた。

 「リーレ、ホームより楽しそうよ。」

 ホームでのリーレを知っている理沙が聞く。

 「そうでしょ、実際そうなのよ。」

 リーレが再来日して1週間経った平日の昼前、図書館に居た賢にリーレから電話があり、一緒に昼食を食べる約束でリーレの大学に行った。

 カフェで昼食を摂り、紙コップのコーヒーを持って、まだ暑いが風が通る木陰のベンチに座る。

 「理沙から聞いたでしょ?」

 臆することない真直ぐの直球だったが、陽光の中で小気味良かった。

 「聞いたよ、誰でも共通の思いというか悩ましさはあるね。」

 「マァムとも話したの、理沙も一緒に。」

 えっそこまでかいと思ったが、異論は挟まないでコーヒーを含む。

 「マァムは全部理解してくれたわ。 お友達の女性ドクターに、マァムの名前で私用のピルを処方してもらったの。 マァムの知恵と行動力は尊敬ね。」

 言いたいことの想像はできたが、理沙の心を思うと板挟みになる自分が居る。

 「マァムは、理沙を一番最初に心配したわ。」

 当然そうだなと、内心で頷く。

 「本当は私が一番いけないことは良く解ってるの。 我慢するなり、どこかで適当にやればいいことなんだし、賢の家族に迷惑なのよね。」

 リレーゼと理沙の両方の気持ちを思い、肯定も否定もできない自分が居る。

 「理沙は立派だわ、純粋に賢を慕ってて、それに見合う自分になろうと頑張ってるの。 Sexはまだ知らないし解らないそうだけど、賢が私と、或いは他の女性とそうしてもそれは賢がしようと判断したからのことで、理沙が口を挟むことじゃないそうだって。 賢に見合う理沙、少し違うな、賢が一緒に居たい、必要、愛する、その女性に成らなくちゃいけないそうなの。」

 その理沙の考え方は旅行のホテルで聞いたが、自分がその資格があるのかは甚だ心許ない。

 「長々とごめんなさい。 結論は、私とスポーツとしてSexしてもらえないかしら?

 あくまで欲求解消としてのスポーツで、私は賢に心を動かさないわ。 それが私の最小限のルールなの。 だからそれでよければお願い?」

 状況を踏まえた上でのお願いであり、断われば著しくリレーゼのプライドは相当傷つくだろう。

 「了解したよ。 心地よい汗が出せるかどうかだけど、協力するよ。」

 「解ってくれてありがとう、嬉しいわ。 せめて月に1~2回ね。 それと、スポーツの結果はマァムと理沙に報告するわ。」

 「スポーツが下手と判定されて、理沙とおふくろに報告されたら、形無しだな。」

 「それは女の私もお互いでしょ。 正直であるべきだし。 それで来週半ばから生理だから週初めにお願いね。」

 「日英決勝戦だな、昼間のラブホでいいかな?」

 「それはお任せしてお願いします。」



   ((楽しいHシーンをソフトリイに書きましたが掲出禁止になり 

          削除しました。

    読んで頂けなくて残念です。 ごめんなさい。))



 次週の火曜日午後、リレーゼと汗びっしょりの楽しいスポーツを終えて、一緒に帰るのはちょいと気が引けたので、駅で別れ、赤提灯でビールとお湯割りを引っ掛けて帰宅した。

 シャワーで汗を流し、いつもの賑やかな食卓につくと、理沙がすぐに料理を並べてくれて、またビールから始める。

 リレーゼがもう話したのかは解らないが、理沙の笑顔、笑い声がいつもと同じだった。

 米を食べない夕食を終えて、自室で薄い水割りを呑みながらPCの論文に向っていると、風呂を終えたらしい理沙とリレーゼが来た。

 理沙のヘアを乾かすと、理沙にリレーゼがToeic Bridgeの受験を勧めたらしく、受けてもいいか聞く。

 リレーゼによれば、理沙の力なら第1StepのBridgeを受けて、どの程度が確認するほうがプラスだと判断したらしい。

 「どう、受けてもいいかしら?」

 「いいよ。 殆ど毎月あるだろ。」

 PCでサイトを開き確認すると、11月受験の申込みが可能ですぐネット申込みを済ませる。

 「リーレの予想でどれ位かな?」

 「理沙なら80~90%は大丈夫よ。」

 「第1Stepで90%は162点か。 そこまで行ければ次を半年早く前倒しできるんじゃないかな。」

 「理沙、これから二人だけだったらオールイングリッシュね。 いい?」

 「頼もしいな。 入試じゃない相対評価だからリラックスだよ。 何回受けてもいいんだからさ。」

 「賢はほんと理沙に優しいんだね。」

 リレーゼが今日はありがとうと囁き、耳にキスして部屋から出て行った。


 10月に入り朝夕は少し涼しくなったが、昼間はそれでもまだ暑い。

 土曜日の午前10時、お兄ちゃんこれどうかしらと、理沙が駆け込んで来た。

 太腿半ばのチェック柄のスカートで、スラリとした太腿からちょっと風が吹いたり廻ったりすれば下着が見えそうだ。

 「それって高校の冬服じゃねえの?」

 「そうなの。 もうすぐ衣替えだから着てみたらちょっと短いみたいなんだけど、どう?」

 「理沙、それ入学から着てたやつかい?」

 「そうよ、まあショーパン穿くからいいかしら?」

 「いやちょっと待てよ。 そういうことじゃなくて。」

 クローゼットのドアの柱に理沙を立たせ現在の身長をマークすると、入試前の高さより16センチ伸びている。

 「こんなに伸びたんだな。 毎日見てるから気付かなかったよ、凄いな。 ということは今の身長は163cmか。 だからスカートが短くなったんだよ。」

 「やっぱり短いかしら?」

 「いや脚の長さも前と比べよう。」

 スカートを上げさせ、花柄の可愛いちょっと小さいピッタリした下着の股間の付け根をマークすると、前より11センチ高い位置になった。

 「驚いたね。 半年ちょっとで脚が11cm、座高が5cm伸びたんだな。」

 「もうスカート下げていい?」

 「おっ、もういいよ。 きれいな脚とお尻に可愛いパンツだけどそのままじゃ丸見えになるぞ。」

 「ショーパンで駄目かしら?」

 「ちょっとおふくろを連れて来いよ。」

 母に説明すると、スカートの折り返しをみて4cmしか出せないのを確認した。

 「夏服は直前だったからまだどうにかだけど、4cmだしてもまだ短いわね。 いいわ、午後買物に行きましょ。」

 「ママ、出すだけ出して下げて着ればいいから、買わなくていいです。」

 「いいのよ、理沙はそんな心配しなくて。 リーレも連れて何か買ってあげるわ。」

 「おふくろ、身長が伸びると足もそうだし、靴もかな?」

 「お兄ちゃん、そんな贅沢言わないで。」

 「解ったわ、一通り全部ね。 午後よ。」

 「ママ、贅沢しません。 お母さんは小さくなるといい顔しなかったし。」

 「それは直子さんの問題だったんでしょ。 ママは理沙の身体最優先よ。」

 理沙のお母さんではなく直子さんと言い切った母に、母の矜持と強さを垣間見た気がする。

 競馬を見ている父に留守番を頼み、3時に空手道場で小中学生男女の別なく練習相手をして、その後防具を着けた高校生以上と対峙したが、蹴りを入れる相手のほうが痛がるのが殆どで、あまり自身のトレにはならないが丁寧に相手を務める。

 賢が歩いて帰宅するのと、理沙たちの車の帰りと同時で、紙袋の荷物を運び入れて、シャワーを使う。

 夕食後最後に風呂に入り、明日は日曜だし、秋のGⅠ連戦の秋華賞の予想でもして呑むかとまたビールを取り出した時、小さなノックと同時にハーパンTシャツの理沙がそろっと入る。

 お兄ちゃん見てと、ハーパンTシャツを脱ぎポーズを作る。

 「ほーぅ、可愛いじゃん。」

 セクシーの方だと思ったが、一つ前で止める。

 「今日何枚も買ってもらったの。 これはお兄ちゃん用よ。」

 「すっげえ小さいな。 バストも半分出てんじゃん。」

 「だからお兄ちゃんとデート用ね。 D85だって。」

 「そんなになったか。 脚と背も伸びてセクシーボディだな。」

 初めて会った時、小さくて野暮ったい暗そうだった女の子が、1年も経たないのにこれほど変わるかと、感慨と喜びが浮かぶ。

 「初めて会ってから随分きれいに生まれ変わってるよ。 もしか理沙以上に俺が嬉しいね。」

 「ほんとにそう? お兄ちゃんがそう言ってくれるのが一番だもん。」

 そっと寄りかかる理沙にキスして、手を半分露わな乳房に乗せた。


 toeicの試験があと10日ほどになり、明後日プロフェッサーに卒論を提出するという日の夕食時、賢は父母に改めて院の修士課程に進みたいことをお願いし、2年時に希望していたことでもあり、了解を得た。

 日曜日の試験には賢が付き添い、正午前には受付を済ませ、理沙は教室に入り、試験が終わる3時頃までのんびり待つことにして、陽が当たるベンチに座り周りを眺める。

 何となく理沙と初めて出会ってからのことが、順繰りに浮かぶ。

 公園の隅で殴り蹴られ蹲る理沙を助けて、怯える細く小さい、ほんとに中学生かと疑わしいような少女を家に連れ帰ってからのことが、もう随分以前のことのように思える。

 それからまだ1年も経っていないが、理沙は自分の夢と希望を抱くことができて、それを実現するためにひたむきな努力を始め、共に精神と身体が美しく成長している。

 理沙の特質である素直さで、自分のこれからの総てを賢に委ねようとしているが、賢はそれでいいのかという疑問と躊躇いを持っている。

 自分ではない他の誰かであるほうが、理沙のこれからに遥かにプラスになるのではないかという思いが付きまとう。

 またその反面、その思いは卑怯で、一途な理沙から逃げていると責める自分が居て、揺れ動く日々が続いていた。

 ザックに入れておいた温くなったペットボトルのお茶を飲んで、スマホの時間を見ると、試験終了の3時近くで、随分ぼんやり考えていたなと、会場出入口まで歩き、たゆたう思いのまま樹に凭れた。

 やがて受験生らしき人達が出て来て、目ざとく賢を見つけた理沙が、お待たせーと腰に抱き付いた。

 初めて出会った頃は181cmの賢の臍の高さまでしか無かった理沙が、今は胸まであり、ブラに包まれてはいるが理沙本人と共に存在感を感じさせる乳房の感触がある。

 笑顔一杯の理沙に、どうだったと結果予測を聞く必要は無かった。

 その笑顔が、精一杯やったことを体現している。

 秋の午後の陽射しを受けて、笑顔の理沙の肩を抱き、サラサラのヘアを撫でると、今までのたゆたい、迷いがフッと消え、何もかにもが総て腹にすっと落ちた。

 「ありがとう。」

 思わず出た言葉だった。

 「どうしたの?」

 笑顔の理沙が、煌めく瞳を開いて、何の疑いも無いように聞く。

 「どうもしないよ。 ただそれだけ。」

 理沙の小さな荷物をザックに納め、手を繋いで歩き出す。

 信頼して何も聞かない理沙を連れて銀行のATMでお金を下ろし、母に電話させる。

 「ママ、お兄ちゃんが今日の夕食はみな一緒に駅傍の居酒屋にしようって。 はい7時にね。」

 銀〇の宝飾店に行き、サイズを測ってもらって、シルバーの細い5号リングを理沙の左手薬指に嵌めて、8万4千円を払って外に出た。

 細いのでネームを入れることは出来なかったが、それはまた買える時に大きくすればいいというつもりだ。

 「お兄ちゃん、高いのにどうしたの?」

 「まあいいじゃないか、ほんのプレゼントだよ。」

 7時少し前に居酒屋に入り、腰掛式の個室座敷で手を拭いていると、父母とリレーゼも座り、先ず4人分のビールとウーロン茶、焼き鳥と何やかやを注文していると、素早く母の眼が理沙の指輪に留まった。

 「理沙、素敵な指輪ね。」

 「お兄ちゃんがさっき買ってくれたのよ。」

 嬉しそうに左手を挙げると、母が賢の顔を見たが笑顔で濁すしかなかった。

 そこに飲物が運ばれる。

 「理沙、その指輪、毎日嵌めて学校に行っていいわよ。」

 「えっ、ピアスや指輪は禁止なのよ。」

 「いいの。 何か言われたら婚約指輪だって言えばいいでしょ。 もう15才よ。」

 賢と父母の顔を交互に見る理沙の瞳から、みるみる涙が溢れ、感激したリレーゼが小さく拍手する。

 賢は、教養課程の1~2年で一緒で、今も教養学部で考古学を専攻するボート部の次男坊の友達を、いろんな意味でリレーゼに紹介するつもりだった。

 「お父さん、乾杯をお願いします。」

 父が、賢、理沙、おめでとうとジョッキを挙げた。



 ((周囲から、もっと先まで、速過ぎ等の叱咤激励を頂きましたので、勝手ながらもう少し続けます。 お許しを。))


 

 Toeic Bridgeを受験してちょうど1ヶ月後、もうすぐ冬休みという12月半ば、Toeicから理沙宛ての親展封書が届いたが、賢が外出していたので理沙は開封せず、賢の帰りを待ったらしい。

 理沙が差し出す封書を、いいのかと確認して開封し、中のスコア評価の公式認定書を拡げる。

 基礎リスニング1問間違い、リーディング満点で180点満点の178点とあり、ここまでできたかと胸が熱くなる。

 理沙に見せて良く出来たねと褒めると、思いの外、本人は満点のつもりだったようで、いささか不満げらしいが、充分以上だと頭を撫でると、夕食の用意をしている母とリレーゼに見せに行った。

 理沙以外の全員が、高1で大したものと褒めたし、賢にとっては全く門外漢の分野なので、素直に凄いと受け止めた。

 「ならさ、1年前倒しの速さだけど、春休みにToeicテストを受けたらどうだい?

 これは就職要件でも800点とか850点以上とかあるし、基準としては解り易いし、ポジションがはっきりするかな。」

 「そんなに急がなくてもいいだろうよ。 高校生活も楽しみたいだろうし、勉強も頑張ってるんだからさ。」

 父の言葉に虚を突かれ、なるほどまだ1年だし、普通大学時に受けるものだから、理沙にはいろんなことを伸び伸びやってもらうことのほうが大事だと反省した。

 「理沙、ゴメンな。 成績が良かったからついね。 のんびり1年先でいいよ。」

 理沙が天井に視線を上げ、左の人差し指がテーブルを押さえる。

 これは最近気付いたことだが、これは理沙が何かを一生懸命考えている時出る仕草だ。

 「ママ、お願いだけど週に一度合気道を習いたいの。 運動と、少しでも鍛錬したいの。 リーレもそうだって。」

 「私も一緒にしてみたいの。 日本の武道は憧れだけど、空手は痛そうだから無理よね。 理沙と一緒なら心強いわ。」

 「お父さん、最初はお願いしますね。」

 「手続きからちゃんとするかな。 私も極力一緒に行くようにするとしよう。」

 父は合気道連盟支部長で、名誉5段を勧められているが、まだ現役で名誉の年じゃないと断わっている。

 「朋美の袴をとってあるわよ。」

 「それはリーレにあげて。 私は最初はジャージでいいでしょ、続くかちょっと心配はあるの。」

 母がリレーゼに袴の着方を教え、土曜日には4人で道場に出向く。

 心身の鍛錬とまではいかなくても、精神と姿勢を整える目的で、父と仲の良い師範が快く受け入れてくれて、正座から始めるがリレーゼはいささか辛いようで、習慣が違うのだから慣れるまでは我慢しなくて胡坐でもいいからと、師範が優しく呼吸法から指導してくれる。

 「寒い冬に汗流すと気持ちいいわね。」

 「リ-レ、シャワー後のビールがまた美味いぞ。」

 「パパさん、早くそうしましょ。」

 我家の食卓が、朝であれ夜であれ賑やかになって料理、酒ともに美味いし、会話に希望があることがたまらんと、ついお湯割りが進む。

 「理沙、Toeicも頑張ったし、冬休みにさリ-レも一緒にスキーでもと思ったんだけど、そいつちょっと後回しな。」

 「はい、いいわよ。 スキーなんてしたことないし。」

 「うん、いつも何かあると俺達ばっか遊びに行くけど、親父とおふくろさあ、正月温泉で骨休みしたらどうだい?」

 「あらあら、そういうこと。 嬉しいけど、食事はどうするの?」

 「コンビニあるし、どうでもなるよ。 のんびりしてくればいいさ。」

 「はい、気持ちだけで充分よ、ありがとう。」

 結局父母が骨休めに行くこともなく、3人で年末に一泊二日のスキーに行って、初めての二人のコーチをしてボーゲンで降りれるようになるまでにはなった。


 理沙と初めて出会って丸2年経った1月末、偶然下校中の理沙と駅で出くわし、パフェとコーヒーの道草をして帰宅したところ、事務所前で朋美に呼ばれた。

 応接室に男性3人と父、兄が居て、父が紹介は後にするから、このペーペーを読んでみてくれないかと3枚の書類を理沙に渡す。

 一人じゃ嫌だろうから賢も一緒にと促され、理沙が持ったペーペーを横から覗くと、建設会社の北南米地域での経営方針の転換を指示する書類で、相当の極秘書類らしい。

 今までのインフラ建設から、JV企業体を組んでエネルギー開発に着手するというこれからの基本方針の転換を指示するもので、理沙が指差す2~3の専門用語を小さな声で説明して読み終えた。

 「理沙、どういう人が書いたと思うかい?」

 父の質問に、賢の顔を見て、もう一度ペーペーに眼を落とす。

 感じたままでいいですかと聞く理沙に、父がそれでいいからと答える。

 「多分女の人が書いたものだと思います。」

 3人の男性の顔が強張った。

 「それで?」

 「多分日本語を先に学んだ女性の文章で、ひょっとしたら別に原本があるんじゃないでしょうか?」

 制服から出るきれいな膝から少し上の太腿に乗せたペーペーを、テーブルに置く。

 例えばと父が渡した鉛筆で、何箇所かアンダーラインを薄く書き入れる。

 賢は感心し、どうしてそう思うかの疑問はあったが、口は挟まない。

 そこでやっと父が夫々を紹介し、3人の男性の名刺を貰った。

 年長者で60才くらいかなと見当をつけた男性が、最大手の建設会社代表取締役副社長で、同じく代表取締役専務北南米担当と、取締役法制室室長の層々たる3人だった。

 賢は知らなかったが、今まで何度となくこの会社の国内外の訴訟を事務所で請負い、丁寧な対処をしてきたことで、非常にデリケートなこの問題を持ち込まれたらしかった。

 昨年11月に、この会社の北南米での経営方針の転換を指示する極秘書類が人手で北南米子会社に渡されたが、それがこの3枚の書類で他の1社にリークされたというこで、誰がと、始末を含めての相談らしい。

 父が賢を東〇大学院工学部修士課程1年、理沙を女子高2年、Toeicテスト975点と改めて紹介すると、3人の顔付が変わった。

 この会社の法制室その他の中の社員でも905点1人が最高ということで、二人を見る3人の理沙を見る眼が全く変わる。

 去年、高2の夏休みにToeicテストを受験し、990点満点の975点だった公式認定証を見せて、3人を納得させ得たことが、自分のこと以上に嬉しい。

 理沙は、夏休みにToeicSWテストを受けるために、今はいろんな表現方法をリレーゼから習っている。

 この相談の慰めは、まだこのペーペーでは方針変更だけで具体的手法には触れられていないことで、それもやがて決定するという段階であるらしく、これ以上の漏洩は許されないことで、そうなれば3人の責任問題にもなりかねないらしい。

 「リ-レにも見てもらったほうがいいと思います。 一人より二人の意見を聞くべきでしょう。」

 高2とは思えないほどのしっかりした意見を、理沙が口にする。

 リレーゼの帰りを待ち、やはり理沙と同じ答を聞いて3人が帰った。


 もうすぐ高2の3学期が終わろうとする頃、賢は理沙から相談を受けた。

 1年後の大学進学について、現付属女子高の大学へ特待受験か他大学か若干迷いがあるようだが、特待のほうに決めたいようだった。

 「女子だけがいいし、特待なら少しは親孝行かしらね。」

 「いや費用は別だけど、やっぱ共学だめなん?」

 「家族以外の男性はいやね。 お兄ちゃんだけでいいよ。」

 「あの女子大は変革しだして評判は良くなったけど、まだ評価は定まってないようだけど。」

 「大学の評価がどうかじゃなくて、自分が何をするかでしょ。」

 「そこまで解ってればもう言うことなしだな。 決定して、おふくろ達に報告でいいよ。」

 特待入学は大学側の希望でもあり、両者の利害が一致し、理沙が自分のすべきことをしっかり睨んでいることもあり、両親の反対は無かった。

 春休みに入り、母と理沙が買物に行き、黒とグレーのパンツとスカートのスーツとヒールシューズを着て見せてくれた。

 「おっ、似合うよ。 もう大人のレディじゃん。 また伸びたのかな、測ろうか?」

 返事の前にスーツを脱いで、花柄の下着とブラだけになり、クローゼットの柱前に立ったので、身長と脚をマークすると、身長が167cmで脚と座高が2cmずつのびている。

 「ナイスプロポーションになったな、抱き着きたいね。」

 「胸がE86だって。 お兄ちゃんならいいよ。」

 1年前から生理が始まったことは聞いたが、細く締っているのにバストはあり、白い裸身は見事に育っている。

 「いやまだ先だな。 余計な負担になっちやいけねえし。」

 「ねえ、アンダーヘアはまだなんだけど、やっぱりおかしいのかしら?」

 「人夫々だから気にすることねえよ。 無いほうがすっきりするかもな。」

 「お兄ちゃんが良ければいいわ。」

 スーツを買った3日後の木曜日の夕方、父、兄、理沙、リレーゼの5人がスーツ姿で出かけたのは、超一流の料亭だった。

 この前の建設会社が設けた席で、情報のリーク元を掴めないまま動き出していたら、何百億、何千億もしくは兆単位の損失になる可能性があり、それを防ぐことができたことへの取り敢えずのお礼ということだった。

 この前のリーク文書は、現地法人子会社の課長の奥さんが滞在5年予定の3年目に情緒不安定になり、夫が持ち帰った文書を書き換えたことが原因らしく、社内背任を事前に摘み取ることができたらしい。

 新年度から、父の事務所はこの建設会社グループの顧問弁護士契約を結ぶことが決定して、ますます忙しくなるが大きな張り合いのようだ。

 副社長のごゆっくりどうぞから始まり、珍しい料理をおいしいと食べる理沙と、大吟醸を呑むリレーゼに20万入りの白封筒が渡される。

 「ほんのささやかなお礼です。 もしお二人が宜しければ会社にお越し頂いて海外からのメールや書類をチェックして頂けるのであれば、僭越ですが先ずは時給1万をお支払致します。 お二人は弊社にとって高能力の人材であると考えています。 お兄さんも入社頂きたいとまで思っております。 これは社交辞令ではありませんので、早急に一度来社して頂ければ幸いです。 蛇足ですが理沙さんは高校生ですので、そのことは当方で配慮させて頂きます。」

 家族構成については、父が話しているようだ。

 豪華な食事が終わり、2次会へは父、兄、リレーゼが行き、賢は理沙を連れて、母にお土産を買って帰宅した。

 まだ呑み足りない賢が緩く暖房した自室で呑んでいると、風呂を終えた理沙が、お菓子とジュースを持ってラフな服装でソファの横に座った。

 「ノーパンノーブラかい?」

 「そうです、お兄ちゃんだけだからよ。 明日郵便局に一緒に来て。 預けるから、一人じゃ怖いし。」

 「ああ、いいよ。 ところで小遣いいくらもらってんの?」

 「5千円だけど殆ど使わないわ。 おやつはあるし、お洋服もママが買ってくれるから。」

 「だけど自分で欲しい物もあんだろ?」

 「ううん、そんなに欲しい物なんてないわ。 先にママやお兄ちゃんが考えてくれるし、ノートやシャーペンの芯くらいだもん。」

 改めて、いまどき珍しく慎ましいなと思う。

 「それよりね、リ-レ、やっぱりお兄ちゃんがいいんだって。」

 Hのことに思い至るまでに、暫く時間が掛かった。

 「そんなこと話してんのか?」

 「だってママと3人で隠し事無しだもん。」

 種類と限度があるだろうと思うが、理沙とリレーゼ夫々の生い立ちと環境を考えれば無理も無いことかもしれない。

 「紹介したお友達と月1回会ってるけど、お兄ちゃんの方がしっくりフィットするそうよ。」

 「そう言われてもよ。」

 「お兄ちゃん、理沙は全然構わないのよ。」

 「可愛い顔とナイスボディでそれって、物凄いこと言ってんだぞ。」

 「ママがね、お友達を紹介したのはお兄ちゃんのけじめと、筋を通した潔さだって。 ねえ、私へのけじめとしてそうしたんでしょ?」

 「まあそれもあるけど、いろんな意味でだな。」

 「とても嬉しいんだけど、お兄ちゃんだって時々はHしないと辛いんでしょ。 そのことのほうが申し訳ない気がするし、心配なの。」

 ここまで聞いて、理沙が何を言いたいのかおおよその想像はできたので、お湯割りからロックに変えて、一度きりのリレーゼの裸身を思い浮かべる。

 「理沙に遠慮しないで、リ-レとHして下さい。」

 やっぱりそういうことだなと、ロックを流し込む。

 「言葉も習慣も違う外国に一人で来てるリ-レが可哀想なの。 私だってたった2週間だけど大変だったし。 だからできるなら少しでも良い方にしてあげたいの。」

 まあ本音としては有難いと思うが、それでも心のどこかに当て馬であるような、微かにザラッとする引っ掻き傷のような感触がある。

 「リ-レがセンシティブは大事にしつつも、合理的に割り切るって。」

 「おふくろは何か言ったかい?」

 「ママは、あとを引かないのであれば、上手くしなさいとだけだったわ。」 

 そこまでの共通認識があるのであれば、もう細かなことをグチャグチャ気にせず、ドライに割り切ろうと腹を決める。

 「解ったよ、心配や思いやりを全部飲み込んで、3人一両得になるようにするしかないな。」

 「ありがとう、リ-レが喜ぶわ。」

 まあ月に1回あるかないかくらいのことだし、スポーツだと納得したところで、理沙の腰を抱き寄せ、タンクトップの下に手をいれ見事に張り詰める乳房をそっと掴む。

 「お兄ちゃん、理沙とSexしたいの?」

 「もちろんそうさ。」

 「お兄ちゃんがしたいのなら、、、してもいいです。」

 この際だからはっきり言っておこうと腹を決めて、理沙の右手を両手で握る。

 「俺は理沙が大好きだ、可愛い顔と見事な身体は当然だけど、それ以上に理沙の心が大好きだよ。 素直で慎ましいが芯の強さもある理沙の全部が大好きだ。 しかし今はまだだよ、夏にはToeicS(スピーキング)W(ライティング)テスト、12月に特待試験があるだろ。 近いうちに必ずそうするけど、余計な負担にならないようにさ。 Sexするしないで変わることは無いから、ずっと二人で手を繋いで歩こうよ。 俺は理沙だけだからね。」

 「はい、理沙はお兄ちゃんと手を繋いで生きます。」

 理沙を抱きしめ、額に約束のキス、唇に愛情のキスをした。



  ここで一時終わります。  続編はいつか近いうちに。

  ありがとうございます。      by レトロロ  

 

  

 

 

 

 

 

 

 

  

 

  

 


                                     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

  

  


 ただいまとリビングに声をかけ、帯以外の道着と袴を洗濯機に放り込み、ちょっと寒かったが3Fのシャワー室で汗を流して、先ず500の缶ビールを流し込む。

 一息ついて、1本だけにして2Fに下りると、リレーゼを交えた食事が終わったばっかりのようで、ビールを取り出していると、里沙がさっと自分の皿を片付け賢のおかずを用意してくれる。

 「ありがとう、しっかり食った?」

 「しっかり食ってお腹一杯よ。」

 「おふくろ、道着洗濯機に入れたから。」

 「ママいいわ。 あとは里沙がしまーす。」

 「リーレ、お箸はどうだい?」

 「まだまだね。 マァムの料理、とてもおいしい。」

 「今日2回目だっけ。 結構遅いから泊まれば?」

 ビールを流し込みながら何気なく言ったつもりだが、リレーゼは驚いて眼を丸くした。

 え、俺何かまずいことを言ったかと里沙を振り返ると、流石おにいちゃんだね、もう泊まることにしたのよ、ねーと手をリレーゼに手を振る。

 それから里沙とリレーゼの英会話が始まった。

 「うちの家族とても優しいんだって。 お兄ちゃんがママやお父さんと同じこと言ってくれたって、感激してる、リーレ、そうよね。」

 「そうよ、んーとね。」

 チラシの余白に英語を書き付け、里沙が辞書を持って来る。

 飾らない素朴なまでは解ったが待っていると、里沙は、飾らない素朴で率直な優しさとパーフェクトに答える。

 父が風呂に行き、母と里沙が洗い物を始めた。

 リレーゼは、理沙がこの家族の一員になった経緯を時間を掛けて聞いて、涙を流して感激したらしい。

 お湯割りに変えて話を聞いてたが、リレーゼがシャワーを使うのに暖房を教えると驚き、父のあと理沙は風呂に行った。

 「ケン君、ご飯はいいの?」

 「うんいいよ、まだ呑むから。」

 「じゃあチーズと生ハムね。 メロン、あの子たちにもよ。」

 「OK。」

 自分の皿を洗い、つまみとお湯割りを持って自室に上がった。

 呑みながらネットの新聞を見ていると、ノックと同時にドライヤーを持った理沙と、頭にタオルを巻いたリレーゼが入ってきた。

 2人をソファに座らせ、リレーゼに缶ビールを渡し、理沙のヘアを乾かして、ドライヤーを

リレーゼに渡すと、ミートゥーの返事に思わずリアリィと聞いてしまった。

 セミロングのブロンドヘアーを温風を離して当てて、ゆっくり乾かす。

 理沙とメロン、ジュース、ケーキに氷とグラスを運んで2次会が始まる。

 二人ともハーパンTシャツで、リレーゼは165以上あるだろうか、ブラ無しなのようで胸が砲弾のように突き出ている。

 スラリとして英国人として大きいほうではないようだが、派手ではないけれども、何時の間にか眼を引きつける煌めきを持っている。

色白の理沙と、白人のリレーゼが頬をピンクに染めて座る絵は、異次元の世界のようだ。

 「ほんとに二人仲がいいのね。」

 ビールを空けて、ハイボールを含んだリレーゼの一声だった。

 「リーレ、兄妹は?」

 「2つ上の姉と弟が二人ね、 夜一人になると淋しい。」

 「そう、解るわ、私がそうだったから。 ここに居る時はお兄ちゃんと慰めてあげるね。」

 「理沙もここの家族もみんな優しいね。」

 「リーレ、いつでも来ればいいよ。 2回って区切らないでさ。 な、理沙。」

 「そうよ、その方がハードスタディできるしね。」

 「ノーペイでいいからそうしたい。」

 「ノープロブレム。」

 二人同時の返事だった。

 リレーゼが顔を両手て覆うと、一回り以上も小さい理沙が抱きしめた。

 「美女と妖精だな。 理沙、リーレ、会えて良かった、それで充分だよ。」

 そのあとは、美女と妖精の笑顔で、久し振りに腰を据えて呑む酒が美味い。


 春休みの間に日帰りで〇〇ランドにも行き、お祝いに父から腕時計、母は新しい携帯をと思ったらしいが、賢のお古のままがいいと、シャーペンとボールペンのセットを贈り、中学卒業祝いと誕生日も、理沙の希望で自宅でのパーティになった。

 食事と精神的なものだろうか、理沙の身長が伸び始め、身体にも丸みが少し見えるようになった。

 リレーゼが週に3回、4回と来るようになり、時には泊まって母の食事をおいしいと食べるようになり、特に和食が美味しくて身体にいいと喜んでいる。

 6畳のワンルームではバーガーやカップ麺が多いらしく、心配する母が野菜の煮物や、魚の煮付け等を食べさせている。

 暖かくなった桜花の中での理沙の入学式は母が付き添い、チェック柄のスカートを膝上丈にして、ブラウスにブレザーの制服姿は、中学時とは全く変わり少し成長した可愛い女子高生スタイルになった。

 事務所前の階段で、全員での写真を何枚か撮り、自室でのツーショットを、理沙は携帯の待受け画面にする。

 「2駅だけど痴漢には用心してくれよ。 何かあったらすぐ俺かおふくろに電話するんだぞ。」

 「はーい、そうします。 大丈夫よ、レディース専用に乗るし、下着の上にスポーツショーパン履くから。 でも心配してくれて嬉しいな、ありがとう。」

 賢はデスクの引き出しから1冊の文庫本を出す。

 「これは俺が一番好きな本で、できたら読んでみてくれないか。」

 ロバート・ブラウン・パーカーのスペンサーシリーズの中の初秋だ。

 まさか本を渡されるとは予想外だったようだが、読んでみると受け取り、着替えに下りていった。

 理沙の登校初日、大学から空手道場経由で帰宅すると、待っていたらしく、部屋に入ったとたん、理沙が抱きつく。

 「どうした?」

 「ポールって少年、理沙じゃない? スペンサーはお兄ちゃん。 お兄ちゃんは、同じに理沙を思ってくれるんでしょ?」

 大人の男と少年の、痺れるような思いやりと甘酸っぱい優しさを感じてくれたようで、その理解力に安心した。

 「ロケーションは違うけど、同じだよ。 理沙は大事な宝石の妹だからな。」

 理沙が背伸びして、唇を合せる。

 ホテルのバスルームでのファーストキスだったが、リレーゼが来るようになって挨拶代わりのキスをするようになり、リレーゼは母や姉ともキスしている。

 「ほんとに同じよ。 お兄ちゃんが居て、見てくれるから安心して余計頑張れます。」

 入学式翌日の登校から、面白い生活リズムが生まれた。

 リレーゼが泊まった翌日は二人でレディース専用、それ以外は賢がなるべく一緒に普通車両で登校するようになり、昼間の一日が充実して消化できるようになったことだった。

 それでも、賢は自戒も含めて理沙に注意した。

 「生の英会話をしてるからって、思い上がらないことだよ。 先ず授業をしっかり理解することだな。 未知を教わることだからとにかく先ず授業の理解、偶々知ってることは復習のつもりで疎かにしないこと。 それだけで基礎は身に着くし、パーソナルでやることはプラスアルファの努力だから。 謙虚に授業第1だよ。」

 「はい解りました。 横着なんかしません。」

 理沙は、素直に受け入れてくれた。

 暖かくなるにつれて、ブレザーがベストにそして半袖の白のポロシャツになり、眼に見えて理沙の身体が成長してきた。

 身長を測ると前のマークから5cmは伸びて、胸も膨らみ、ブラを着けたようだったが、家の中では相変わらずノーブラのハーパンTシャツでいる。

 その所為だろうか、制服のスカートが少しミニになった気がする。

 中学時のことを誰も知らない環境に変わり、楽しそうに伸び伸びと高校生活を送っているが、母の料理も手伝い、覚えているようだった。

 最近知ったことだが、小中学生時に本を図書館から借りて相当の冊数の文学書を読んでいて、英会話でリレーゼの専攻の日本近代文学の話を始めていることには驚かされた。

 理沙とリレーゼの会話で、〇谷の女性専用ワンルームマンションが家賃8万8千円で、学費不要の交換留学生でも、バイトも制限されなかなか生活が厳しいことをこぼしたらしく、それを正直に理沙が母に伝えたらしい。

 理沙が学校で、賢が昼過ぎに帰宅した時、事務所の応接室に呼ばれると、父母、兄姉が居た。

 「理沙から聞いたけど、リレーゼの家賃が8万8千円で大変らしいの。 何かできないかと思ったら、うち1部屋空いてるのよ。」

 ゲッ、まさかもう一人碧い眼を養女にしようって訳じゃねえだろうなと、少しびびった。

 「家賃9万なら、水道光熱費を倹約しても合せて12万近いでしょ。 それに食費、衣服、交通費、携帯、ネット、いくらあっても足りないわ。 病気したらそれこそ大変でしょ。」

 リレーゼがキャバクラに居れば毎日だけどなとの微かな夢はあったが、マジでアンタッチャブルの碧い眼の妹が一人増えんのかと、男の浅はかな期待がしぼむ。

 「で、妹が増えんのかい?」

 母が驚いて笑い出す。

 「まさかそれは無いわよ。 偶々一部屋空いてるから、リーレが来ないかなと思ったのよ。 お父さんに相談したらいいんじゃないかって。 昌一さんと朋も同じなのよ。」

 妹じゃなくて下宿人かと、そこは腑に落ちた。

 「ケンくん、どう?」

 「いや急にどうつったって。」

 「まあそれでね。 家賃ゼロにすれば住居光熱費の12~3万は浮くでしょ。 その代わり、英語教師代は無し、それで食費として1万だけ入れてもらうの。 食費ゼロでもいいんだけど、僅かでも払っていれば居候じゃないし、変な遠慮しないでいいでしょ。 3万ちょっとのバイト収入は無くなるけど、12~3万の必要経費が1万で済むじゃない。 どうかしら? 朋美がお世話になったんだし、回り廻ってそのお礼でね。」

 どうかしらって、居候なんて死語まで引っ張り出して、まるで大岡越前の3人一両損と同じだと笑えた。

 「笑ってないで、どうなの?」

 「まあ通学時間がプラス20~30分という物理的負担は増えるけどね。」

 父が冷静に、金銭以外の環境変化を見出す。

 「まあ俺はいいけど、リーレ本人がどうかだよな? それに理沙の意見も聞くべきだろうね。」

 「それは勿論よ。 夕食時に聞きましょ。」

 しかし、あの色白ブロンドに砲弾バスト、アンダーヘアにあそこの具合はどうかなんて、男だったら誰でも思うよなと顎を撫でた。

 とはいえ、若い女性が二人も傍に居れば、グリーンチャンネルならまだしも、HDVDやエロ映像は大幅に制限されるなと、直接被害に思い至る。

 今日はリレーゼは来なかったが、夕食時に早速母が切り出した。

 「理沙、一昨日リーレが家賃が大変だって言ったじゃない。 それで一部屋空いてるから、リーレに家賃ゼロで貸そうと思うんだけど、理沙どう思う?」

 理沙が箸を止めて、母を見て、父、賢と視線を移す。

 「ママ達ほんとに優しいのね。 そうねえ、リーレは喜ぶと思うけど、ちょっと一つあるんだ。」

 諸手を挙げて賛成と思っていたらしい母が、意外そうな顔になった。

 「一つってなに?」

 「うーん、何となくだけど。 リーレは、お兄ちゃんが好きみたいなの。」

 賢は呑んでいたビールを噴出しそうになった。

 「はーん、理沙はそれがいやなわけ?」

 「えー、いやっていうか、なんかちょっと悲しい。」

 「そうね、理沙はケンくん総てなのよね。 でも今だってよく来てるから同じじゃないの?」

 「そうだけど、やっぱり一緒に居れば違うでしょ。 だって私がそうだし。」

 「解ったわ。 大事な人様の娘さんを預かるんだし、まして外国の人なら尚更ね。 そうなると一番重要になるのは、ケンくんの理性と自制心ね。 ケンくん、大事なお嬢さんお預かりするのに、男として決して変なことしない、あちらのご両親に私達が顔向けできないようなことをしないって約束して。 ケンくんの理性と自制心に掛かってますからね。」

 何で最後に俺にケツが廻って来るんだとぼやきたくなるが、妙な返事はできないし、理沙の手前、渋ることもできない。

 「ああ俺は大丈夫さ。 馬鹿なことはしないよ。」

 言ったあと、ビールを急いで流し込む。

 「じゃOKね。 お父さん、今度リーレに話しましょ。」

 父が、賢の心中を見透かしているかのように苦笑いして頷く。

 お湯割りをつくり、一息に半分ほど空ける。

 これからどんどん薄着になっていくだろうに、あの色白ブロンドに砲弾バストのプロポーションを眺めるだけとは、これはもう神が与えたもう地獄の苦しみの呪われた試練として受け止めるしかなかった。


 翌日、大学から空手道場コースで7時過ぎに帰宅し、リビングにただいまとシャワー先の声をかけて、3Fのシャワー室でびっしょりの汗を流した。

 下着無しのハーパンで、我慢したビールが実に美味い。


       ((東京優駿 OFFでした。 I beg your pardon. ))


 夕食を終えて3人の女性のデザートタイムになった時、父と賢はまだ呑んでいたが、母が切り出す。

 「リーレ、理沙から聞いたけど、家計のやりくりが大変みたいね。 理沙を怒っちゃだめよ、貴女を心配したんだから。」

 「恥ずかしいけど、そうです。 理沙、心配させて御免なさい。」

 「それで突然だけど、リーレさえ良ければ此処を貴女のマイホームしたらどうかしら? 一部屋空いてるから、使ってもらいたいんだけど。」

 「What did you sai? What is your matter with you?」

 リレーゼは驚いたのだろう、ストレートな質問が英語で出た。

 「理沙は3Fの空き部屋に上がって、今の部屋をリーレが一人で使うの。 家賃は無しでいいのよ。 そうすれば今のワンルームの経費12~3万は無くてすむでしょ。 但しね、英語教師バイト代はゼロ、そして食費を月1万払ってもらうの?」

 「Why? どうしてそんなことを考えるんですか?」

 考えたのだろう、だいぶ間があった。

 「そうね、リーレが心配だからよ。 お金のこと、それ以上に貴女の健康かしら。 理沙も同じだったけど、毎日の食事がバーガーやカップ麺じゃ、若いリーレの身体に良くないわ。 此処ならちゃんとした食事ができるからそれが一番大事でしょ。」

 「でも他人ですよ。 それに日本人でもないのに?」

 「ご両親、ご姉弟が一番心配されてるわ。 私たちも朋美の留学中はそうでした。 外国で一人暮らしのリーレにしてあげれることは何か考えたの。 外国人とかそんなことは関係ないわ。 二人の娘の親として、できることをするのよ。 どう、OKしてくれる?」

 「とても嬉しいです。 夢みたい。」

 「じゃあ承諾ね。」

 「待って下さい。 マァムやみなさんは、私が居たら迷惑じゃないんですか?」

 「きれいなお嬢さんが増えたら賑やかになっていいんじゃない。 お父さんはどうかしら?」

 笑顔でお湯割りを含んでいる父が、考えながらゆっくり応える。

 「碧い眼の若くてきれいなリーレが居れば、男性として嬉しいし楽しいね。 今もそうだし。 それに、英語に慣れ親しむことができるよ。 更にだね、日本だけの習慣やマナー以外に、ワールドワイドな感覚を習得できるかな。 むしろ私達のほうがプラスが大きいんじゃないかな。 これからの理沙と賢にとっては、とても重要なことだよ。」

 男性としての視線と、プラスアルファを冷静に分析して、正直に伝えた父に、さすがと思った。

 「だそうよ。 賢と理沙も同じでしょ?」

 賢は頷いてグラスを上げ、理沙はリレーゼの頬にキスをした。

 「嬉しい、有難う御座います。 けど、両親に話をしないと。 電話は高いし、携帯メールでは書き切れないので、エアメールで報告して許可を貰います。」

 ここで賢が一つ提案した。

 「リーレ、手紙は時間がかかるから、自宅にPCがあれば、僕のノートPCでメールを送れば早いよ。 返事はリーレの携帯にOKかNOかしてもらえばいいさ。 理沙、そのメールに入学式の写真を添付してあげれば、顔も解っていいと思うよ。 部屋の写真なんかもだな。」

 「みんな優しいのね。」

 リレーゼのブルーの瞳から涙が溢れた。

 2日後の朝、リレーゼの父母から事務所に電話があり、リレーゼと理沙を通じての会話で、感謝と共にOKが出た。

 リレーゼの実家はロンドンのインフィールドと聞いても解らないが、父母とも銀行員であることだけは理解した。

 それからの諸手続きは、手分けして速かった。

 ワンルームの解約、大学や大使館への住所やパスポートの変更等、瑕疵なく終えて、2週間後の6月初めには2t車のレンタカーで多くも無い荷物の引越しを済ませた。

 事務所の経費でノートとデスクのPCを2台更新し、ノートをリレーゼ、デスクを理沙が使うことにして、理沙は賢の隣の部屋に来た。

 此処に引っ越す前に週の半分は泊まっていたこともあり、違和感なくリレーゼが溶け込み、どちらかの部屋で笑い声と英会話が聞こえる。

 そして賢が居る時は、3人で話すのは勿論楽しいのだが、二人ともノーブラの薄着で、理沙はまだしも、リレーゼのボディに悩殺され、たまらず股間が盛り上がるハーパンは止めてGパンを穿くようにした。

 そんな男の苦労を理沙は多分知らず、毎日の勉強とプラスアルファの実践で、リスニングとスピーキング力を眼に見えて向上させている。

 理沙のTOEICチャレンジについて、リレーゼと話し合った時、そのことを理沙から聞いていたリレーゼは、最初の半年で正確なリスニング、次の半年で正確に相手に伝えるスピーキング、そして最後にいろんな表現を教える予定を持っていることを確認してとても心強かったし、考えてくれていることに感謝を伝えた。

 私にできることで理沙の英語がうまくなって、ケンが喜んでくれるなら、私だって嬉しいわと、チュッと唇を合せたあと、視線を絡ませてネットリとキスをして、舌まで入れて全身を密着させる。

 私の気持ちよと、ノーブラの砲弾バストに賢の手を載せて、自室に戻った。

 張り詰めるバストの感触と、甘い吐息が残り、カチカチに獰猛になった股間がたまらなかった。

 

 7月9日の1学期末テストで、理沙は英国でトップ、数学で3番、全体でトップという成績になり、11日(木)にささやかなお祝いの夕食時、リレーゼが一度ロンドンに帰ると言い出した。

 一昨年の9月、ロンドンのカレッジに入学し、翌年4月交換留学生で来日して1年4ヶ月、一度も帰ってないので家族に会いに帰ることを決めたという。

 勿論、ワンルームの賃貸料が浮いたことが大きな要因で、なら大学はすぐ夏休みだからもうすぐだろうし、嬉しいだろうなと聞いていた。

 「それでね、理沙がよければ夏休み中、うちにホームステイしないかな?」

 「えっ、私がロンドンに行くの?」

 「そうよ、どう? ここほど広くはないけどベッドルームもあるし。 高1の理沙にはいい経験になると思うの。 もう今の理沙は言葉は大丈夫よ。 だけどマァム、往復のチケット代はお願いします。 あちこち案内するから、夏休み一杯居ればいいわ。 両親にはお願いしてOKだし、姉や弟達も楽しみだって言ってるわ。」

 理沙は、どう返事していいか解らないみたいで、ケーキのフォークを握り廻している。

 「そうね、理沙にはいい経験になるわよね。 でもご家族はほんとに許して下さってるの?」

 「そうよ。 家族も初めてのことだし、写真を見て楽しみですって。」

 リレーゼが越して来て、ご両親から早速スコッチウイスキーとワインが届き、こちらからも大吟醸や日本の食品をリレーゼの解説付きで送り合っている。

 「お父さん、有難いいい機会だし、理沙のためにどうでしょう?」

 「ママ、駄目よ。 お金がかかるし、そんな贅沢できません。」

 「お金は別よ。 滅多に無いいいチャンスじゃない。 それとも行きたくないの?」

 「それはちょっと怖いけど、リ-レが居るから行ってみたいかな。」

 「お父さん、どう?」

 「往き帰りは一人だけど、リ-レが一緒なら安心だし、いいんじゃないか。」

 「パパ、往きは理沙の休みに合せるから一緒よ。 帰りだけ、先に一人ね。」

 「そうしてくれるなら、より安心だわ。 理沙、行ってらっしゃい。」

 「ほんとにいいの。 ママ、お父さん、リ-レ、ありがとう。」

 「賢クン、安いパックツアーで併せて何日か行ってみる? ホテル泊でしょうけど。」

 大学生になって、香港、韓国、北米に格安ツアーで友達と行ったが、アメリカカナダで、3日で麺と米への枯渇でハードな辛い経験があり、ましてや食事が美味しくないと言われている英国に行くつもりは毛頭無い。

 「俺はやることがあるし、行かないよ。」

 食事のことは言えなかった。

 「ロンドンではどこに行ってみたいんだ?」

 「そうねえ、これから調べるけど、先ずは大英博物館かしら。」

 「あそこはね1日じゃ無理だから、2~3日通えばいいわよ。」

 翌日からパスポート申請や航空チケットの手配を初めて、夏休みの2日目から3週間の予定も決まり、到着前に届くようにお土産その他を2箱送った。

 

 朝10時に羽〇から二人を母と見送り、家に帰ると二人が居ないせいか、何か家が広い。

 二人が外出してもそう感じたことは無かったが、ちょっと不思議だった。

 特に母は夕食を作る気にならないようで、3人で鮨屋に行った。

 理沙にビデオと自分のスマホを持たせたので、以前の携帯でガールフレンドに連絡してラブホにも行ったが、どうも二人の顔やリレーゼの砲弾バストの感触が甦り、あまり集中して楽しめなかった。

 息抜きは別にして、論文と両道場で汗を流し、理沙から毎日報告メールが届いたが、出発して11日目に突然もう帰りたいとメールが来た。

 何かあったのか理由をとメールを返すと、ママのご飯が食べたい、お兄ちゃん、ママ、お父さんと一緒がいい、日本食レストランに2回行ったけどママのご飯でないともう駄目と即返してきた。

 ホームシックだろうが、初の試練に泣きが入った理沙が愛しく、すぐ父母に報告し、リレーゼに隠さず正直に理由を伝えて、フリーチケットの飛行機を確保するように返事を返した。

 翌日、“理沙が正直に言ってくれて了解しました。 私もこちらよりマァムの料理が美味しいです。 明日の飛行機が確保できましたので、理沙を乗せます。 詳しくは理沙に確認して下さい。” とリレーゼからのメールが来た。

 まあ、我家よりじゃなく、こちらよりとしたのが、リレーゼのプライドかなと思える。

 理沙から明後日の午後2時に成〇着、お迎えお願いの甘えたメールが届き、了解、最後まで注意してお帰りと返す。

 父母に早速話すと、何となく気が抜けたようだった母の背がしゃきっとした気がする。

 理沙のお迎えに電車で出掛けると、何日かぶりに小さな恋人に会うような、楽しいウキウキ感があるのが不思議だった。

 税関出口で待っていると、キャリーバッグを引いた理沙が先に賢を見つけて駆け寄り、周りの眼も憚らずただいま、逢いたかったよと抱きつく。

 薄いピンクの半袖ポロシャツにホワイトジーンズの可愛い姿が、2週間くらいだがまた少し大きくなったようで、ブラジャー越しの主張を始めたしっとりする乳房が押し付けられる。

 「お兄ちゃんと一緒が一番いい。 ママに電話するね。」

 母と暫く話して、キャリーバッグを引く賢の左手を抱き込み歩く理沙に甘いパフェ、賢はビールを呑んで、トイレを済ませて電車に乗るのに、さっきまでと腕に当たる感触が違う。

 「さっきトイレでブラをはずしたの。 お兄ちゃんと一緒だから安心よ。」

 ポロシャツの下のTシャツをペロッと開けて見せる。

 車中でロンドンでの話を小さな声でしながら、一層腕を胸に抱きこんで私たち恋人同士に見えるかしらと大胆に聞く。

 僅か2週間だが離れたので甘えたいのだろうと、そう見えるだろうねと囁き返すと、嬉しいとだけ答えた。

 事務所に着くと、ママ-、お父さん、みんなただいまーと駆け込んで、母に抱きつき、ママのご飯でないと駄目だったと、本心を吐露した。

疲れているだろうに、シャワーを浴びただけで母と夕食を作る理沙を、愛おしいと切なくなってしまった。

 理沙が食べたいものが並んだ食卓で、箸をつける前に、折角行かせてもらったのに我侭で早く帰って来てしまって御免なさいと、父母に理沙が謝ると、父が、理沙が出かけて淋しかったから結果オーライで、その方が良かったととりなすと、母も理沙一人居ないだけでこんなだとは思わなかったと本音を漏らした。

 賢も、理沙が居なかった2週間は、ビールもお湯割りも美味くなかった気がした。

 食べたくてしょうがなかった食事を終え、写真やビデオを見せる理沙に、時差ぼけがあるからお湯に浸かって早く寝たほうがいいと、風呂に行かせた。

 米粒は食べない夕食を済ませ、残りを持って自室のソファでまた呑んでいると、ミニスカートTシャツの理沙が、横にべったりくっついて座る。

 「甘えんぼになって帰ってきたな。」

 「夜はほんとに寂しかったの。 お兄ちゃんが居ないと駄目なのよ。」

 「それじゃあ一人で英語の仕事で外国にいけないぞ。 まあ今回は初めてだったし、飯のこともあったのかもな。」

 「ママのご飯が絶対美味しいって、リ-レも言ったわ。」

 「それは事実だろうな。 まあこれから成長するからホームシックも克服するだよ。

それよかミニスカートでどうした?」

 「気がついた? いつもハーパンじゃお淑やかじゃないでしょ。」

 「へえ、そんなこと考えんの?」

 「似合わない?」

 「いいや、マジ可愛いよ。」

 「ハーパンよりセクシーかしら?」

 「どっちも可愛くてセクシーだよ。」

 太腿への横座りで、首に手を廻しキスする理沙の身体を抱きしめ、舌を入れるちょっとハードなキスにして、そのままお姫様抱っこで隣室のベッドに運び、ミニスカートを脱がせ、ゆっくり寝なさいとタオルケットを掛けた。

 7時起床でシャワーを済ませリビングに行くと、母から理沙を起こしてと頼まれ、珍しくまだ寝ている理沙の額にキスする。

 まだ眠いと甘えてむずがるのを、ご飯を食べたらまた寝ていいからと抱き起こす。

 疲れと時差ぼけがあるだろうが、若いから今日一日寝れば回復するだろうし、とにかく起こすと、しっかり食べてやはりまた寝た。

 賢は、理沙の夏休みから大学の図書館で3時まで論文に費やし、夕方まで道場のスケジュールを続けた。

 3日で理沙は通常に戻り、暑い日々あまり出歩くこともなく、宿題や独自の勉強に取り組む日々が続いた。

 まあ3週間の予定が2週間に短縮したが、それでもロンドンまで行かせてもらったという思いがあるのかもしれないが、あまり外出もせず勉強に励む気分転換をさせたくて、2~3日の旅行を母に相談するとOKだった。

 「賢クン、理沙の気持ちは解ってるのね。 でもSexは駄目よ。」

 「それくらい承知だよ、妹じゃねえか。 疲労回復、気分転換だぜ。」

 「ならいいわ。 予算15万でいいわね。」

 「おっ、有難い。 お願いします。」

 行き先は理沙と相談して、車を使わないので、車両が規制される上〇地にのんびり行くことにして、GパンでもOKのレストランがあるホテルの平日Dxツインを予約した。

 旅行当日、ラフなスタイルに少ない荷物を賢のザック一つに入れて、電車に乗り、途中はバスで、目的地に向うが、理沙が恋人だよねと手を離さない。

 涼しさと水の清冽さを充分に体感しながら、バスターミナルで乗り遅れた米国人カップルに、1時間半後のバスがあることの通訳手助けなどしながら、安く上げるためにビールとつまみ、ケーキも買って、早めの5時にはきれいなホテルにチェックインした。

 理沙はシャワーを使い、ビールを呑む賢の横にハーパンTシャツで座る。

 「お兄ちゃんは理沙のこと、どう思ってる?」

 突然の意表をつく質問に驚き、ビールが気管に入り咳が出た。

 「急にどうした?」

 「いいからどう?」

 「可愛い大事な妹だよ。」

 「それだけ?」

 「それだけって、兄妹じゃん。」

 「理沙にはお兄ちゃんは恋人だわ。」

 まあ恋に憧れる年頃だろうし、本当の恋愛ができる年齢になるまで、恋人代わりになるかなとしか思わないが、可愛く成長し始めた理沙の未来の恋人に対して、嫉妬に似た複雑な想いがよぎったことに、秘かに驚いた。

 「お兄ちゃんの可愛いお嫁さんになるのが理沙の夢なの。」

 おいおいそこまで行くかいと内心で苦笑したが、その理沙の言葉に、何故かしっとりとした安心感と、ほのかな愛おしさを抱いたのは事実だった。

 「しっかり勉強して、英語で自立できるようにするの。 料理も覚えて、ママみたいに美味しいご飯を作れるようになるんだよ。」

 高1になったばかりなのにそこまで考えてるのかと、成長していることを実感する。

 「お兄ちゃんだけビール呑んでずるいよ。 お腹空きました。」

 箸での食事にするべきだったと理沙を見ると、上手くきれいにナイフフォークを使って、楽しそうにお肉を食べている。

 「ナイフフォーク、きれいに使ってるね。」

 「ママとリーレに教わったのよ。 美味しいけど、やっぱりママの料理が一番ね。」

 新しいことを臆することなく素直に吸収しフィールドを拡げる妹に、兄妹にならなければなと、ちょっと思った。

 ワインを呑む自分のご飯を勧めると、パンだけじゃなくてご飯も少し食べたいと、器用にスプーンで皿に移し、屈託がない。

 デザートのケーキを賢の口に入れたり、笑顔でぎこちなさなど微塵もなく、軽やかに楽しんでいる。

 食事を終えると、また呑む前に一緒にお風呂よと、バスタブにお湯を入れ始める。

 理沙の髪から全身を撫でるように洗うと、時々くすぐったそうに裸身を捩る。

 たった半年くらいなのに身長が10cm近く高くなり、スラリとした脚だけが伸びたかのように、小ぶりのプリッとしたお尻の位置が高くなった。

 「胸が膨らんだね。」

 小さなピンクの乳首が可愛い。

 「BとCの間だって。 でも下はノーヘアだし、生理もまだよ。」

 染み一つない身体のソープを流すと、ピンクに裸身が染まり、思わずきれいだよと、後ろから首筋に唇で触れると、振り向き、賢の腰を抱きキスをせがむ。

 少し勃起した賢の股間を恥ずかしそうに見て、背中を洗ってくれた。

 腰と胸にバスタオルを巻き、ヘアを乾かすと、簡単なスキンケアをする理沙の仕草が、少女性と女性が入り混じり何とも不思議なエロスを見出す。

 ハーパンだけの上半身裸でまたビールから始めると、手早く乾き物のつまみと葡萄、自分のジュースやクッキーを並べる。

 ハーパンに露わなキャミで横に座り、お兄ちゃんすごいねと、六つに割れた腹筋を撫でる。

 ビールは1本にして、ロックに変える。

 「さっきのことだけど、理沙がお兄ちゃんのお嫁さんになりたいことをママに言ったの。」

 「えっ、おふくろに?」

 「ママは私のそういう気持ちを知ってたの。 やっぱりママね。」

 「で、兄妹だから当然ノーだろ。」

 語尾に微かなせつなさが滲む。

 「ちょっと違うの。 経緯からして、私がそういう思いになるのは不思議じゃないし、あり得ることだって。」

 「そりゃあさあ、救世主のヒーローだったんだろ。 確か、鳥だったかな、生まれて初めて見たものを親って刷り込むあれと一緒じゃねえの?」

 「ちゃかさないで。」

 見透かされた。

 「でも流石のママでも、二人の気持ちまではどうにもできませんって。 理沙がお兄ちゃんのお嫁さんになりたいことをずっと思い続けるんだったら、賢クンもそうしたいと思うようになるように、素敵な女性になるように努力しなさい。 二人とも、将来お互いを尊敬する気持ちがあってお互いのために結婚したいということになれば、ママとお父さんは反対しません、それがママの返事でした。」

 「反対しないってどういうことなんだ?」

 ロックの氷が溶けて、ウイスキーが薄くなった。

 「二人の想いに間違いがなければ、養子縁組を解消すれば何の問題もないそうです。」

 「おふくろがそう言ったの?」

 「そうよ。 だから理沙は、身体も精神もまだ未熟だけど、お兄ちゃんが理沙をお嫁さんにするって決めてもらえるように、一生懸命頑張ります。」

 多分憧れがない交ぜになった理沙の想いだろうが、賢の心中に何とも言えない暖かさが伝わり、父母が既にそこまで考えていることに衝撃を受けた。

 同時に、理沙の想いを裏切らない、理沙がその想いを閉ざさないためにも、自分こそより努力して、理沙の憧れであり続けなければと、秘かに思う自分に納得する自分が居た。

 「理沙がそこまで想ってくれるのは嬉しいけど、先でこんな兄ちゃん駄目だってならないようにしないとな。」

 重くならないようにさらっと、多少の自分の考えも含めて流した。

 「じゃあ今は、理沙の気持ちが邪魔じゃないってことね。」

 改めて、感受性が鋭い、頭のいい子だと思った。

 「大事に受け止めるよ。 俺が失格しないようにするのが大変だよ。」

 「そんなことない。 お兄ちゃんから教わること、伝わること沢山あるのよ。」

 「それはさ、人生経験の長さの違いだけだな。」 

 「いいの、そうじゃないことを私が解ってればいいんだから。 それともう一つね。」

 ジュースを飲んで話題を切り替える理沙に、賢もロックを作る。

 「ママのご飯じゃなきゃ駄目で早期帰宅だったけど、リーレもそうだって。 だから少し早く来るらしいの。」

 「だってリーレは故郷だろ、何で?」

 「ママの料理がそれだけ美味しいんです。 国は関係ないんじゃないかしら?」

 おふくろの料理がそんなに美味いんなら、もっと尊敬して喰うべきだなと、思わず背筋が伸びる。

 

 

 

  

  


 

 

 

 

 

 

 


 

 

  


 

 

 

 

 

   


 

 

 

 

 

 

 


  

  

 

    

 

  


 

 

 

 

 

 


 

   


 

 

 

 

 

 


 二人が帰ったあと、私学の受験先として気になっていた女子大付属高校のHPを開いて、募集状況をチェックしてみた。

 この女子校は、賢が高校受験の頃から秘かに人気が出始めて、独特のスタイルの学校だった。

 生徒募集は3クラス各30名で、2クラスが普通コース、1クラスが英語コースで、各コース5名の二次募集があり、充分間に合うし公立受験の3日前の結果発表だった。

 勉強中に英語を使う仕事がしたいと里沙が言っていたのを、賢は忘れていなかった。

 英語コースの入試は国社数理からの2科目選択で、勿論英語は必須でヒアリングがある。

 募集要項と願書をプリントアウトし、里沙にここを受けるように勧めると、突然の私学受験に驚いて、ヒアリングはNHKのラジオで3年間続けているが、高い私学には行けないからと、予想した当然の返事が返って来た。

 4人での夕食時、里沙の私学受験を父母に頼んだ。

 賢が説明した2つの理由は、今の里沙には共学は心理的圧迫と負担が大きいこと、好きな英語で自立できるようにすることで、両方受かったら私学を選ぶべきというものだった。

 「里沙、確認するけどどっちに行きたいの?」

 里沙の数理の上達と、他の3科目の成績を賢から知らされていて、賢の頼みを理解した母が聞いた。

 「母に私立の経済的負担は掛けられません。」

 里沙の即答だった。

 「心配はよく解るけど、貴女のこれから一生の問題よ。 お金のことは度外視して、どちらが希望なの?」

 重ねて聞いたが、俯いた里沙は返事をしない。

 「大事な問題よ、正直になりなさい。」

 「英語コースに行きたいです。」

 秘めた思いを打ち明ける、小さな声の返事だった。

 「正直に言ってくれて有難う。 賢が気付いてくれて良かったわ。 お父さん、どうでしょう?」

 「いいだろう、第1志望私学。 公立は第2志望に変更だな。」

 父は滑り止めとは言わなかった。

 「直子さんには私から話すから、心配しなくていいわよ。」

 「緊急連絡先に、法定代理人として事務所と私の名前を書いておきなさい。」

 願書を見ていた父が付け加える。

 月曜の授業終了時に、賢と一緒に中学に提出することにする。

 願書の選択科目に、里沙は国語と、迷わず数学を選んだ。

 放課後、新担任の女性教師に願書と受験料を提出すると、明日提出することで受領され、数学の選択にあまり得意ではないようですがと懸念が表意されたが、今の里沙なら大丈夫ですと押し切った。

 私学受験当日、筆記用具と参考書を入れたザックを賢が持ち、母が与えたマフラーと手袋を身に着け、小さなお弁当を持った里沙と、9時半の開始に合せ、二人で家を出た。

 午前2科目、午後1科目で、英語コースはそのあとヒアリングがある。

 リラックスして落着いてと教室に入る里沙を送ると、実の妹を送り出す兄の心境はこんなもんかなと、心配が先に立つ。

 家に帰り落着かない時間を過し、試験の終了時刻に合せて迎えに行くと、賢の姿を見つけた、他の受験生より明らかに背が低い里沙が笑顔で駆け寄る。

 その笑顔を見て、出来たんだろうなと想像した。

 「ご苦労様、精一杯やった?」

 「気持ちいいくらい数学解けたよ。」

 それ以上聞くことはせず、頭を撫でて、ザックを受取る。

 ほっとした様子の里沙の肩に手を置くと、その手を握り返し、手をつないでキャンパスを歩いていると女子大生から声を掛けられた。

 「武井君でしょ。 女子校でどうしたの?」

 「おう、千春か。 久し振りだな。 受験の付添だよ。」

 高校時の同級生だった。

 「あれ、武井君は末っ子だったでしょ。 手ぇつないで何方? 恋人かな?」

 「妹みたいなもんで、家庭教師だよ。 もし入学したらよろしくな。」

 「そうなの。 奥村千春です。 よろしくね。」

 「永田里沙です。 よろしくお願いします。」

 入学したら電話してと、携帯番号を交換した。

 試験翌日の夕方、女子高から父に電話が入り、確認したいことがあるとのことで、次の日朝9時に夫婦で出掛けた。

 用件は、里沙の英語コース入試の結果が非常に優秀で是非欲しい生徒だが、母子家庭で費用に問題はないのかが懸念され、合格になっても滑り止めとして入学拒否されるのか、普通有り得ないことですが大変失礼ながら確認させていただければ幸いですということだったらしい。

 法定代理人と表記されていたので、父に連絡したらしい。

 確かに有り得ないことだが、里沙のためだからきちんとすることにして、母が返事をしたとのことだった。

 「英語で自立できるようにとこちらが第1志望で、公立も受けますが第2志望です。 費用のご心配は一切無用で、合格になれば入学金をすぐお支払します。」

 2日後、10時の発表に二人で行くと、確かに里沙の番号があった。

 「頑張ったな、おめでとう。」

 「ありがとう、全部賢兄ちゃんのお陰です。」

 すぐに携帯で母に連絡させる。

 発表から中1日で入学説明会があり、里沙と母が出席し、入学金もその場で払い込んだ。

 その日の夕方、お兄ちゃん相談があると里沙が深刻な顔で部屋に来た。

 「どうした? もう明日だけだろ。」

 「私立の学費、母は大丈夫なのか不安なの。 それに今以上に働くことになったら身体が心配だし。」

 「その心配は要らないと思うよ。 しっかり勉強優先でいいんじゃないか。」

 賠償見舞金のことは知っていたし、父母がOKしているので無茶なことは無いと思っている。

 「もう一つね。 明日公立だけど、私立に決まっている私が受かったら、公立にしか行けない人が一人落ちるかもしれないでしょ。」

 里沙が悩んでいる意味がよく解った。

 つい何日か前まで、自分がその立場だったからだ。

 行かないと決まって受けて、合格の一人分の邪魔をすべきでないと考えているようで、かといってわざと間違えるという思いはないようだった。

 結論はすぐ浮かんだが、里沙自身がどう判断しているか聞いてみた。

 「じゃあどうしようと思うの?」

 「受験費も出して貰って、どうすればいいのか解らないの。」

 私立ほど高くはないが、それでも母子家庭では貴重な受験費用も無駄にできないと悩んでいる。

 「じゃあ少額でもお金のことは別にしたら、どうしたらいいと思う?」

 「なら一人受かる人の邪魔をしちゃいけないと思う。」

 「ということは?」

 「受験しちゃいけないし、その資格もないと思うけど。」

 無資格とは大袈裟だが、受験しないというのは賢の結論と同じで、賢が考えた以上に里沙は自分を追い込んでいる。

 「無資格とまでは言いすぎだろうけど、里沙のその答は正解だと思うよ。 よく考えたね。」

 二人で夕食の支度をしている母に、公立受験中止を伝えるとそうすべきでしょうと賛成してくれて、明日受験校に行って、来ている中学の先生と綾に伝えることにする。

 「ママ、お願いがあります。」

 「あら里沙がお願いって初めてね。 なあに?」

 「料理を教えて欲しいんです。」

 「まあ、急に料理だなんてどうしたの?」

 賢も、どうしたと不審に思った。

 言いよどんだあと、決心したかのようにゆっくり話始める。

 「夕食は殆ど私が作ってたけど、誰にも教わってなくて全部我流で美味しくないんです。  ママのご飯、とっても美味しいから教えてほしいの。」

 虚を突かれたように、母が驚いた。

 「大変なことしてたのね。 いいわよ、じゃあ勉強に差し支えないように、ゆっくり一緒にしましょうか?」

 母の返事を聞いたの眼から涙が流れる。

 「泣くほどのことじゃないわ。 どうしたの?」

 母が、里沙の肩に手を置いた。

 「何時までここに居れるの? だから、急がないと。」

 母の顔が引き締まり、呻くように言い放った里沙を抱きしめた。

 「いいわ、お父さんが上がってきたら夕食前にお話しましょ。 じゃあ顔と手をしっかり洗って手伝って。」

 賢は自室に上がり、里沙が抱いている恐怖の重さを思いやった。

 その中での受験勉強そして受験と、どれほど大変だったか、小さな身体でありながらその健気さと頑張りに頭が下がった。

 父が7時前に事務所から上がったらしく、里沙が呼びに来た。

 リビングのソファテーブルにつまみが並び、父がラフな服に着替えていて、ビールを注ぎ合う。

 里沙と自分にお茶を淹れた母が里沙の横に座り、父、賢と向き合う。

 お父さんいいですかと断わり、笑顔の父が頷く。

 「結論から先に言いますから、里沙しっかり聞いて。 貴女は此処にずっと居るのよ。」

 訳が解らない里沙が、何でというような不思議そうな顔になったが。賢は下宿という形でそうするのかなと思った。

 「下宿とか間借りとか中途半端なことはしません。 お父さん、いいですね?」

 いいよと応える父が笑って、眼が柔和になり、ビールを呑み干す。

 「里沙、私達の娘になるのはいやかしら?」

 いよいよ訳が解らないようで里沙は母を見つめるが、賢はそこまで行くかと思ったが、何故か悪い気はしなかった。

 「里沙がいやじゃなければ、私達の娘、子供になって欲しいのよ。」

 「どういうことですか?」

 具体的な説明を聞いて、やっと里沙が言葉を出して聞いた。

 「直子さんから相談されてたの。 1年位前からお付き合いしてる人が居て、今は再婚しようと思っているけど、貴女がどうしても反対してて、その人も里沙との同居がネックで踏み切れないでいることは解ってるわよね。」

 小さな声で、はいと答えた。

 「その人は車の1級整備士で、お酒は少しでギャンブルはしない真面目な人だそうね。 それに初婚だそうよ。」

 毎日酒を呑んで、競馬をやる賢は、ここは聞こえない振りをした。

 ケンくん聞こえてるわよねと釘を刺され、父と自分のグラスにビールを注ぐ。

 「再婚すれば子供さんもできるでしょうし、そうなればいよいよ里沙の居場所が無くなって、どっちも辛くなるって、直子さんは悩んでるのよ。」

 母を見つめる里沙の瞳に涙が浮かんでいる。

 「賢が貴女を連れて来たのは何かの縁でしょうし、純真で真面目に何でも一生懸命な里沙に、私達が何ができるか考えたのよ。 賢が私学の英語コースに行くべきと言った時、私もそうだと思ったけど、その負担を直子さんに負わせることはできないし、言い出しただけじゃ卑怯よね。 それでそのことを直子さんに言う以上はうちで責任を持つから、私学に生かせてやってとお願いしようと思ったの。」

 母が、里沙に言い聞かせるように話す。

 「賢がというよりうちの発案で、学費だけは出すから私学に行かせるって、それも無責任でしょ。 それでお父さんと相談して、直子さんの再婚と、貴女の進路を考えると、いっそのこと私達の娘になってもらおうと決めたのよ。 それは同情なんかじゃありません。 貴女にそうすることが、私達の歓びになるって意見が一致したのね。 もう一人、一番下の妹が増えることは私達の願いになったのよ。 最大の要因は里沙の純真さと笑顔よ、短い期間だったけど貴女に私達ができることは本当に楽しくて喜びだったわ。」

 母はこう言ったが、実際は直子からそちらで引取って頂けませんかだったというお願いがあってのことで、里沙を見放されたと傷つけないために微妙に言い回しを変えたというのが真相だった。

 「里沙さん、貴女が許してくれるなら、私達の娘、家族になってくれませんか?」

 呆然と涙を流す里沙を見て、父母がよくそこまで腹を据えて決心したなと感心し、俺の妹かと、どこかがむずがゆかった。

 「返事は今ここでとは言わないし、ゆっくり考えてね。 勿論、直子さんと会うのは全然構わないし、此処に来てもらってもいいわ。 長男の昌一さん、長女の朋美さんも賛成してるのよ。」

 ぼろぼろ涙を流す里沙が、ママ有難う、お願いと抱き着いた。

 「いいのね。 うちの家族、私達の娘になってくれるのね。」

 泣きながら、里沙が何度も頷く。

 「良かった、ありがとう。 形式は養女だけど、間違いなく私達の娘になるのよ。 お父さん、手続きお願いしますね。」

 「いやあ、まあ良かったね。 急いで、中学の卒業証書は武井里沙になるようにしよう。」  

 「親と兄姉は知ってて、俺だけ知らねえ蚊帳の外かい?」

 「御免なさい。 ケンくんは反対しないと思ったし、合格まで貴方を煩わせたくなかったのよ。 反対じゃないでしょ?」

 「勿論反対じゃねえよ。 可愛い妹だしね。」

 里沙の泣き顔に、笑みが浮かんだ。

 「じゃあこれから忙しくなるわね。 家族になるお祝いに、卒業と入学でしょ。

それに3月24日の15才のお誕生日お祝いもね。」

 「そんなにしてもらわなくていいです。」

 「いいのよ、私達がしてあげたいの。」

 顔を洗わせ普通に戻った里沙に、母が問いかける。

 「一つ約束して欲しいの。 今の里沙に一番必要なのは、なんでもしっかり食べることなの。 貴女の成長にそれが勉強以上に大事だから、食事、おやつ、何でも里沙自身のためにしっかり食べるって約束して。」

 「はいそうします、ママ。」

 では結論が出たところで食事にしましょと、母が立ち上がり、里沙も一緒に溌剌と動き出す。

 和風の食事だったが、お造り盛り合わせとサイコロステーキもあり、父とお湯割りを流し込む。

 「里沙、お祝いは親父とおふくろがくれると思うけど、どっか行きたいとこがあれば俺が連れてくよ。」

 里沙の瞳が輝いた。

 「〇〇ランドに行きたいなあ。 まだ行ったこと無いの。」

 「おういいよ。 一日遊ぼうか。」

 「日帰りじゃなくて、前日ホテルに泊まってフランス料理でも食べたらどうだい?」

 「それいいね。 里沙、シングルでいいかい?」

 「何それ?」

 「えっ。 一人部屋だけど。」

 「一人はいやです、怖いから。」

 「じゃあツインの二人部屋だな。」

 「賢、スイートにしたらどうだい。」

 「OK、そうするよ。」

 食後、先に風呂を使った里沙の後に父が入り、ハーパンTシャツの里沙がバスタオルで髪を拭きながら、リビングで呑んでいる賢の横に座る。

 「ドライヤー持っといで。 乾かしてあげるから。」

 はーいと立ち上がり、駆け足でドライヤーを持って座る。

 柔らかくサラサラの髪を乾かしていると、ほのかに甘い香りが漂う。

 「おにいちゃん、何時連れてってくれるの?」

 「明後日木曜日、学校から帰ったら行こう。」

 「えっ、金曜も学校だけど。」

 「いいよ、休んで。 もうあんな中学のスケジュールに縛られなくていいよ。 今は里沙のスケジュール最優先だな。 それに平日の方が人が少ないし、ホテルも安いしさ。」

 里沙の前にスポーツドリンクと苺、シュークリームを置いた母が、ケンくんがそう言うのならいいでしょとOKが出た。

 PCでホテルのサイトを開き、里沙の意見でスィートルームを決め、予約する。

 「お兄ちゃん、私ナイフとフォーク使えません。」

 「そうか。 じゃあ疲れるだろうから後日として、箸の中華にしようか。 明日予約するよ。」


 公立受験日、里沙に受験票だけ持たせ少し早めに歩いて家を出た。

 経験則と、気になることもあり、ボイスレコーダーを胸ポケットに入れた。

 受験生が登校するのと一緒に校門に入ると、里沙が中学の先生をみつけた。

 ボイスレコーダーをONにして、3年4組の永田里沙ですがお話がありますと、賢が切り出す。

 受験番号を手持ちの名簿でチェックした50前後の男性教師が、あと一人だなと確認して、教室に行きなさいと里沙を促す。

 「いえ、この子はここの受験を辞退します。 そのことをお伝えに来ました。」

 「何を馬鹿なことを言っとるんだね。 一体君は何者なんだ?」

 「自分は里沙の兄代わり兼家庭教師です。 彼女は〇〇女子大付属高校英語コースの二次募集で合格し、入学が決まりました。 だからここは受験しませんので、報告です。」

 「永田は最初はここ一本だったじゃないか。 私学がどうだか知らんが、予定通り受けなさい。」

 「いえ、行く予定が無くなりましたので、他の受験生に迷惑にならないように辞退します。」

 「いいかね、理数はギリギリラインだが、母子家庭で私学には行けないから進路指導でここの受験を許可したんじゃないか。 勝手なことを言うんじゃない。」

 「今の里沙の学力なら多分合格します。 行く予定が無いのにそうなれば、他の受験生の邪魔をすることになりますので辞退します。」

 「そんな勝手をされると、我々の指導が悪かったということになるんだよ。 受かるかは解らんし、なら適当な答えを書いとけば済むことだろう。」

 「先生の進路指導を悪くしないのと、他の受験生のために間違った答を書けということですか?」

 冷え冷えとした怒りが湧いたが、表には出さない。

 「当然だよ、それ位の技はあって然るべきじゃないか。」

 「余りにも生徒の心を無視したお考えですね。」

 「何を言うか。 我々の進路指導には落ち度は無く、合格しない答を書けばそれで終わりだ。 早く教室に行きなさい。」

 「受験しないことと、その理由はお伝えしましたので帰ります。」

 「止めんか。 母子家庭の貧乏人が私学に受かって、舞い上がっとるんじゃないのか。 言ったようにするんだ。」

 「言い方が酷すぎますね。 受験せず帰ります。」

 「だから母子家庭なんか片輪なんだ。 自分勝手でな。」

 「本気で言ってるんですか?」

 「ああ本気だ。 まともじゃないから母子家庭になるし、更におかしく間違って行くんだ。 そして落ち度が無い我々の進路指導に、勝手にクレームを言い出すお粗末だ。」

 「進路指導にはどうこう言ってません。 状況が変わったから、それに合せて変更すると伝えただけです。」

 「それを世間では身勝手というんだ。 片輪の母子家庭には解らんのだろう。」

  これ以上里沙に聞かせてはいけないと思い、胸ポケットのボイスレコーダーを取り出しOFFにした。

 録音しました、帰りますとだけ告げて、里沙の肩を押して歩き出したが、後ろは振り返らない。

 校門を出て角を曲がったところで、嫌な思いをさせて悪かったと謝ると、おにいちゃんと一緒だから何ともないよと、里沙は健気だった。

 このままではとファミレスにより、ドリンクバーとケーキを頼み、礼儀としてしたことが受け入れられず変に捻じ曲げられて、辛い思いをさせてごめんと、心から里沙に重ねて謝った。

 ケンにいと一緒だと何にも怖くないから心配しないでと、逆に里沙の気遣いが心に沁みて、あの教師の言葉は許せないと、改めて冷えた怒りが生じる。

 帰宅してレコーダーを聞いてもらおうと応接室に全員集めたが、自室に居てと頼んだ里沙も座ってしまう。

 音声を再生すると、4分ほどの会話がはっきりと録音されている。

 父の指が1本立ち、もう一度再生する。

 「ひどすぎる。 偏見と差別、そして徹底した自己保身、許せんな。 こんな奴まだ居るんだ。」

 昌一が、みな同じであろう思いを吐き出す。

 「怒りを通り越して、呆れるしかねえや。 こいつはもう化け物か妖怪だよ。 許しちゃいけねえ。 俺、巣窟の学校に行くぜ。」

 「賢、待ちなさい。 みな同じ意見だと思うが、私は自分が侮辱されたのならまだしも、里沙がそうされたということが父親として許せんし、この対処は父である私の仕事だ。 我が子里沙の名誉のための親父の仕事にするから。」

 「親父自らかい。 で、どうする?」

 父は、里沙からこの教師の野口という名前を確認した。

 「昌一は新校長と会っているな。 昼休みのアポを取って、一緒に来てくれんか。 賢はその録音のコピーを3個取ること。 学校のあと、教育委員会にも行くから。」

 「え、俺はコピーだけで何にもねえの?」

 「親父が動くんだから賢の出番は無さそうだな。」

 まあ親父なら間違いは無いし、今回は大人しくすることにして里沙を見ると何か言いたそうだった。

 「里沙、どうした?」

 「えっ、あ、うん、、、、あのう、お父さん、ありがとう。」

 「おっ、里沙、どうしたんだ?」

 「お父さん、里沙が認めたのよ。」

 朋美姉が、こともなげに言う。

 「そんな。 今まで言ったことが無かったから恥ずかしかったんです。 でも嬉しくて、やっと言えました。」

 父の眼がウルウルしている。

 「親父感激して涙だよ。」

 「賢、からかっちや駄目よ。 お父さんだって嬉しいわよ。」

 「里沙、ありがとう。 最高のエールだよ。 よし、じゃあやろう。」

 「お父さん、私は里沙と外出しますよ。」

 「そうか。 じゃあ賢、朋美と二人で留守番頼むよ。」

 それからの動きは速かった。

 母と里沙はすぐ出掛け、父と兄はコピーした2枚のSDカードを持ってお昼に中学に行った。

 朋美が電話応対や書類作成などする横で、賢はPCの卒論を進めていると、2時過ぎに父と兄が、3時前に母と里沙が帰宅した。

 「あれ、何かさっきと少し違うな、どうかした?」

 「解る? 美容院で髪を整えたの。 で、明日用にこのダウンジャケットと服を買ってもらいました。」

 「可愛いじゃん。 似合うよ。」

 応接室に全員が座る。

 「里沙、中学と教育委員会に行って来た。 結果は心配しなくていいよ、全部私がやるから。 で、明日から暫くは登校しなくていいからね。 あの教師に更なる言葉の暴力や身体的暴力の可能性があるから、対処が決定するまで自衛として登校しないと通告したから。 卒業は支障はないから大丈夫だよ。」

 「はい、解りました。 ありがとう、お父さん。」

 「嬉しいねえ。 元気百倍だな。」

 「里沙、それなら明日、早く行こうか。」

 里沙がしたいようにさせてあげてと、母がそっと20万入りの封筒をくれた。


 翌日、9時過ぎに家を出て、〇〇ランドに電車で向う。

 二人分の着替えは賢のザックに入れ、淡いピンクのダウンにジーンズ、ポシェットをだけ持つ里沙は賢の臍下までしかないが、可愛い色白の妹の姿だった。

 瞳を真ん丸に拡げあちこちを見回す里沙を連れて、流石に休日より待ち時間が少ないアトラクションを巡り、写真も撮る。

 夕方まで遊んで、お土産を選ばせたが、黒のキャップだけだけしか買わない。

 ナイトパレードは暖かくなってから来ることにすると、素直にまた来れると喜ぶ、キャップを被ったスタイルが可愛い。

 ホテルに7時にチェックインして、中華飯店で珍しい素材の料理をアラカルトで頼み、好きなだけ里沙に食べさせ、自分もお湯割りで味わった。

 お腹一杯、楽しかったとベッドに引っ繰り返る里沙の着替えを出し、大きいバスタブにお湯を張る。

 「着替えてお風呂だよ。」

 エアコンが効いたスイートツインの広い部屋で、賢がハーパンTシャツに着替えて買って来たウイスキー、つまみやお菓子を取り出したところで、脱がせてと里沙が起き上がった。

 甘えてるなと思ったが、妹ってこんなもんかと悪い気はしない。

 ソックス、スポーツシャツを脱がせ、Gパンに手をかけても嫌がらず、細い腰を上げる。

 Tシャツとボーダー柄の下着だけになっても恥ずかしがる様子もなく、ハーパンを穿かせた。

 「お風呂入りなよ。」

 「一緒に入ろうよ。」

 普通の声だった。

 頭からシャワーを流して、バスタブに浸かると向い合せに跨り、お兄ちゃん大好きと抱きつく。

 「俺も里沙好きだよ。 でも恥ずかしくないの?」

 「とっても恥ずかしいです。」

 言葉が変わり、えっと意外だった。

 「お兄ちゃんならいいんです。 大好きだから。」

 不思議なもんだと女の子の心理に戸惑いながら、向うを向かせ足の間に肩まで浸からせる。

 ヘアから全身まで洗ってやる。

 「染み一つ無くて真っ白だな。 胸は少し膨らんでるけど、ここはつるっぺただよ。」

 ヘアがなくつるっとした股間をつついた。

 「まだ生理が無いの。」

 「そうか、じゃあおふくろが言うようにしっかり食べないとな。 そのことは誰にも言っちゃ駄目だぞ。」

 「はい、ママとお兄ちゃんだけです。」

 里沙が背中を洗ってくれて、温まって上がった。

 「お兄ちゃん、パンツ穿かないの?」

 「身体を締め付けてゴロゴロするから、夜はハーパンだけだよ。」

 「じゃあ里沙もそうするね。」

 ビールを持つと、里沙がつまみを拡げてくれて、自分もジュースとバームクーヘンやプリンを出して、ソファでくっつく。

 「べったり甘えんぼだな。」

 「ごめんなさい。 嬉しいの。 お父さんやママと家族になれるし、大好きなお兄ちゃんと二人きりだから。」

 「これからずっと一緒だよ。」

 急に太腿に跨り、じっと見つめてキスをしてきた。

 「おいおい、どうした?」

 「里沙のファーストキス。 ケンにい、大好きです。」

 ピンクに染まる頬と、煌めく瞳をきれいだと受け止めた。


 和朝食をしっかり食べて、10時にホテルをチェックアウトし、ホテルのバスで〇〇シーに向う。

 散々アトラクションで遊び、アイスやポップコーン、レストランでご飯もしっかり食べ、また来ることを約束して、和菓子と洋菓子を買い、夕方早めに帰宅した。

 里沙が着替える間に、残金12万を母に返す。

 「買ったのはキャップだけなの?」

 「そうだよ。 他は何も要らねえんだって。」

 「遠慮なんかしなくていいのにね。」

 「また行きたいからって、連れてく約束したけどさ。」

 「行くのはいいんだけど。 解ったわ。」

 早速夕食の手伝いを始める里沙に、注意だけはしておく。

 「一段落したんで月曜から大学に行くけど、問題は用意するから自習でちゃんとやるんだよ。」

 はーいという返事が、明るく弾んでいる。

 賢達がホテルに宿泊した昨日の夕方、中学校長と野口教師が事務所に来た。

 父と兄、それに母も黙って話を聞いたが、取り敢えず謝罪ということだった。

 野口教師は、妻と大事な子供が居て、処分になると生活が苦しくなるので許して欲しいという、実に身勝手なものだった。

 兄が父の発言を抑え、自分の子供だけが大事で、他の、ましてや母子家庭の子供はどうでもいい、且つ自分の落ち度にならないようにだけという実に愚かな言い草ですねと切り捨てた。

 無意味な訪問は迷惑ですし、刑事と民亊の告訴を考えますのでお帰り下さいと一蹴すると、真っ青になって震えだした。

 校長に、公の組織としての対処を見た上で行動しますと通告し、引取らせた。

 勿論、この会話も堂々と録音した。

 夕食時に父が、この前賢が教育委員会の数だけ不祥事があると言ったのは、あながち的外れではないなと呟き、もうこれ以上里沙がトラブルに遭遇しないようにしてやりたいと心情を吐き出したが、賢も母も同じ思いだった。

 

 次週の火曜日に養子縁組が家裁で認められ、父の養女となった里沙の戸籍抄本を、賢と兄の二人で校長に提出した。

 校長は、そういうことでしたか、おめでとう御座いますだけで受領した。

 賢は里沙に、学校のことは気にしないで自習をしっかりやろうと、大学の時間以外は里沙の勉強に費やす。

 しかもテスト形式の詰め込みではなく、関連事項や雑学まで含めて、楽しく知識を増やすことにシフトすると、乾いた砂に水が沁み込むように吸収し、圧倒的に笑顔が増えた。

 2月もあと3日で終わるという日に、明日から登校していいと父から言われ、翌日から一緒に登校し、そのあと賢が大学に行くのが日課になった。

 野口教師がどうなったか等は知りたくも無いし、賢と里沙にとってはどうでもいいことだった。

 並んで歩いていると、最初の頃より里沙の頭が高くなった気がして、遅ればせながら自室のクローゼットの柱に身長を記すと、お兄ちゃんと抱き着き少し膨らんだ胸が押し付けられたが、まだブラが必要なほどではない感触だった。

 もっと可愛いくなろうと抱き上げると、おにいちゃんのためにそうなりたいと笑顔で応える里沙がたまらなくいじらしい。


 中学の卒業式には、母と共に賢も用心棒代わりに、スーツを着て出席した。

 壇上で証書を受取る里沙は、本人の意志で、それまでどおりの膝下丈の野暮ったい制服だったが、ショートヘアのその可愛さは周囲の眼を集めた。

 式が終わり、武井里沙と書かれた証書を、満面の笑みで見せる里沙と喜び合う母の姿に、こうなって良かったと、心底安堵する。

 校庭で公立に合格した綾や私学の由香と談笑する間に、津下格と母の姿を見たが何となく背中が丸まり、勿論言葉を交わすことさえない。

 3月に入って、賢は里沙の勉強のシフトを、英語60、国語、数学を20%に大幅に変えた。

 尤も賢自身は、英語のヒアリングとスピーキングは得意でないので、教えるのはリーディングとライティングで、会話は里沙がやっていることや、TVの英語放送を聞かせる。

 そして母の料理が少し変わり、里沙にナイフ、フォーク、スプーンを使わせることが多くなった。

 里沙自身もネットでマナーを確認し、楽しそうに慣れようとしている。

 高校に入学してからと思っていたが、春休みのうちに高校での課題を与えることにした。

 要はTOEICのテスト挑戦で、1年でBridge、2年でtoeicテスト、3年でSWを受けることを説明すると、里沙の瞳が輝いた。

 TOEICのことは知っていたが、自分にはほど遠いものと思っていたらしく、好きな英語での評価取得に新しい目標を見出したようだった。

 更に、母にあることを相談して、友人の伝手で一人の女子大生を紹介してもらい、里沙と一緒に会うことにした。

 その女子大生は〇智大学文学部2回生で、英国からの留学生できれいなクィーンズイングリッシュを話すらしかった。

 「里沙、今日は英会話の家庭教師をしてくれるかもしれない英国から留学で来ている女子大生と会うよ。 例えば週1~2回、2時間程度でもやっていけばプラスになるだろ。 おふくろはOKだし、まあ費用のことは最後になるだろうけど、俺は会話はからっきしだから、要望とか基本的なことは自分でだよ。 こればっかりは、俺はあてにならんからな。」

 「そんな贅沢いいの?」

 「英会話教室に行ったって費用は要るし、それよりクィーンズイングリッシュを直接のほうが価値はあるよ。」

 だいぶ暖かくなった3月半ば過ぎ、10時に待ち合わせの彼女のキャンパスに出かけた。

 10分前に門内の待ち合わせ場所に着いて待っていると、里沙が空を眺めながら何やら呟いている。

 何を話すか、練習しているようだった。

 暫く待っていると、キャンパスを日本人と外国人の女性二人がやってきた。

 おはようございまーす、武井さんですかと日本人女性が聞く。

 英国人一人ではなくて、日本人女性が一緒で助かったと安堵し、おはようございます、武井賢聖と妹の里沙ですと自己紹介すると、井村千里です、こちらはリレーゼ・カトリーヌ・ミシューですと紹介してくれた。

 カフェテリアに行きましょうと、里沙を挟んで3人で歩き出し、賢は後を歩いた。

 この大学に来たのは初めてだが、自分とことはまた違った空気だと感じる。

 賢がコーヒーとココア、ウインナーコーヒー2つを運び円形テーブルに座る。

 赤みがかったブロンドでブルーの瞳のリレーゼは、日本語もそこそこ話せた。

 来る途中でも会話しており、早速用件に入ったようで、里沙が丁寧に自己紹介するエレメンタリースクールとかハイスクールとか言葉が出始めて、日英混合の会話が始まり、笑って聞き流すしかなく、入りこむ余地がない。

 時々里沙が考えながら、それでも心を込めて一生懸命、間違わないように話しているのが解る。

 しかしここまでやれるとは、賢は全然思っていなかった。

 不意に、どこで教えてもらうのと聞くので、できれば我家でと、そのとおりに里沙が英語で答えると、リレーゼがいきなり賢に向って話す。

 何てと里沙を見ても答えなかったが、千里が、貴方の妹の里沙さんの英語は丁寧できれいな発音で褒めてると教えてくれた。

 それからまた会話が続き、教える場所をチェックしたいということになった。

 その前に里沙を通じて費用を聞いたが、数少ないバイトの中でも楽そうだし、高くはできないが、それより教える環境が良くなかったらお断りしたいということらしかった。

 ならば電車と徒歩でここから40分の自宅にこれから行くことになり、母に電話してテーブルを立った。

 自宅の駅に着いて、ティータイムのお菓子は洋菓子と和菓子どっちがいいか里沙に聞いてもらうと、リレーゼが嬉しそうに和菓子と応え、賢は何種類か多めに買って事務所のドアを開けた。

 驚くリレーゼと千里に、里沙がロウオフィスで自宅は2、3Fと説明し、全員を紹介し、2Fのリビングに上がった。

 1年アメリカに留学したことがある朋美も入り、お茶と和菓子で不思議で賑やかな会話が始まり、母もそこそこの会話をしている。

 中に入れない賢は自室に上がり、ビールを舐めながらPCを開いていると、里沙が上がって来て、ホームティーチャーが決まったらしい。

 最初、母が1回1時間でも3時間でも交通費込みの5千円を提示したらしいが、それでは高すぎるということで4千円に決まったらしい。

 お昼に鮨の出前を食べながら、夫々の詳しい紹介は終わったらしく、千里が賢に聞いてきた。

 「賢聖さんて東〇大学で凄いけど、空手3段、合気道初段でどんな怖い人かと思ったけど、優しいのね。 得に里沙さんにはそうみたい。」

 いやその話はと遮ったが、リレーゼが眼を丸くして反応し、一度見たいとせがむが、まあ機会があればと濁した。

 火曜と土曜の5時からに予定して、2人が帰る時、母がリレーゼにその日の夕食はここで食べなさいと伝えると、オウジャパンマームサンキューと抱きついた。

 朋美姉のアメリカ留学でいろんな方のお世話になったから、ささやかなご恩返しよという母の言葉を姉と里沙が伝えると、リレーゼのブルーの瞳が潤んだ。


 入学までの里沙の勉強方針が定まり、英語体制も整い、懸案事項を解消したので、2ヶ月ちょっと犠牲にした身体鍛錬に復帰した。

 どっちも町道場であるが、5時に先ず合気道場に行き、二代目といっても50前の師範と対峙する。

 「父兄から聞いてるよ。 より大事なことがあって、懈怠ではないそうだね。 ここに来る来ないより自身を規律されたい。」

 翌日、空手道場で老師範と組み手で向き合う。

 結局、合気道1日、空手3日、続けて15時間の夕方タイムを費やした。

 2ヶ月のブランクはそこそこあり、くたびれたが両師範から今までどおり心健全たれと叱咤激励され、びっしり汗と共に身体の老廃物を排出した。

 



 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

    

 

 

 


 

 

  

 

 

 

 

 

 

 中学から戻る車の中で、兄が聞いた。

 「賢、ナイフを落としたあと、なんかしたろう?」

 ちょっと迷ったが、身内には正直に言っておくことにする。

 「右手をカメラの死角にして、手刀を水月に差し込んだよ。」

 「やっぱりそうか。 まあカメラでは解らんが、空手3段、合気道2段のお前だ。 あんまり無茶するなよ。」

 「解ってるよ。 ちゃんと加減はしたぜ。」

 事務所に戻ると、父母、姉、里沙と女性一人が話している。

 「里沙の母で、永田直子といいます。 助けて頂いて有難う御座います。」

 急いで立ち上がり、深々とお辞儀する。

 皆に、校長室での会話の録音を聞かせた。

 「呆れ果てるな。 教師以前に、人としての言葉ではないな。」

 「親父もそう思うだろ。 俺も腹がたったけど、賢がよく我慢したよ。」

 「俺はいいんだけど、おふくろ、怪我の具合は? 骨折してなかった?」

 「幸いね。 でも膝裏靱帯損傷と、顔面打撲内出血、口蓋裂傷で全治3週間だって。 診断書は明日のお昼だから、昌一さん、学校に提出して。」

 「OK、了解。」

 「それでお母さんとも話したんだけど、昼間は事務職で、夜はスナックで働き詰めらしいので、独りにはしておけないから、休む間はうちで預かろうと思うの。 賢クンいいわね、貴方が里沙さんの勉強みてあげて。 文系は大丈夫だけど、理数が弱いらしいの。 工学部の貴方なら大丈夫でしょ。」

 母の決断の早さに驚いたが、父と決めたことだろうし、逆らうこともない。

 「解った。 それはいいけど、相手の名前が解らないんだけど。」

 「それも里沙さんに聞いたけど、お家に名簿があるんだって。 里沙さんを連れて二人で、着替えや勉強道具を運んであげて。」

 どうやら父母は先を見通しているようだったので、言われたとおりに動くことする。

 そこまでご迷惑をお掛けしていいんでしょうかと案ずる母親に、始末はきちんとしなければいけませんし、此処にいればお二人とも安心でしょうから、気になさらないでと、母が取り成す。

 「行くけど歩けんの? 大丈夫?」

 「痛み止め注射したし、ゆっくりなら大丈夫です。」

 マスク越しの小さな声だ。

 「きついだろうけど、里沙さんが行かないと解らないでしょ。 貴方達が手伝って運んであげて。 それから寝てればいいでしょ。」

 持って行った大きいスポーツボストンに教材、紙袋二つに着替えを入れて、里沙はジャージに着替えて戻った。

 持ち帰った名簿で公園の3人の氏名等を確認だけして、1年前に結婚した朋美姉が使っていた2Fの部屋に母が里沙を連れて上がった。

 母と姉でその部屋を掃除して、姉は近くのマンションに戻ったらしい。

 昌一兄も、事務所敷地横に建てた一軒屋に戻った。

 兄の奥さんも弁護士だが、今は二人の子育てに専念している。

 母から今日の食事は外でとお願いされたらしく、父と二人で行きつけの近くの鮨屋に歩いて出かける。

 カウンターではなく、腰掛座敷に座り、ビールと料理を注文した。

 「母さんが一番悲しんでいるんだよ。 あんなひどい目にあって怪我して、それに学校の返事は許せないってね。 病院でいろいろ話したそうだよ。 私も同じ思いだね。」

 「おふくろもそうなんだ。 あいつ等、まともじゃねえもんね。」

 「お母さんのお願いもあって、やることは全部やるつもりだよ。」

 「というと?」

 「うん、先ずは警察への被害届と刑事訴訟、損害賠償の民事訴訟、そして学校対応について、教育委員会への告発かな。 昌一と手分けしてやるよ。」

 「解った。 俺は法的処理は皆目だから、里沙さんのボディガードと家庭教師をしっかりするよ。 でも親父達、只働きになるんじゃねえの?」

 「まあ今回は構わんよ。 知らん振りしたら、私が人じゃなくなるからね。」

 ビールとお造りが運ばれる。

 「そうか、何か妙な巡り合いになったけど、俺にできる手伝いはするよ。 おふくろ達、夕食はどうすんだろ?」

 「彼女が口内を切ってて、雑炊を食べさせるらしいから、同じだろ。 お土産持ってくよ。」

 「警察は別にして、教育委員会はどうだろう? TVで見た今までのいろんな対応はひどかったからね。」

 「確かにな。 自分達に都合のいいようにしかしてないもんな。 全部トラブルだったし。」

 「都道府県、市町村、教育委員会の数だけある問題じゃねえのかな?」

 「そうかもしれんな。 まあ今回、直面した事態に真摯に対応することだよ。」

 ビールを芋焼酎のお湯割りに変えて、久し振りに親父と差しで呑んだ。


 里沙が肉体的にも、精神的にも相当疲れていると察したようで、母は里沙を2日間は寝かせるつもりらしい。

 その合間に、幸いに里沙が書いていた日記を基に、12月からの状況を姉と二人で聞取り確認して被害届を纏めるらしい。

 中学に診断書を提出するのを、賢も行くことにして、帰宅するまで待ってもらって、午後4時半に兄と二人で出掛ける。

 「用件だけ話すつもりだし、黙って聞いててくれるかな?」

 「いいよ、兄貴に任せる。 あいつ等と話はしたくねえし、何をぬかすか黙って聞いてるよ。」

 校長室で昨日と同じ3人の前に、ボイスレコーダーをテーブルに置き、兄が診断書を拡げた。

 「この診断書により、永田里沙さんは今日から2~4週間、学校を欠席することになります。」

 3人で読んだあと、誰も言葉を発しない。

 兄はじっくり3人の発言を待っている。

 「解りました。 ただ、そろそろ高校受験について進路の確認がありますが。」

 大谷担任が、直接自分に振りかかる問題と受取ったらしく、どうすればいいでしょうかという感じで聞いてくる。

 「それは、武井法律事務所が永田里沙さんの代理人として、大谷先生と話をします。 進学高校及び受験に関しては、緊密に私に連絡して下さい。」

 またしても暫く沈黙が続くが、兄はじっくり待っている。

 「あのう、もう警察や教育委員会には行かれましたか?」

 しびれを切らしたかのような校長の質問に兄は答えず、相手をじっと見る。

 「昨日、加害者本人と父兄に厳重注意すると言われましたが、どうなりましたか?」

 逆に質問を返した。

 長い沈黙のあと、担任が口を開く。

 「まだ連絡していません。」

 「何故連絡しないんですか?」

 「はあ、校長から。 あ、いや然し来週連絡しますので。」

 「ほう、そういうことですか? 何もしていないということですね?」

 担任が苦しげに校長と教頭の顔を見るが、二人は何も言わない。

 賢は、ザックに入れていたお茶のボトルを兄の前に置く。

 兄がゴクゴクと流し込み、賢もそのあと喉を潤す。

 「診断書を見て、教師とすれば、被害女生徒の心配を真っ先にするのが普通じゃないですか?」

 返事は無い。

 「それさえも無く、加害者への注意もせず、貴方方は警察や教育委員会への自分達の心配、身の保全が最優先なんですね。 有るまじきことで、許されることじゃないでしょうね。 被害女生徒とその代理人である私共法律事務所は、警察や教育委員会に対してどうするかを、貴方方に説明する義務は有りません。」

 教師達に言葉は無い。

 「今日は、永田里沙さんが暫く学校を休むこと、及びその理由を医師の診断書を提出し通告しました。 更に、その状況の中で、高校受験に関して、遺漏なきよう連絡対処されるよう通知します。 もし瑕疵があれば、相応の措置をとりますので、ご了解下さい。」

 兄が、賢の膝をポンを叩いたのをしおに立ち上がり、校長室を出た。

 「あいつ等、どうしようもなく最低だぜ。 受験に関して、友達から連絡を貰えるようにしとくべきだね。」

 「そうだな、おふくろに話してみるか。」

 18日(金)には被害届が出来上がり、月曜に警察に提出することになったが、賢はどうしても納得できないことがあり、夕方事務所で皆に話した。

 「一ヶ月もすれば彼女は登校するけど、加害者がまた何かやらかすんじゃないかと思うんだけど。」

 父や兄の予想では、加害者は初犯で、家裁で保護観察処分までなれば上等だろうということだった。

 「それって抑止力になるのかな? 却って逆恨みして、また同じことをしやがる可能性があるよ。」

 「確かにそうだが、何か方法はあるかな?」

 「古典的だけど、本人と家族に警告しときたいんだけどな。 また何かしたら、俺が許さない。 半殺しにするってね。」

 「いささか穏やかじゃないな。 空手有段者は凶器と同じだよ。」

 父が、半分笑いながら諌める。

 「だから警告なんだよ。 俺に突然ナイフを向けやがって、それだけでも許せねえよ。 また彼女に何かすれば、身体を容赦しねえってね。」

 「でもどうやって?」

 3段以上は取ってないが、実力5段の技と切れがあることを認める父と兄であるが、一瞬に手刀を突き込んだことを知っている兄が聞く。

 「うん、奴の家に行くよ。」

 「どんなとこか解らんぞ、やばいとこかもしれんし。」

 「そん時はそん時さ。 もう何もするなって警告だけだよ。」

 「で、何時行くんだ?」

 「これからだよ。 7時過ぎだからちょうどいいだろ。」

 「ちょっと待ちなさい。 そこまでする必要があるかな? こっちの落ち度にならんかな?」

 「やった事を説明して、もうしなさんなって注意だよ。」

 暫く考えた父が、必要はあるが大事にならないように、合気道2段の兄が同行することで許可した。

 PCを持って駅の向こう側の住所に、二人で歩いて向った。

 駅から10分以上歩いて、ゼンリン地図で調べた場所に行くと、7~8年前区画整理され建売住宅が一斉に売り出された地域で、似たような家がたくさん並んでいる。

 その中の一軒で津下と表札がある家をインターホンを、兄が押した。

 どなたですかの問いに、格(いたる)が此処の中3の息子であることを確認し、息子さんの件で、法律事務所から来ましたと用件を伝える。

 玄関で、応対に出た母親らしい女性に兄が名刺を出し、賢を当事者の弟ですと紹介して、見て頂くべき映像があると説明すると、奥に一旦下がり、リビングルームに通されると、兄の名刺を持った父親と思われる男性が居た。

 賢がPCを立上げ用意していると、お茶を出した母親も座る。

 兄が格本人の所在を確認すると、今塾で40分ほどで帰宅するらしい。

 兄はそれ以上何も言わず、賢はPCの画面を二人に向け、映像を再生する。

 5分ほどの映像を、二人がじっと見入った。

 「女子生徒を殴り、足で蹴って、止めに入った弟にナイフを向けたのは、中3の息子さんに間違いないですね?」

 兄が冷静に確認すると、真っ青になった二人が顔を見合わせ、兄にそうですと応えた。

 「この行為によって、彼女が受けた被害です。」

 医者の診断書のコピーを、二人の前に置くと、食い入るように読んだ父親が、あれがこんなことをするなんてと呟いた。

 ぞの時、ただいまと入ってきた青年が、賢を見て、武井先輩、うちで何してんですかと、驚いて向いに座った。

 彼の家だったら、格は弟だなと悟った。

 津下徹は、賢と同じ東〇だが1年後輩で法学部だった。

 賢は、最初大学の空手部に入ったが、あまりにも相手にならなくて、1年で退部するときに入れ替りに入部したが、その時はまだ茶帯で2年でやっと初段を取った後輩だった。

 賢は退部して、小学生時から通っていた町道場でずっと鍛えてきたが、時々や大会前は練習相手をしているので、お互い知り合いだった。

 だからといって、考えていることに揺るぎは無い。

 この映像を見てくれと、向けた画面に再生する。

 映像が終わると、父親が兄の名刺と診断書を見せる。

 夫々を見て、おおごとだと感じたのか、塾に電話して、急用だから直ぐ帰るようにと母に連絡させた。

 本人が帰って来るまで、誰も言葉を発しなかった。

 20分ほどで、急用って何だと格本人が帰り、賢の顔を見て、一瞬怯えたのを賢は見逃さなかった。

 弟を横に座らせ、もう一度映像をお願いしますと賢に頼む。

 「確かにお前がやったんだな?」

 兄の徹が聞くが、格は固まったまま無言だ。

 「どうなんだ? 返事をしろ。」

 「俺だよ。」

 渋々やっと認めた。

 「何でこんなことしたんだ?」

 格は下に顔を落とし、返事をしない。

 「先ず、申し訳有りません。」

 取り敢えずは兄が謝り、父母も頭を下げた。

 「謝罪してもらう為にお邪魔したのではありませんし、理由等はいずれ明らかにされると思いますので。」

 昌一の言葉に、徹の顔が強張った。

 法学部に在籍する者として、先のことを類推したのかもしれない。

 「では、今日のご用件は?」

 「中3の3学期、高校受験を控えながら1ヶ月も休学になります。 大変な負担ですが、復学し受験、そして卒業まで彼女は登校します。」

 昌一が言葉を区切ったので、賢はボトルのお茶を兄に渡すと、一口喉を湿す。

 「今日の用件は、まあお願いとしますが、今後彼女が登校しても一切関わらないでもらいたいということです。 彼女が登校したら尚更のことで、一切の関知を許さないという注意をしておきます。」

 そんなことかというような、ほっとした安堵感らしき反応が3人にあった。

 「止めに入った当事者の弟からも、お願いがありますので。」

 見事なタイミングで、兄が自分に振ってくれた。

 「抵抗できない女の子を殴り、蹴って怪我させる薄汚ねえことしやがって。 まともな男がすることじゃねえし、許せねえんだよ。 終いにはナイフまで向けやがって。 つくづく卑怯な奴だぜ。 今度、彼女にちょっとでも何かしやがったら、俺が許さねえよ。 注意だが、警告しとくぜ。」

 「はあ、そういうことですか。」

 「俺からすれば中坊だが、やってることはチンピラ以上だ。 怪我した彼女の痛みと精神的苦しみを考えてみろよ。 12月からやってるらしいが、今度はもう容赦しねえよ。 手足の骨折なんかじゃねえよ、それだった2~3ヶ月で直るしな。

 一生病院通いにしてやるよ。 」

 「解りました、申し訳有りません。 弟には絶対何もさせませんから。」

 「必ずそうして欲しいな。」

 「はい、それはもう。 それで、何か法的措置も考えておられますか?」

 流石に法学部だな、一応そこまで考えてやがると思ったが、賢はそのことには何も言わなかった。

 「それについては、貴方達に説明する意志も義務も在りません。 いずれお解かりになると思います。」

 昌一が正確に応答した。

 それを聞いた後輩が弟を睨みつけ、突然左頬を右手で引っぱたき、弟の身体がソファに仰け反った。

 「とんでもない馬鹿なことしやがって、その上ナイフまでふりまわして。 しかもこの先輩相手にだ。 先輩は、暮に仲間がやくざ3人に絡まれた時、ナイフを振り回した2人を、正当防衛で5秒で手足をへし折った人だぞ。 いいか、先輩は筋が通らないことは許さない人だ。 二度と馬鹿なことはするんじゃないぞ、いいか。」

 「一応、お願いと注意を致しました。 最後に、保護者としてお父さんのお名前、年齢、職業等をお聞かせ下さい。」

 有無を言わせない昌一の言葉だった。

 項垂れていた父が立ち上がり、戻ると名刺を出したので、生年月日と年齢を確認して辞去した。

 歩いて帰る途中、兄が父に結果を電話で報告し、駅傍の赤提灯で一杯やることを伝えると、父も合流して3人で呑んだ。

 

昨日月曜日午前中、父と兄が警察に行き、被害届と諸々の証拠品を提出し受理され、午後教育委員会に告発書とボイスレコーダーのSDカードのコピーを提出したらしい。

 今日は何も予定が無かったので、ゴロゴロしていると、母が午前中里沙を外に連れていくので、午後から勉強を見てやってと頼まれ、ネットから昨年の高校入試の数学、理科の問題をピックアップし始めた。

 去年の暮、空手部の連中と5人で呑んだとき、2軒目のスナックでお開きにしてマスターとママに送られて外に出たとき、3人連れに一人の肩が当たったとして因縁をつけられ、骨が折れたから治療費20万を払えと絡まれ、胸を小突き上げられ、止めろよとその腕を逆手に締め上げた時に起きた。

 他の二人が怪我をしねえうちに治療費を出せとナイフを向けてきたので、余り強くはない4人に怪我をさせてはと、前に出て向かい合い、一人が切りかかりダウンジャケットをザックリ切ったところで、横に居た一人の手を払いナイフを落とさせ、手刀を叩き込み手首を骨折させ、正面に立つ切りつけた男に右回し蹴りで大腿骨を一瞬のうちに複雑骨折させたことで、駆けつけた警官達と警察に行ったが、マスターとママ、仲間や周囲の証言で正当防衛として迎えに来た父と兄とともににすぐ開放された。

 父と知り合いの署長から、本音を言えばもっと叩きのめして欲しかったと言わしめた件だったが、やはり後味がいいものではなかった。

 しかし、今回の里沙のことはちょっと感触が違い、中学生としてあまりにも薄汚く、許せない。

 外出する予定は無いので、自室の冷蔵庫からビールを出して呑んでいると、ノックの小さな音がする。

 ドアを開けるとピンクのジャージの上下にマスクをした里沙が立っている。

 中に入れて3人掛けのソファに座らせた。

 「大丈夫かい? まだ痛いだろ?」

 「痛いけど、ゆっくり歩けば大丈夫です。」

 「マスク外してみ。」

 まだ薄く残っている青いところをそっと押さえると、やはりまだ顔をしかめる。

 「まだまだだな。 聞きたくないかもしれないけど、金曜夜、奴の家に行って、今後一切関わらないように注意しといたから心配ねえよ。 だから、頑張って早く直そうな。」

 「はい。 あのう、ちゃんとお礼も言ってなくて、有難う御座いました。」

 丁寧な言葉遣いで、お礼を言う。

 そんなこたあいいからと里沙をよく見ると、なんか顔全体の印象が違う。

 小顔だが髪で隠れる部分が少なくなって、髪もなんかサラサラしている。

 「何かちょっと印象が違うな。 何かした?」

 「可笑しいですか?」

 色白の小顔が、ほんのり赤くなる。

 「あの、おばちゃん、いやママに美容院に連れて行ってもらって、髪をショートにしたんです。 やっぱり可笑しいですか?」

 「いやあこっちが全然いいよ、すっきりしてる。 髪もサラサラだね。」

 「そうですか、なら嬉しいです。 家ではシャンプーだけで、ママにリンスやトリートメントを教えてもらって何日かやったらこうなりました。」

 「ママっておふくろのこと?」

 「はい。 家じゃお母さんだけど、おばちゃんじゃ悪いし、一度言ってみたくて。」

 「おふくろは了解なの?」

 「はい、OKです。」

 「ようし、大体解った。 じゃあ幾つか決め事をしよう。 先ず俺は君のことをりさって呼捨てにする。 だから君も俺のことはケンって呼捨てか、ケンにいのどっちかにしてくれ。」

 「はい、じゃあケンにいです。」

 「次はその堅苦しい言葉遣いだ。 面倒だからタメでいいよ。」

 「タメって何ですか?」

 「えっ知らねえの? そうだな、ですますは止めて友達会話だよ。」

 「いやーっ、多分それは無理です。」

 「聞いてるこっちが疲れんだよ。 じゃあ直ぐにとは言わねえから、おいおいそうしてくんねえかな。 いいね。」

 「解りました、なるべくそうします。」

 「解った、そうするよだよ。」

 「あ、はい。」

 「ようし、これから入試についてだ。 休みの間、俺が数理をきっちり教え直すから必死で頑張ってくれ。 国社英は優秀みたいだから、数理をしっかりやり直せば志望校は大丈夫だから。 いいね?」

 「ケンにいは東〇工学部なんですか?」

 「そうだよ。」

 「凄いなあ。」

 「そう、その物言いだよ。 それで今日明日は去年の入試の理数問題をやって弱点を見つけるからね。 いいかい?」

 「はい、お願いします。」

 「昼飯は?」

 「ママと食べて来ました。 美味しかったよ。」

 「よし、早速始めるよ。 俺のデスクでいいから、50分でこの数学問題だ。」

 椅子にクッションを置いて、時40分にスタートした。

 賢もソファで同じ問題を解き始める。

 15分ほどで解き終わり、真剣に問題用紙に向う里沙の横顔を眺める。

 サラサラの柔らかそうなショートヘアになっただけでこうも変わるものかと驚き、微かに感動した。

 視線を感じたのか里沙が賢に向く。

 「やっぱり可笑しいですか?」

 「いや違うよ。 随分イメージが変わったと思ってね。 何かマジ可愛くなったよ。」

 いきなりでいささか慌てながら、それでも正直に答えた。

 里沙が、にっこり笑顔になって用紙に眼を戻す。

 そういえば、里沙の笑顔を始めて見た気がした。

 よーし終了と声を掛けると、鉛筆を置いて用紙を賢に差し出す。

 賢は里沙の指導をするにあたり、その姿勢を決めている。

 それは、できること、できたことを褒めるという極めて単純なことだった。

 賢が小学校時、空手の町道場の老師範の指導が正にそうで、できないことを叱ることはなく、お陰で嬉しく自信に変わった経験則を基にした。

 母が頼んだ時間に、おやつのケーキとココアを持って来てくれた。

 「焦んないのよ。」

 「ママ有難う。 でも贅沢すぎます。」

 「いいの。 そんなことは気にしないのよ。」

 15分の休憩で、理科の問題を始めさせ、その間に数学の結果をチェックして、夕食までに、数学3枚、理科1枚をやらせ、夕食後国英社を1枚ずつ済ます。

 翌日も午前中数学3枚、午後数学と理科を夫々2枚、夕食後国英社を1枚ずつさせた。

 きついだろうとは思ったが数理の弱点解明と、国英社の確認をしなければいけなかった。

 その中で幾つか気付いたことがある。

 先ず字がきれいで丁寧に書いており、読むのが心地よい。

 国英社については殆ど心配無用で、復習をきっちりしておけばまず大丈夫の状態だった。

 得に英語は完璧といえるほどで、受験には必要ないが、会話はどうなのか確認したいと思ったほどだった。

 数学は、基礎は理解しているが応用で捻られた問題に引っ掛っているようだった。

 賢は、里沙が素直で疑うということが苦手な性格なんだろうと受け止め、数学については公式から上の展開に眼を向けさせること、理科はもう少し記憶を増やすことに絞る。

 「里沙、二日間きつかったね、よく頑張ったよ。 字が丁寧できれいだね、読んでて気持ちいいよ。 国英社はノープロブレム、復習だけで充分だよ。」

 「よかった。 でも理数はどうですか?」

 笑顔のあとに、不安が浮かぶ。

 「どっちも基礎は充分大丈夫だよ。 だから数学は応用をしっかりやればいいし、理科は記憶部分を少し増やせばOKだろう。 思った以上にやれてたから、多分、里沙ならできるだろうという結論だね。」

 「ほんとにそうですか?」

 「里沙、タメだよ。 明日から特訓、一緒に頑張ろうな。」

 「はいお願いします、お兄ちゃん。」


 木曜日からマンツーウーマン特訓を始め、元素記号一覧やモースの硬度計を文章化したもの等を、1週毎に2Fのトイレの中に貼ることにした。

 被害届が受理された3日後に、父と兄が民亊の賠償額150万の損害賠償訴訟を地裁に提出した。

 父によれば、半額程度に減額されたとしても、教育資金の足しになれば無駄な仕事にはならないからというものだった。

 特訓を開始して1週間経った日の朝10時に、加害者の兄で後輩の津下徹から電話が来た。

 「先輩、突然で済みません。 いろいろご迷惑をお掛けして申し訳有りません。 実はお願いしたいことがありまして、勝手ですが被害届の取下げをお願いできませんでしょうか?」

 突然のことで驚いたが、自分がはいそうすか承知しましたと言えることではないし、ましてや電話で話すことではないと返事して切り、父に電話が来たことを報告した。

 3時に母に呼ばれて事務所に下りると、応接室に津下徹と父母がいる。

 徹の父が電話での非礼を詫び、正直に申上げますと格の進学や自分の銀行支店長代理としての立場を説明し、自分達が罰を受けなければいけないことは充分承知した上で、賠償請求額を全額お見舞金として支払うので、被害届と損害賠償訴訟を取り下げてもらえないかというお願いだった。

 父がこの場で即答は出来かねますが、検討しますので明日夕方5時にもう一度お越し下さいと引取った。

 その日の夕食時に、犯罪者を作るより名を捨てて実を取ろうと、父が要請を受け入れることを決めた。

 150万全額を里沙の教育資金に充当できれば、その方が永田母子にプラスだと判断したらしい。

 翌日夕方の2回目の面談で要請を受け入れる回答をして、見舞金支払誓約書に父と弟名を署名、実印押印、印鑑証明を受領し、事務所口座に150万の入金が確認できた時点で二つを取り下げることにして終了した。

 大きな問題が解決し、特訓は素直さで染み入るように、眼に見えて身に着いてきて、里沙の笑顔も増えて、下を向きがちだった背中が真直ぐになっている。

 足の回復と共に、気分転換に寒空の庭で体操したり、時には午前と午後の散歩も始めた。

 時には、土曜日中と日曜全日が休みの母直子のためにどちらか半日を、賢が一緒にアパートで勉強させたが、直子が特別嬉しそうな感触は受けなかった。

 母と相談して、賢が1年前スマホを買った時、母には反対されたがそのままにしていた携帯電話を、緊急用と2人の友達との連絡用として里沙に持たせることにすると、とても嬉しそうだった。

 ある土曜日には、里沙の下着や服が余りにも少ないので、見かねた母が里沙用の衣服を紙袋4個分ほど買ってあげると、それこそ初めてこんなに買ってもらったと子供のように喜んで、賢と母の前でファッションショーをしてみせるほどだった。

 学校から連絡があり、明後日から公立高校受験申込みが始まるということで、その日に昌一と学校に出向き、受験申込み書を受領し、里沙の志望校への書類記入をさせて、前日には提出した。

 3週間と2日で医師から登校の許可が出た。

 若いから回復が早いということらしく、これは里沙にも、事務所の皆にも実に嬉しいことで、笑顔が増え明るくなった里沙自身が体現していた。

 登校の5日前には殆どの数理が解けるようになり、残りの4日間は一流進学校といわれる高校の入試問題を何も言わずやらせてみたがちょっとのミスの一問を覗いて完璧に解答している。

 正直、ここまでやれるとは賢も確信は無かった。

 「里沙、何も言わなかったけど、この4日間の問題は一流進学校の入試問題でかなり高度だったけど完全に解いてるよ。 よくやった、褒めてあげるよ。」

 「ほんとに? いつもケンにいが褒めて伸ばしてくれたからよ。 嬉しいな。」

 この頃には里沙の会話もやっと打ち解けてきた。

 「明日2月8日(金)から登校だけど学力は大丈夫だよ。 月末の試験まで今までどおりやればノープロブレムだからさ。 そして風邪をひかないようにだな。」

 「はい解りました。 注意して頑張ります。」

 入試が終わるまで此処に居て、賢がサポートすることで、母の直子も感謝して承知している。

 登校日の朝、賢も一緒にちょっと早めに歩いて行くと、校門の内横に二人の友達、木下綾と中村由香が待っていた。

 「綾、由香、心配させてごめんね。」

 「元気になって良かったね。」

 「お兄さんが里沙のボディガード&家庭教師なの?」

 由香の物怖じしない質問には苦笑した。

 「俺のことはあとで里沙から聞いて。 里沙、先に先生に会おう。」

 職員室に行くとすぐ校長室に通され、初顔の校長、教頭、担任が来た。

 「今日から永田里沙が登校しますので、くれぐれも宜しくお願いします。」

 「大変でしたね。 お詫びします。 もうああいうことが無いように、全教員で努力しますので。」

 「体育は見学ですが、校庭や体育館で見ているだけでは身体に良くないし、風邪の心配もありますので、教室ではなくて図書室で自習にして下さい。 教室に一人にさせたくありませんし、司書の方が居られる所でです。」

 「承知しました。 そのように致します。」

 校長の返事を聞いて退出し、里沙は教室、賢は帰宅した。

 父に3人が変わっていたことを伝えると、父は知っていて、どうでもいいことだから黙っていたらしい。

 実際は諸々の証拠と決定的な2回の会話の録音があって、教育委員会は身内で有耶無耶にできなかったらしい。

 処分が決まり、その前に校長と教頭は依願退職、担任は減俸且つ半年の教育センター研修になったのだが、このことも父が二人を煩わせないために言わなかった。

 聞いたら、里沙、賢共々後味は悪かったことだろう。

 賢は午後大学に出席し、里沙の下校時間に迎えに行った。

 「お帰り。 久し振りで疲れたろ?」

 「全然。 楽しかったよ。 お兄ちゃんの毎日のテストの方がハードです。」

 「へーそうかい。 でもあと少しだから頑張ろうな。」

 「はい。 今はね、テスト楽しいの。 解けるようになったから。」

 鞄を持ってやるが、寒空の中で手ぶらの里沙の頬が少し赤く、小さいながらも溌剌と歩く。

 以前より遥かに明るくなったのは間違い無い。

 帰宅して、着替え、洗面うがい、弁当箱洗いを済ませる里沙に、母がおやつ食べてとアップルパイを出したが、いいですと上がろうとする里沙を呼び止めた。

 「どうしておやつ食べないの?」

 「だって私には贅沢だし。 それに迷惑を掛けてますから。」

 母が里沙をリビングのソファに、並んで座らせた。

 「今日から登校したし、いい機会だから言っておくわね。 里沙が此処に居ること、家の誰一人も迷惑なんて思ってないわよ。 例え数ヶ月でも、一緒に暮らすんなら、ママは里沙を自分の娘として扱うわ。 それに今の里沙には、勉強と同じかそれ以上に食べることが大切なの。 肩身が狭い思いで遠慮なんかを考えるんでしょうけど、そんな小さい考えは貴女のこれからにマイナスだから止めなさい。 貴女一人が増えたって食費なんか全然変わりません。 今はここが里沙の家で、ママとお父さんを親だと思いなさい。 もう賢はお兄ちゃんなんでしょ、私達も一緒よ。 食べる、元気、笑顔、そして勉強よ。 いい?」

 突然里沙が声を上げて泣き始め、母にしがみついた。

 しばらく泣かせたあと、熱いタオルで顔を拭いてやる。

 「この家で泣くのは今のが最後よ。 おやつ食べなさい、ココア淹れるわね。」

 この時、母が秘かな決心をしたことを、賢は知る筈もない。

 父母、賢、里沙の4人での夕食時に、ママいいかしらと里沙が切り出した。

 「明日、友達二人が此処に遊びに来たいって言うんだけどいいかしら?」

 「あら、初めてね。 いいわよ、何時なの?」

 「二時頃ね。」

 「歓迎よ。 楽しそうじゃない。」

 賢は父に合せてビールから芋のお湯割りに変えたところだったが、ならその頃出掛けるかと思ったが、お兄ちゃん一緒に居てねと、先に釘を刺されてしまう。


 土曜日9時頃にゆっくり起きて、朝食後里沙は数理の各1枚、賢は卒論の資料チェックで午前中を終えた。

 明日はIRA今年GⅠ第1戦フェブラリーSなので、昼食抜きで競馬新聞を眺めるが、今日は長丁場のダイアモンドSで、クラシック2ヶ月前はあまり気が入らない。

 ベビーサラミでビールを舐めながら、ソファにだらしなく寝そべっていると、ノックの音がしてドアが小さく開き里沙が顔を覗かせた。

 「此処で話していい?」

 「いいけど、自分の部屋のほうが騒げるんじゃねえの?」

 「二人がお兄ちゃんとも話したいって。」

 同時に二人が、お邪魔しまーすと入りこんで来る。

 慌ててビールを持ち自分のデスクに移動して、ソファを空けた。

 里沙に頼まれ一緒に紅茶とケーキ運びを手伝い、机のデスクトップPCを立上げ競馬データを眺める。

 ダウンやコートを脱いだ二人が、大きい家とか、この部屋広いとか騒ぎ始めたので、部屋を出て2Fに下り、リビングのソファに寝そべった。

 「どうして相手してあげないの?」

 司法書士の資格を持つ母が、事務所の手伝いを終わり上がって来た。

 「うるせえし、かったりいよ。」

 「里沙が言ったわ。 アパートには恥ずかしくてお友達は呼べなかったって。 此処で初めてお友達に来て欲しかったそうなの。 それはケン君も含めてよ。 私は里沙がして欲しいようにしてあげるわ。 貴方もそうして上げて。 はい、これつまみね。」

 母が苺、チョコとジュース、賢はチーズと生ハムのつまみを持って上がった。

 TVの音声を出さないでグリーンチャンネルを見ながら、3人の話を聞いていると話題がファッションや男子アイドル、受験まであちこちに飛び、尽きることはないらしい。

 殆ど友達2人が喋り、里沙は聞き役のようだ。

 そのうちにこっちに来てと呼ばれ、デスクの椅子でソファの向いに座り、ビールを舐めながら出て来る質問に差し障りない範囲で応える。

 物怖じしない由香は140ちょっとだが少々むっちりして、デニムのミニスカートにハイソックスで、私立高校だけの受験らしい。

 綾は150くらいありそこそこ発育しているようで、Gパンですらっとしている。

 2人に比べると、里沙はまだ1年生といってもいいくらいだった。

 綾は里沙と同じ公立高校受験らしいが、私学も滑り止めに受験すると聞いて、自分の迂闊さにはっと気付いた。

 里沙は不安も抱えているだろうし、多分大丈夫とはいっても何があるか解らないので、私学も受験させるべきことまで気が廻らなかった。

 今夜、母に話して月曜に学校に行こうと決めた。

 3人の会話を聞きながら、気付かなくてごめん、できるだけのことをもう一度考えると心中で詫びた。

 まあそれにしても中3女子の取止めのない会話でも、聞きようによっては役に立つもんだなと、内心で苦笑しながら馬鹿にしちゃいけないと戒める。

 里沙がやっている数学の問題を見た2人が、こんな難しいのやってんのと驚いている。

 綾が自分にも教えてほしいと言い出したが、一人で手一杯だとやんわり断わり、ミニスカの由香にパンツ見えてるぞと注意してデスクに戻る


 

 

 

 

 

 

   

 

 

  

 

  

 

 

 

 


  

 

 

  

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 


 

 年が明けて半月経った1月16日(水)午後3時過ぎ、武井賢二は帰宅するために、樹木が結構ある公園を横切って歩いていると、トイレの裏で怒鳴るような男の声がする。

 何事だろうと思い、足を向けて見てみると制服を着た中~高生くらいの男の子が、やはり制服を着てマスクをした小さい女生徒の肩を小突きながら馬鹿がとか喚いていて、後ろに同制服の男女が二人立っている。

 止めようと思い、家でいつも話題になる証拠を残そうと、持ち歩いているビデオカメラをザックから取り出し、撮影しながら近づいた時、男子生徒が右手の甲で女生徒の左頬をひっぱたき、更に右の拳で顔面を殴り、倒れかけた女生徒の左足の膝上辺りを蹴り、踏みつけようとする間に割り込んで、殴った男と連れらしい二人までしっかりと撮影する。

 何だお前はと喚く、3~4歩下がった男子性徒にカメラを向けたまま視線を外さず、倒れた女生徒の肩を軽く押さえ、手を引いて自分の後ろに立ち上がらせた。

 「何だお前は。 邪魔するな。」

 喚く男子生徒を無視し、大丈夫、送るからと女生徒を促すと、待てこの野郎とポケットから飛び出しナイフを出し、持った右手を賢二に向ける。

 181cmの賢二に対して、160ちょっとくらいだろうか、それにしても舐めてやがると、賢二の心にさざ波が動いた。

 「中坊か、何年だ?」

 ナイフを向けられても動じない賢二にびびったように、3年だと応える。

 相手から眼を離さずザックを降ろし、後ろに立つ少女にビデオを渡し、液晶画面にこいつを入れといてと頼んだ。

 無造作に中3に近づき右手をふっと上げ、中坊の視線がそっちに動いた瞬間にナイフを持った手を左手で下から掴み、上に逆手方に捻り上げると、即ナイフが落ちた。

痛そうに顔をしかめる中坊の身体を左に廻し、木に貼り付け、右手をカメラから死角にしておいて、右手の指を伸ばしたまま短いストロークで中坊の水月(鳩尾)に突き刺した。

 げほっと呻いて崩れ落ちかかる中坊の首を掴み、立たせたまま耳に囁く。

 「片輪になりてえか?」

 涙と涎を流し、苦痛に歪む顔を横に小さく動かす。

 「調べるぞ。 もう止めろよな。」

 囁いて首から手を離すと、地面に崩れ落ちた。

 落ちたナイフをタオルで包んで畳み、ザックに入れる。

 もう大丈夫だから送るよと、ビデオカメラを受取り、女生徒の肩を押して歩き出す。

 「怪我してないか心配だけど、家はどこ?」

 「アパートだけど、母子家庭で母は仕事で独りだから怖い。 あいつ、一度来たことあるから。」

 立ち止まって、小さな声の返事だった。

 「今のがアパートに来たことあるの?」

 「だから怖くて。」

 150センチも無い身長で、余り手入れされてないような髪が伸びて、マスクの所為と相まって顔はあまり出ていない。

 「君も中3?」

 コクンと頷く。

 どうしたものか判断に迷い、母に電話で状況を説明し相談すると、連れていらっしゃいとの返事だった。

 「僕は武井賢二、東〇大学の3年。 俺んとこは法律事務所だから、取り敢えず一緒に来ないか? 歩いて5分だ。」

 頷く少女の鞄を持って、自宅まで歩く。

 普段は横の自宅玄関に入るが、今は事務所正面ドアを開けると、母、弁護士で30才の長男昌一、賢二の姉で26才の同じく弁護士の朋美が待っていた。

 応接室に入り、ビデオカメラの記録媒体をPCにセットしていると、この事務所の主で弁護士の父も入ってきた。

 約5分分位の映像を見せると、ひどいなと父が呆れる。

 総て状況を把握した母が、少女のマスクを外すと唇が切れて出血し、眼の下が青痣になっている。

 蹴られた膝裏を押さえると、痛みがあるらしい。

 「お父さん、酒井先生に電話して。 診てもらって治療と診断書よ、私が連れて行きますから、学校と警察にどうするか考えて。」

 父が懇意の医者に電話する間に、朋美が手早く聞取りをして、2年の時同じクラスで、去年の12月初めから因縁をつけるようになったらしい。

 原因は少女の成績の良さと、一見暗そうに見える風貌かららしい。

 それで、成績がガタッと落ち、高偏差値の公立高校に受験できるか、危うい状態であることまでは解った。

 母が少女を連れて病院に行ったあと、4人でどうするか相談する。

 「中学3年であっても、これはやはり刑法犯だな。」

 「親父もそう思うかい? 暴行傷害と銃刀法違反だね。 危険準備もあるかな?」

 「昌一もそう見るだろ。 まあ警察へは考えるとして、これからのことがあるから学校には通報しとくべきだろう。」

 「そうだね、賢、メモリースティックとPC持って行こうか?」

 「一応担任に事前連絡しておこう。」

 少女から聞いた担任に父が連絡する間に、メモリースティックから新しい記憶媒体に手早くコピーし、兄がナイフの指紋をゲルシートに写取る。

 学校では校長室に通され、校長、教頭、担任の3人と向かい合い、兄が夫々と名刺交換した。

 「弟の武井賢二、東〇大学の3年です。 彼が我家に帰宅途中に、通り道の公園で遭遇した事件です。」

 5分ほどの映像を、PCで3人に見せる。

 あいつこんなことしてるのかと、担任の男性が呟いた。

 「4人ともこちらの生徒ですよね?」

 「そうです、永田さんとは別クラスですが4人ともここの生徒です。」

 殴られた少女の名前は、永田里沙と聞いていた。

 「あのう、どうやら校外でのことですので我々がどうこうは出来かねると思いますが。」

 校長の言葉に、賢は思わず兄と顔を見合わせ、身を乗り出したが、兄の手が太腿をぐっと押さえた。

 「里沙さんは、去年の12月からと言ってますが、先生方は把握しておられましたか?」

 「いや、ですから学校外のことで関知しておりません。 私は3月で定年なんで、校外の問題を持ち込まれても困ります。」

 校長の重ねての言葉にあんまりと思ったのか、担任が、永田さんの二人の友達からいじめがあると聞きましたので、注意してましたが現場は掴めませんでしたと、あわてて説明する。

 「ほう、それでは永田さん本人から聞取り調査をして対策は講じましたか?」

 「いえ、そこまではしませんでした。」

 担任が、下を向いて答える。」

 「それは何もしていないのと同じなんですよ。 それで、これだけ証拠があって、今度はどうしますか?」

 兄が冷静に聞取りする。

 「はい、明日放課後に、本人と父兄を呼んで厳重注意します。」

 「大谷先生、学校外のことで事を荒立てんでも。」

 「しかし校長、もうほっとけないでしょう。」

 賢は呆れたが、兄が賢の膝を軽く叩き、何か考えていることが解る。

 「では、永田さん以外の3人の氏名、住所、自宅の電話番号を出して下さい。」

 校長と担任が顔を見合わせ、教頭は視線を逸らせて一言も発しない。

 「あのうそれは個人情報ですので、お出しするのはちょっと。」

 ふーっと溜息を発した兄が、賢に、最後に言わせてやるからもう少し我慢してくれと、3人に聞こえるように言った。

 「さてと。 先ほどいじめという言葉を出されましたが、貴方達はなにも理解しないし、理解しようとしていませんね。 この映像にある行為はいじめなんかじゃなくて、犯罪なんですよ。 暴行傷害の刑法犯、ナイフ所持の銃刀法違反です。 

 今、母が永田さんを病院に連れていって、診断と治療及び診断書を求めています。 ドクターは怪我等に犯罪性を見出せば警察に通報する義務を負っています。」

 父がドクターへの電話で、警察へはこっちで対処するからと、迷惑はかけないと釘を刺したのは聞いていたが、敢えて兄は口にしたのだろう。

 「刑法か少年法、どちらになるかまだ解りませんが、氏名、住所等をお出しにならないのなら構いません。 こちらで調べますが、貴方達も犯人秘匿の犯罪ですかね。」

 3人とも自分達の身に影響が及ぶと感じたらしく、顔色が変わった。

 「この学校の生徒が犯した犯罪の通報は、校長、教頭、担任の御3人にしっかりと致して完了しました。 蛇足ながら、冒頭から今までの会話は全部録音しています。」

 内ポケットから赤ランプが点灯した高性能のボイスレコーダーを取り出して、赤ランプを消した。

 「警察と教育委員会に添付資料として提出しますかね。 尤も、教育委員会はあんた達と同じ穴の狢かもな。」

 「いやすぐ氏名等を出しますので、教育委員会には内聞に。」

 身勝手な校長の言葉を無視した兄が、よく我慢したな、好きなだけいいよと機会をくれた。

 「俺が止めたよ。 ご覧のとおり、ナイフを向けられたがね。 あんた達は馬鹿阿呆以上だな。 てめえの保身だけしかねえ厚顔無恥で、こいつ以上に性質が悪いな。 教師の資格どころか、人の資格がネエよ。 永田里沙がどれだけ苦しんで辛い思いをしてるか。 その上、身体に傷まで受けて。 あんた達を見てると反吐がでるよ。」

 ソファに反り返る賢を見て、それ位でいいのかいと聞く。

 「こいつらに何を言っても、てめえ最優先だよ。 腹が立つだけだね。」

 「そうだな、もう終わろう。」

 兄が3人と向き合う。

 「明日の厳重注意の結果を報告して下さい。 同じ時間に来ます。」

 「兄貴、この人達は表向きそうするだけで、本気で対処する気なんてねえんだから、結果なんか聞くだけ無駄だよ。」

 無言で項垂れる3人を残し、ドアもそのままに出た。   

 

  

 

  

 

 

 

 

 春休み、児童対象のボランティアに10日間参加しましてヘトヘトになってしまいまして、その足で南の島に行き、約2週間ちょっと、何もせずただぼーっとして過ごしてきました。

 TVや新聞を見ることもなく、何かを考えることもせず、昼夜が逆転していた日々もありました。

 昼は海を眺め、夜は星空を仰ぎ、ビールにワイン、マッギボンのシングルモルトが実に口に合いました。

 これから先、この2週間余の時間と空間がどのような意味になるのかまだ解りませんが、いつかまた同じ時間を過ごしてみたい気がします。

 昨夜、自宅に戻りましたが、留守の間ペタを頂きましたことにお礼を申上げますと共に、お返しペタが出来ませんでしたことにお詫び致します。

 またこれから、自分が記して心地よいもの、自分が読みたいものを書いていきますので、読んで頂ければ嬉しいです。

 そういう状況でしたので、サリーさん御免なさい。

 これからもよろしくお願いします。

 勝手な言い訳とお詫び、お願いでした。

                                by レトロロ

 

日曜最初の8レース、新聞とTVを見る昂太郎だが、意欲があるようには見えないし、すずにどうだとも聞かない。

 今朝起きて、すずは二日続けてまたしても、どうやってベッドに入ったか覚えていなくて、恐る恐る昂太郎に聞くはめになってしまった。

朝食を摂りながら昂太郎が全部教えてくれたが、ワインを空け、吟醸のグラスも重ねて、ローブを脱いだ下着一枚で昂太郎の太腿に乗ったらしい。

 そして最後に小さな下着がきついと駄々をこねて、ハーパンTシャツに着替えさせて、ころっと寝てしまったということだったが、それでも身体に違和感はない。

 銀行に寄り、ブランドバッグや靴を買ってもらい、約束どおり12時半には帰り、短パンノーブラTシャツに着替え、洗うものは少ないが洗濯機を廻し、買物を拡げた。

競馬のTVを見ている昂太郎がビールを出し、まだ馬券を買う様子もなく、競馬を見ている。

 昼食は済ませてきたが、買ってきた食料からつまみを出し、少し迷ったあと350缶を持って座り、昂太郎は何も言わないで、注いでくれた。

 黄金色に泡が立つグラスを陽にかざして、きれいと思いながら半分呑んでみた。

 冷えておいしいが、夜呑むより味が強い気がする。

 「昼間のビールって美味しいね。 でもいいのかしら?」

 「少しでもそう思うなら、止めときなさい。」

 その後の説明無しにTVを見る昂太郎に、どうしてと絡んでみる。

 「自分の責任でね、誰にも迷惑かけないで呑むんなら昼夜関係ないだろ。 夜なら良くて、昼はいけないという観念は止めたほうがいい。」

 固定観念を止めろといっているのか、ビールを止めろといっているのか、どっちか解らなかったが、確かにここで静かに呑んでいれば、世間に迷惑をかけることは無いし、犯罪でもない。

 昼間のビールもそれなりのルールがあって、その上でのことだと、落着いて残りを空けた。

 昂太郎も少しずつ食べながら、TVと新聞を見ている。

 脱水まで終えた洗濯物を乾燥はせずに、ハンガーに通し、ベランダに干す。

 外はじっとりと暑いが、中はエアコンのお陰でさらっと心地よく、それがまたビールを美味しくしているのかもと感じた。

 昂太郎の新聞を横から覗いて、阪神9レースを見るが、数字が浮かばない。

 すずを見る昂太郎に、黙って首を横に振る。

 昂太郎がノートに書いた数字を見せられても反応する感覚が無く、言われたとおりの4頭も馬連BOX6点を500円、計3千円を入力した。

 「昨日の今日で、正直力が入らないね。 多分、昨日はすずのMost Luckだったんだから気にしなさんな。 いつものように、当たることを願って遊ぶだけだよ。 買いたい数字があれば言いなさい。 当たり外れは当然だし、まあ楽しくやればいいさ。」

 昂太郎が、柔和に笑っている。

 それにしても、新聞を見ても何か違和感がある。

 競馬新聞どころか、競馬そのものが初めてで、浮かび上がる数字を言っただけなのに、それこそとんでもない金額が動いたようだが、どうしてと考えても解る筈もない。

 ソファに両足を上げ、右手で膝を抱き、左手で新聞を持ち上げ眺める。

 阪神9レース、大きいカタカナが馬名で、その上の番号で決めるらしいことは理解したが、それ以外は何が書かれているのか皆目解らない。

 「〇と〇かしら? でもなんか無理矢理みたい。」

 いいよそれにしようと、単勝、馬連単、枠連と、指示で500円ずつ入力した。

 昂太郎の部屋で携帯が鳴り、随分長い間話して、なかなか戻ってこない。

 ちょっと覗くと、手帳とデスクトップを開きまた電話で、邪魔してはいけないと、メインのGⅠ宝O記念の出馬表を眺めていた。

 9レースが終わり、1~3着馬は全然違う馬番だった。

 昂太郎が戻ったのは40分以上経ってからで、違ってたと報告すると、じゃあ10レースは飛ばしてメインだけにしようと、気にもしてない。

 煙草を吸いに出た昂太郎の背中を追ったあと、新聞に眼を落とす。

 ふっと、ここで私は何をしているんだろうと、昨日からのことを思い浮かべる。

 こういう空間と時間があることを初めて知り、違和感無く溶け込んでいる自分がいて、更にはビールを呑んで競馬という賭け事までやっているが、身体と心に何の不安も抱かないのは、一昨日までの自分とは全く異なっている気がする。

 これで煙草でも吸えば一人前かなと、一人で笑ったあと、新聞の番号に赤ペンで小さな点を4つマークした。

 戻った昂太郎に赤マークを指すと、ノートに書き取りPCの馬体重らしき数字と増減を記入した。

 暫くのあと、指示された馬券を順番に入力、投票した。

 「昨日と少し違うわ。」

 「ほう、解るかい? まあ夏のグランプリなんで単勝からだけど、大したもんだな。」

 「昨日3つ絡みが殆どだったもん。」

 「昨日は特別、すず女神のパワーだよ。 今日は地道にってとこかな。」

 メインレースがスタートしても興奮することなく、淡々とTVを見ている。

 そういえば昨日あれだけ的中したのに、さほど大騒ぎすることもなく、冷静に計算していた。

 見ず知らずであるのに雨宿りさせてくれて、すずをどうこうすることもなく好きにさせてくれる昂太郎が、どういう人なのか不思議に思える。

 最後の直線の坂を駆け上がり、ゴールに躍動し、グリーンのターフに映える馬体を、頷きながら気持ち良さそうに見ている。

 まだ男性に対する免疫がないすずにとって、この安心感と、それでいて保たれている一定の距離感がもたらす隔たりに戸惑いがある。

 その戸惑いと、先を見たくない後ずさりの恐れから、思いがけない言葉を吐き出してしまった。

 「あと1レースあるのよね?」

 自分でイントネーションがおかしいのが、はっきり解った。

 「最終レースはやらないっていうか、余韻があって無理だな。」

 馬が走ってお金を賭けているだけなのに、そんな余韻というような情緒があるのか、いつか忘れてしまっていた自身の心の襞と柔らかさを思い出した。

 まあ今日はちょっと負けだったねと、缶ビールを持ってベランダに出たので、ならば競馬モードは終わりだと、テーブル上を片付けた。

 戻った昂太郎が自室に入ったので、入れ替りにベランダの洗濯物を取込み、ラグの上で畳んで仕分けた。

 自室から出た昂太郎が、封筒を持って3人掛けに座り、すずを2人掛けのソファに座らせた。

 「そろそろ雨宿りも終わりだが、その前に大事な話をするのでしっかり聞いてくれないか?」

 いよいよこの時が来たと、両方の指を握り締める。

 「先ず、これを受取ってくれ。」

 封筒を、握り締めるすずの手に載せた。

 「何ですか?」

 「取り敢えずの50万だよ。 微々たるもんだが。」

 「は? 何で?」

 「だから取り敢えずさ、手持ちであるだけでもね。 昨日言ったろ、博打のルールだって。」

 「でもこんなに?」

 「いいかい、昨日、すずのもの凄いMostビギナーズラックで、一生に一度しか無いような儲けがあった。 競馬でこんなに儲けたのは勿論初めてだし、恐らくこれからも無いだろうね。 それはすずの勘があったからできたことだよ。 だから博打のルールで、すずの分で賭けで取った1億5千万と、僕の取り分から1億5千万、合わせて3億円をすずに渡す。」

 「はあ?」

 突然、理解できないことを言い出した。

 「全部昂のお金だよ。 それに博打のルールなんて解らないし、どうでもいいんじゃないの?」

 「じゃあそうだな。 説明を変えよう。 これはビジネスだよ。 資本金は僕で、すずはオペレーターだよ。 すずのオペレーションパワーでこれだけの配当を得ることができた。 だから、オペレーターとして成功報酬を受取る資格がある、こういうことだ。

 渡すと言っても、現金でという訳にはいかないから、振込先の君の銀行口座を教えてくれないか?」

 夢みたいなことを言って、この人は私が1ヶ月どれくらいで生活しているか解るかしらと思い、銀行と郵貯の通帳をバッグから取り出す。

 「銀行に62万、郵貯が6万、生活費は家賃込みの11万で父方の祖父母から送ってもらって、女子中学生に週2回の家庭教師で3万よ。 慎ましいでしょ、だから夢みたいなこと言わないで。」

 話は聞いてないように通帳2通を黙って受取り、中は見ないで、口座番号その他を競馬ノートに書き取った。

 「OK、じゃあこの口座のどちらかに、火曜日午前中振り込むよ。」

 競馬専用口座は、開催日の翌1営業日は出し入れができないことを、すずが知る筈もない。

 出し入れや残高は見ないまま、2通をすずに返す。

 「すず、雨宿りはもう終わりでいいだろう。 タクシーで送るから、荷物を纏めなさい。」

 とうとうこの瞬間が来てしまったと、畳んだ洗濯物を持ってのろのろと立ち上がり、ベッドの部屋に行く。

 買ってもらった物を眺め、どうしても独りきりのワンルームに戻る決心ができず、用意して待っている昂太郎の部屋のソファにそっと座った。

 「用意はできたかい?」

 黙って首を横に振る。

 「あのう、あのね、このまま帰ってね。 勝った大金を私にくれると言っても、ここから出ればそれで終わりかもしれないけど、それが普通でしょ。 振り込まれなくて、そのままなんて子供でも解ることだし。」

 「僕は、約束を守るよ。」

 嫌味なことを言ったのに、昂太郎は怒りもしない。

 「御免なさい、嫌な言い方して。 本当はお金なんてどうでもいいの。 どうしても独りぼっちの部屋に帰る決心ができないんです。 だから、せめて振込みが確認できるまで、ここで一緒に居させて下さい。 その間に心の準備をします。」

 「僕は明日から暫く帰らないから、ここに居るにしても一人きりだよ。」

 「お願いですから、今はまだ放り出さないで下さい。 そうされたら悲しくて、私おかしくなりそうなんです。 勝手なお願いですけど、もう少し。」

 膝上に置いた両指に、涙の雫が落ちる。

 この部屋の冷蔵庫から350缶を二つ出して、一つをすずの前に置いた。

 「まあ呑もう。 コーヒーと同じで、問題の解決にはならんが、多少の先送りくらいにはなる。」

 プルトップを引き直接呑んだが、涙が混じり不思議な味がした。

 昂太郎は、腕を組んで考えたあと、缶を三口で飲み干し、デスクの引出からキーホルダーを出した。

 「僕が迂闊だったようだ。 振込みに対する懸念は、真にすずが言うとおりだよ。 僕は約束を守るつもりだが、詐欺みたいに騙す状態を作ってしまうことになってしまうんだな。 だから、ここの鍵を渡そう。 火曜日午前中には振り込むから、午後確認できたら帰るということでいいかな? 鍵は集合郵便受けの奥に押し込んでくれればいいよ。 すずを信用する、いいね?」

 皮製のキーホルダーを受取り、有難う御座いますと、何度も頷いた。

 「よーし、結論は出たから、fもう6時近いし、今日はビールもあまり呑んでないし、ビアガーデンで軽く呑んで中華飯店で食事にしよう。 顔を洗って、帰るんじゃなくて外出の用意をしなさい。」

 ビアガーデンの芝生の庭で、軽いものをつまみによく冷えたビールを呑みながら、他人に私達はどう見えるかしらと、不注意にも、つい聞いてしまった。

 「どう見えようが雨宿りだろ。 まあ随分儲けたということはあるがね。」

 少しは甘い答を期待した自分が恥ずかしく、更にルール違反までしてしまったことを後悔し、申し訳なさに、明るく振舞うことでお詫びに代えるしかなかった。

 夕陽が暮れ落ち、やはり高くて入れない中華海鮮飯店に歩く。

 じっとりと湿った空気が身体に纏わり付くが、それでも昂太郎の腕を抱きながら、海鮮飯店がずっと遠くにあってくれればと願いながら歩いた。

 お湯割りを舐める昂太郎と、初めての食材の料理を食べながら、雷雨の中での雨宿りの出会いを思い返した。

 それからの48時間は紛れも無く雨宿りだったが、まだ男性を知らない自分にとって危険があるどころか、初めて他人に甘えることを許した濃密な時間であったことを進んで認めるすずがいた。

 昨夜と同じで、海鮮飯店で誂えた肴を皿に移し、まだ呑むらしくお湯割りを作っている。

 食事をしながら、昂太郎がご飯粒を全く食べていないことに気付いた。

 昨日の鮨屋でも、小さめの握りを数個しか食べてなかった。

 しかし、上質の食材を使った料理を肴を味わいながら、美味そうにお湯割りを含む態度には、いいようのない安心感があった。

 「呑む打つ買うじゃないけど、呑む風呂寝る、僕に遠慮しないで好きにするんだよ。 僕はすずが危険じゃないと認めたからキーを渡した。 すずは、僕が危険じゃないと思えるなら、したいようにしなさい。 気遣いは無用だ。」

 この人は危険どころか、自分を縛ることさえせず、先々を読んで困らないようにしてくれている。

 だが今は、独りではないことを、心と身体の未知の部分に刷り込むことを希求する疼きが奥底にある。

 「お風呂を先にして、それから少し呑みたいな。 バスタブに温いお湯入れていい?」

 「いいよ。 ゆっくり汗を流しなさい。」

 バスタブにお湯が入る間に頭から全身を洗い、バスタブの出っ張り椅子に座り半身浴でじっくり汗を絞った。

 染めてはいない栗色のショートヘアを乾かし、考えて、香水にパールピンクのルージュを薄く塗り、最後に股間にオードトワレを一吹きして、下着なしでローブを羽織りベルトを緩く締めた。

 こういう時こそ、手足のネイルカラーをしておくべきだったろうが、そこまではできなかったので諦めた。

 「私も呑みます。」

 500缶とグラスを持って横に座ると、TVは消され、ベースが刻む低音と駆け抜ける3オクターブのピアノが絡まって、しっとりした疾走感のサウンドが程よいボリュームで流れている。

 唇に触れるグラスの先端がピーンと薄いタンブラーから弾ける泡を、楽しいと受け止める自分がいる。

 「汗を流したらビールが美味いだろう?」

 「美味しいけど、お酒呑みになりそうよ。」

 「ここだけだろ? すずなら、他所じゃしないよ。」

 完全に見抜かれている。

 「昂、あたしローブだけよ。」

 「ほう、いい度胸だね。 でも、それもここだけでだろ? 他所でできるかい?」

 勿論できないし、自分のワンルームでさえも無理なことだった。

 ローブの前が開いて、殆ど全裸身が見えるが、改めて素晴らしいプロポーションだと感心するしかない。

 弛みがなくピンと張り詰めるボディで、ドンと突き出る真っ白い乳房に薄青く静脈が浮いて、小さなピンクの可愛い乳首が載っている。

 腹部は細く締ってゆるやかな曲線を描くお尻と股間に繋がり、あるかなしかの僅かなヘアが覗ける。

 小顔と睫毛に縁取られる二重瞼の優しい笑顔、時に揺れる純真な精神と相まって、いい女だと確信した。

 「すず、いい女だな。」

 「ほんとう? 昂がそう言ってくれるんなら嬉しいけど、じゃあどうして? わたし、変わりたいの。」

 「SEXだけが変わる方法じゃないだろ。」

 昂太郎が立ってチーズを切り、ハイボールを二つ作った。

 チリンと鳴る氷と、筋が通る鼻先に当たる気泡が、ビールとは異なる大人の雰囲気を作り出す。 

 「ローブ脱ごうかな。」

 「好きにしていいけど、まっぱより今のほうがエロいよ。」

 「えーそうなの?」

 「どっちにしても、俺はすずとはSEXしないよ。」

 やっぱりそうなんだと、ローブの前をそっと合わせる。

 「あと一杯にして、シャワーにするよ。」

 昂太郎がバスルームに立ったあと、身体を洗い終わる頃合を見計らって、ローブを脱ぎ、バスルームに静かに滑り込んだ。

 バスタブ内の出っ張り椅子に座る昂太郎の横に座り、裸身を預ける。

 驚く様子もなく、真っ白に張り詰めるすずの裸体に温いお湯を流す。

 「見事に美しいヌードだな。」

 バスタブですずを立たせ、裸体をしっかり眼に焼き付けて、撫でるように昂太郎の両手が腰まで下がり、お臍から股間までキスして、探し当てるように奥の隠れる真珠に唇と舌で触れると、すずのお尻がぶるっと震える。

 「相手は俺じゃないのに、未練がましいマーキングをしてしまった。 すまない。」

 昂太郎がバスルームから出たあと、初めての感覚に鳥肌が立ち、椅子に座り込んで、暫く動けなかった。


 締め付ける感覚が一切ない素裸にケットを捲き、大きく背伸びして、今朝は戸惑うこともなく眼をさました。

 ハーパンTシャツを着て急いでトイレと洗面を済ませ、リビングに行くと、スーツノータイで、大きめのブリーフケースと上着を持った昂太郎が自室から出てきた8時だった。

 「おはようございます。」

 「おはよう。 暑くなりそうだね。」

 「朝食は?」

 「食べないよ。 僕はもう出かけるから、あとは好きにしなさい。」

 玄関ドアで見送って、駅へ向う昂太郎の背中をベランダから眼で追ったが、振り返ることはしなかった。

 食料は充分にあり、簡単な朝食を済ませ洗濯機を廻した。

 もうすぐ夏休みに入る大学に、今日明日は行くつもりはない。

 多くは無い洗濯物を干し、することが無くなると、ここに居てもやっぱり独りだと実感して、ここに居るにしても一人きりだよと言った昂太郎の言葉が身に染みた。

 エアコンを入れ、バスタブや全部屋の掃除と身体を動かし、気を紛らわせる。

 室内はエアコンのお陰で気持ちいいし、ここなら誰かが侵入する心配もないが、

独りきりで会話は存在しない。

 ジャズサウンドを流し、3時には缶ビールを取り出した。

 

 火曜日正午過ぎ、昂太郎がくれた59万も持って、駅近くの郵便局まで歩く。

 じっとりとする熱気が纏わり付き、省エネされている局内っでもほっとする。

 ATMの通帳記帳を押して、LEDが点滅する挿入口に通帳を入れた。

 何もなければ、画面に総てのお取引は記帳されていますと出て、通帳が戻ってくる筈だが、印字の音がする。

 通帳が戻り覗き込むと、振込ヤマイコウタロウと1億5千万円が印字され、残高が150,067,000となっている。

 局内の端の椅子に座り、通帳を小さく開いてもう一度見ても、数字に変わりはない。

 バッグの50万の封筒から20枚を分けてATMに預け入れると、残高が150,267,000になった。

 通帳をバッグにしっかりと仕舞い、じっとりと暑い空気を掻き分けるように、銀行に向って歩き出す。

 すずには、もう既に銀行に同額が入っているだろうとの確信を持った。

 約3日間、昂太郎の言動を見聞きし、言ったことはする人だとの実感がある。

 15分歩いて、郵便局よりは多少涼しい気がする銀行のATMに通帳を入れると、全く同じに振込ヤマイコウタロウと1億5千万円と印字され、残高が150,620,000になっている。

 9万を残して30万を入金すると、150,920,000と印字された。

 バッグを胸にしっかりと抱いて、昂太郎のマンションに戻る。

 頑丈な玄関ドアのツインキーをロックしたことで緊張から開放され、身体の力が抜けて、暫くドアに寄りかかった。

 ドアに貼り付くポロシャツで汗びっしょりに気付き、エアコンを入れ、温いシャワーで汗を流した。

 ハーパンTシャツで、涼しいリビングのラグに座り込み、通帳2通を並べて開ける。

 間違いなく夫々に1億5千万円、計3億円が入金になっている。

 僕は約束を守ると言い切った昂太郎の言葉と顔が浮かび、一緒に居て欲しいと痛切に願った。

 3億円の価値がどれほどのものか、すずには想像できない。

 金額が凄いが、それ以上に昂太郎がきっちり約束を守ったという事実が、頭の中を渦巻く。

 その渦巻にたゆたい、ぼーっとしていると、いつの間にか3時になっている。

 昨日今日だけで、独りの淋しさと辛さは場所ではないということをしみじみ理解した。

 私も約束を守らなければと口に出して、のろのろと身体を起こす。

 荷物を整理すると、大きな紙袋3つに一杯になり、ブランドバッグと靴の袋だけを持ち帰ることにして、ローブや服の残り2つはクローゼットに収納した。

 歩くつもりで、袋を全部持ってタクシーを使うという発走は浮かばなかった。

 最後に自分が寝た部屋を掃除して、預かったキーで施錠する。

 マンションの内外を遮蔽する自動ドアを通り、エントランスホールの集合郵便受けの305にキーホルダーを押し込むべきだが、どうしても決心できない。

 このキーホルダーのみが昂太郎との拠り所であり、これを戻して断ち切ることの決心ができず、ごめんなさいとバッグに戻した。

 6時半から9時までの中3女子の家庭教師を済ませ、帰る途中雨避けをした庇から305号室を見上げると、1枚分だけレースカーテンにしたガラスサッシから明かりは見えない。

 水曜、そして木曜の家庭教師後の9時半にも同じ場所に来てみたが、やはり明かりは消えたままだった。

 そして昂太郎のマンションに雨宿りして1週間後の金曜日、今日も同じ9時半にマンションに向って歩く。

 話し相手がいない独りぼっちの月曜から金曜までの5日間、もう唯一信頼できる昂太郎がいなければ精神(こころ)も身体もおかしくなってしまいそうだ。

 じっとりと暑い空気に包まれながら、今日は明かりがあってと、祈りながら道路を渡り、お願いと声を出して振り返る。

 しかし、やはりレースのカーテン越しに明かりはない。

 どうしてと口を押さえ、暗いままのレースカーテンを呆然と見上げた。

 全身から力が抜け、落ちそうになる涙をハンカチで押さえ、3Fのレースカーテンに向って助けてと手を合わせるが、勿論なんの返事もない。

 暗いままのレースカーテンの部屋に入ることが頭をよぎったが、約束をきっちり守った昂太郎に対して、キーホルダーを返すことができず、更に無断で入室する二重の約束違反は、決して許されることではない。

 独りきりのワンルームに帰るしかないのだろうかと、脱力して歩道に眼を落とした時、コツコツと靴音がして、交差点のナトリウム灯に照らされる横断歩道にYシャツ姿の男性が立った。

 雨避けした庇前の歩道に立つ涼美をじっと見る。

 「すずか?」

 あの時と同じ、包み込むように柔らかい低音の声だった。

 ただ、邪魔をする雷鳴と雨音は無い。

 近づく昂太郎に駆け寄り、胸に顔を着ける。

 「もうだめ。 精神(こころ)と身体が壊れそう。」

 「そうか。 却って苦しめてしまったな。」

 すずの一言で、総てを悟ったようだった。

 「よし、行こう。」

 すずの肩を押し、道路を渡る。

 マンションのオートロックパネルにキーを差し込み廻して自動ドアを開け、新聞は止めてあるらしい郵便受けのダイヤルを廻し、郵便物を取り出す昂太郎に、すずは取り出したキーホルダーを見せると、笑顔で頭を撫でられた。

 部屋に入り、3ヶ所のエアコンを入れ、キッチンと洗面室の水を暫く出した。

 「すず、食事は?」

 「まだです。」

 「着替えはあるの?」

 「服は全部置いてあります。」

 お礼とお詫びを言いかけるすずに、話はあと、寿司と肴があるからピザを頼んで食事だ、その前にシャワーしなさいと、聞く様子も無いので、総てを察知しているらしい昂太郎の指示に従うことにした。

 ピザとつまみになるものを電話して、服類を出してシャワーを使い、ローブだけで届いたピザや鮨を並べる。

 シャワーが済んだ昂太郎が、ハーパンTシャツでビールを取り出す頃には、室内が涼しくなり、低くジャズサウンドが流れて1週間前と同じになった。

 「久し振りの再会に乾杯。」

 グラスを合わせ、キンキンに冷えたビールを流し込む。

 「わたし、謝らなければいけないの。 約束したのに鍵を返せなくて。 ごめんなさい。 それにあんな大金どうしていいか解らないの。」

 「鮨とピザってミスマッチだが、まあしょうがないな。 ではワインにするから、鮨は分け合って食べよう。」

 注がれた白ワインに手が出せず、思わず本音がこぼれる。

 「独りじゃ辛くて、もう精神と身体が壊れそうです。 どうしたらいいか解らないんです。」

 「食べてワインを呑みなさい。 まあ先送りだが。」

 「ほんとにどうすればいいのか?」

 「ここの鍵を持ってるだろう。 引っ越してくる、勇気ある決心はできるかい?」

 「えっ?」

 「ここで大学生として暮らしたらということだが。」

 「いいの?」

 「僕は大歓迎だよ。 但し、食事の支度や洗濯掃除なんかの余計なことは考えなくていいから、学業に専念することだな。 学だけじゃなくて院への可能性もあるだろう。」

 「そこまでも?」

 「有り得ることじゃないか。」

 「それって、じゃあね、もしかして結婚?」

 「そのことは考えなくてもいいだろう。 ここで精神と身体を健全にして、学業に専念する、それだけだよ。 いずれ、すずに相応しい人が現れるだろうからね。」

 「そうしますから、よろしくお願いします。」

 末尾の言葉に反発するのは押さえ込んで、嬉しい提案に対する返事だけをはっきり答える。

 「了解した。 具体的なことは明日にして、僕は呑むから、すずは食べなさい。」

 「ありがとう。 じゃあ私も食べて呑みます。」

 から揚げを齧り、ワインを流し込む。

 「すず、見事な乳房が見えてるよ。」

 「あらやだ、じゃあもう見せてあげない。」

 ローブの前をゆっくり合わせた。

 ほうと驚いて笑顔を浮かべる。

 小さな駆け引きを覚えた気がする。

 昂太郎が酢締めのこはだを噛んで、ワインから変えたお湯割りを大きく含んで、優しい眼ですずを見つめる。

 「ここにきれいな花が咲いてるよ。 嬉しいね。」

 独り暮しらしいこの人も、自分がいたら嬉しいんだと、すずの心がほのぼのと温かくなり、笑顔で見返す。

 ふと立ち上がった昂太郎が、キッチン横の壁面にある給湯パネルのお湯張りボタンを押した。

 「どうしたの?」

 「シャワーだけじゃ身体が解れなくてね。 温い湯に浸かるよ。 上がったらまたビールからだな。」

 「ゆっくりどうぞ。 待ってるから。」

 「いいよ、何もしなくていいから、眠かったら好きにしなさい。」

 お湯割りを空けた昂太郎が、バスルームに消えた。

 ソファで、もう独りぼっちじゃないと声を出し、テーブルの汚れ物を片付け、上がってからすぐ呑めるようにして、洗面室のドアを静かに開けた。

 鏡に写る上半身を確かめながらローブを脱ぎ、優しい笑顔の自分に小さく手を振って、昂太郎が座り浸かるバスタブに溶け込んだ。

                                   FINE


                     読んで頂きまして、ありがとうございます。

 

 

 


  

 

 

 

 

 

 

 

 


 



 

 

 

 

  

 

 

  


 

 

 

 

 

  


 

 





 

 


 はっと眼を覚まし、最初は自分が居るところが解らず、自分の身体を両手で押さえ、携帯の時間を見て、昨日のことを思い出す。

 昨夜、服と一緒に買った歯ブラシで歯磨きしたまでは覚えているが、その後が思い出せない。

 着ていたハーパンTシャツそのままで寝ていて、下着ブラはちゃんとしているし、身体に異変の感覚も無いのでし、一安心したが、どうやって部屋から出るか考えながら大きなサッシガラスの外を見ると、昨夜の雷雨が嘘のように晴れている。

 2枚買ったTシャツの白に着替えて、意を決して部屋を出て、リビングに座る男性に小さな声でおはようございますと挨拶すると、おはよう、ゆっくり寝れたかなと、柔らかい低音の響きの返事があり、洗面室を指して、男性はベランダに出た。

 ロックして歯磨き洗面を済ませ、シャワーで身体を流して下着とブラを取替え、髪をブラッシングしてリビングに入ると、ちょうど昨日と同じ香り高いコーヒーができたところだった。

 ソファでブラックのコーヒーを一口味わい、有難う御座いましたと丁寧にお礼を伝え、お辞儀する。

 8時半、TVは点いてなくて、柔らかいジャズサウンドが流れている。

 「いい天気だが、暑くなるだろうな。 コーヒーを飲んだら、雨宿りも終わりでいいだろう。」

 はいのつもりで頷くが、一人部屋に帰る寂しさに思わず涙が出そうになるが、指を握り締めて我慢する。

 悪いが朝食の用意はないと、またベランダに出てしまった。

 コーヒーを飲み終え、男性が昨夜見ていた新聞をじっと見て、決心してマグカップを洗い、ベッドの部屋で着替えた。

 昨夜来た時の服に着替え、買ってもらった衣類の袋を持ち、リビングの男性にお世話になりましたと挨拶して、自分で鍵を開けて玄関ドアを出た。

 ルームナンバープレートを見て、エレベータで1Fに降り、集合郵便受けも見たが、今出て来た305の数字の下に名前は無かった。

 朝の陽射しの中、歩いて自分の3Fの狭い誰もいない部屋に戻り、声も音もしないベッドに座ると、我慢していた大粒の涙が零れ落ち、声を出して泣き出してしまった。

 いつの間にか眠ってしまい、起きると10時半になっていた。

 空腹を感じて、今唯一自分が食べられるカップ麺を出したが、寂しさと侘しさでまた涙がこぼれて、床に正座し、拳を握って涙が出切るまで流した。

 涙を流し切り、青空を見て決心し、ザックに着替えを詰め肩に掛け、手提げバッグを持って部屋を出た。

 さっき出て来たばかりのマンションに向って歩き、大きなガラスドアを開けてエントランスホールのオートロックパネルの305を祈る想いで押した。

 はいと返事があって、画面に男性の顔が写る。

 水田涼美です、お願いしますと、掠れる声を絞り出した。

 しばらくの沈黙のあと、パネルに顔を近づけなさいと言われ、そのとおりにする。

 涼美の顔をよく見て何か気付いたようで、入りなさい、玄関は開いているとの返事で画面が消え、ガラスの自動ドアが開いた。

 エレベータで上がり、出て来たばかりの305のドアを開けて中に入り、ツインキーをロックした。

 リビングに立ったまま、今日も雨宿りさせて下さいとかろうじて告げると、また涙がはらはらと流れる。

 涼美の荷物をベッドの部屋のソファに置き、用意したらしい氷をたくさん入れたビニール袋を渡して、しばらく眼を冷やしなさい、可愛い顔が台無しだと、洗面室に一人残された。

 大きな鏡に写る自分の眼が腫れて、ひどい顔になっていた。

 15分ほど冷やすと、まともな顔に戻った。

 「可愛い顔に戻ったね、ではちょっと出かけよう。」

 細身のGパンにサンダル履きで、今度は男性の大きな車の助手席に乗せられて外出する。

 行く先は、涼美が財布に余裕がある時利用する高級スーパーだった。

 男性が籠を持ち、食料や果物、飲物を入れて、涼美にも欲しいのを入れなさいというが、頭が余り働かない。

 涼美にも籠を持たせて、男性が指すプリンやケーキを入れさせた。

 最後にテナントのベーカリーでパンにサンドイッチ、コンビニで煙草と競馬新聞を買って帰った。

 エアコンの除湿を入れ、食料品を仕舞って、バーガーとサンドイッチやヨーグルト、苺、プリンを出して昼食にする。

 「何かあって来たんだろうし、来た以上は遠慮しないで好きにしなさい。 僕は呑んで競馬をやるが、僕に気兼ねしてぎくしゃくしないこと。 いいね。」

 TVに競馬が写り、アイスコーヒーのボトルとビールの500を出す。

 涼美にアイスコーヒーを注ぎサンドイッチを勧め、ビールでバーガーを齧りながら、新聞を拡げるので、空腹に遠慮なく食べた。

 ふと思いついて、シャワーを使ったが洗面室のロックはしなかった。

 ピンクの小さい下着にノーブラで、ピンクのタンクトップ、白く薄い短パンに着替えると、身長165、体重44、スリーサイズ87.56.84の色白のボディが一気に現れる。

 ガラス皿に入れたピーナツを置いて座ると、驚いた顔で涼美を見る男性に、着たかったけど、怖くて自分の部屋でもできなかったと言い訳する。

 男性が煙草を吸いに新聞を持って出て、涼美は露出が多い自分の身体を見て、怖さの無い開放感と身体を締め付けない心地よさが嬉しかった。

 さくらんぼも出して、プリンにケーキも食べていると、一人ではない実感と共に、自然に笑顔になり、甘えてみたい気がする。

 「競馬がいやなら、僕はあっちで見るが?」

 「いやです。 ここに居て下さい。

 間髪を入れず、即答する。

 「高い果物まで食べてお腹一杯なんて、すっごい贅沢みたい。」

 「滅多に無いのなら、偶にはいいだろう。」

 昨夜とは全く違う自分の心境を受け止めながら、自分の身体を見て欲しくて、

そこまでしなくていいという男性を立たせて、洗剤の場所を聞きながら洗濯機を廻した。

 「勉強は?」

 「今はしません。」

 「必要ならこのPCを自由に使いなさい。 馬券はあっちのPCで買うから。」

 「あっちに行っちゃうんですか?」

 「いや入力だけだよ。」

 新聞とビールを持って、自分の部屋と思われるダイニングルームの向こう側に行ったがドアを閉める音はしなかった。

 一人がいやで、男性が入った部屋に行き、開けたままのドアを小さくノックして、置いてあるソファに座った。

 6畳の自分の部屋の4倍はある広さで、ベッド、デスク、冷蔵庫にエアコンがある。

 「どこでも着いて来るんだね。」

 「すみません、ごめんなさい。」

 「全然構わんが退屈だろう?」

 「いいえ、でも一人では。」

 「では向うに戻るか。」

 リビングのソファに座り、PCを立ち上げる。

 「競馬は?」

 「何も知りません。」

 「入力できるかな?」

 やってみますとPCを引き寄せる。

 男性が言うサイトを開き、画面を見て言われるままにアルファベットと数字をブラインドタッチで入力する。

 ほうと男性が呟き、阪神、7レース、馬単、○○、2千円と、組合せが異なる数字を何点かクリックを繰り返し、最後購入をクリックして完了した。

 涼美の額に汗が滲んだ。

 「今日は最初だから小額だが、操作が凄いな。」

 「情報処理1級です。」

 「ほうSEか、道理で。 しかし、理学部でかね。 いや聞きすぎた、すまない。」

 呑んでいても、話したことはちゃんと聞いていたようだ。

 「いいです。 高校で準備して1年の時取りました。」

 もう一度開いて、購入履歴を読上げ、それを男性がノートに確認記録して、ダートマイル戦がスタートした。

 2分弱のレースが終わり、着順表示に出た数字は入力した気がする。

 指示があり、投票内容照会を開くと、確かに2千円買っている。

 また指示でページを開き、番号が一致する部分の数字が45.8と読み上げた。

 赤ランプが点灯して確定らしいが、指示で投票内容照会をまた開くと、6点入力したうちの1点に的中、払戻91,600円と出ている。

 いい配当だと自室に行き、戻った男性が万札を涼美に握らせた。

 「君が入力してくれたビギナーズラックだよ。 1万2千円買って、8万の配当だ。 あげるから仕舞いなさい。」

 「そんな。 いえ、いいです。」

 「これは博打のルールだ。 きみのビギナーズラックだから財布に仕舞いなさい。」

 また、札を涼美に握らせる。

 はいと返事して、昨日受取った1万と6千円しかない財布に入れて戻った。

 「今日は涼美くんのビギナーズラックデイみたいだから、君の運に乗ろう。 面白くなってきたな。」

 「私、何にも解りません。 言われたとおりに入力しただけです。」

 「それが正にビギナーズラックさ。 300円で10点買っても3千円だ。 阪神8レース、16頭だから、1から16番までの馬名の上の番号を適当に選んでごらん。」

 8レースが開かれた新聞を、涼美の前に置く。

 身体を前に倒して新聞を見るが、何も解らない。

 「涼美君、悪いがさっきから胸が丸見えだ。 何か上に着なさい。」

 はっとして、胸元を押さえ身体を起こす。

 同時に頭に血が昇り、顔が真っ赤になるのが自分でも解った。

 「見えてもいいです。」

 小さな声の返事だったが、出た言葉は、目前の名前さえ知らない男性に対しての、涼美の心中にある願望と許容だった。

 「何と呼べばいいですか? 私、男の人知りません。」

 一気に叫ぶように言ったつもりだったが、やはり小さな声だったし、真っ赤になったまま下を向いていた。

 「先に何か着てくれないか?」

 黙って立って、自分のザックから半袖の白ポロシャツを着て、下半身を考えたが、そのままにして戻った。

 「僕は山井昂太郎、37歳だ。」

 男性の名前を、声を出さないで何度か反芻する。

 「私、来る時に呼び方を決めてました。 パパか名前の呼び捨てです。」

 もう顔の赤みは無くなり、声も普通になっている。

 「こうって呼び捨てにします。 私もすずって呼んで下さい。」

 「昂か、パパよりはまあいいか。」

 昂太郎がノートに、さっきの馬券の配当を記入する。

 「じゃあすず、8レースの数字。」

 「ほんとにいいんですか?」

 「もう一つ、序でだ。 ですますは止めてタメにしなさい。 いいかい?」

 「はい、解りました。 だったら全然解らないけど〇〇〇〇の4つにします、いいですか?」

 8レースの馬番号を眺めて、浮かんだ数字を口にした。

 聞取った数字をノートに記して、組合せを考え買い方と金額を決める。

 「いいよ。 タメにしてくれ。 じゃ入力だ、言うとおりだよ。」

 指示どおり打ち込んで、すずが読上げ、昂太郎がノートをチェックし、間違いないことを確認して、投票をクリック、OKもクリックして完了した。

 連とか単、3連単とか見当もつかないが、とにかく言われたとおりであることは間違いない、

 「すず、あっちのPCで僕の馬券の入力だ。」

 「え、あっちでも。 解りました。」

 昂太郎の部屋のデスクトップでも指示どおり入力し、読上げ確認したが、リビングのPCと同じ数字以外もあり、買った金額が大きかった。

 リビングに戻り座ると、うっすら身体に汗が滲む。

 エアコンが効いているので暑くはない筈だが、身体が火照るのと、見えてもいい、むしろ昂太郎に見て欲しい気持ちが入り混じって、着たばかりのポロシャツを思い切って頭から脱いだ。

 脱ぐ時、タンクトップも一緒に首までずり上がり、上半身が丸見えになったが、気にならないし、初めて異性に晒した存在感たっぷりの乳房を見て欲しいという思いが奥底にあった。

 「すず、着なさい。」

 落着いた、柔らかい低音だった。

 タンクトップを下に引っ張る。

 「何か暑いの。 昂なら見えてもいい。」

 昂太郎の顔は見れず下を向いたまま、また顔が赤くなったが、そこまでが精一杯で、気持ちはあっても見て欲しいとは言えなかった。

 「そうか。 では、見えたら眼の保養にしよう。」

 さらっと流して立ち上がり、自分で500缶を出して断ち切ってしまった。

 TVが阪神8レースの発馬を映している。

 「さあスタートだ。 どうかな?」

 膨らみ突き出る胸の上で腕組みして、俯き加減にPCのキーボードを眺めても、焦点が合わずぼやけている。

 「よし直線だ、行け。」

 笑顔でTVに見入る昂太郎を見て、何も解らず、これからの時間を見通せない自分の胸中の白い渦巻きに、苛立ちと悲しみを見出してしまった。

 「際どいが、ひょっとして来たかもな。 しかしVTRじゃ解らんな。 確定まで待たされるか。」

 渦巻きに頭と心を侵され、次を読む経験が無い自分の身体のもどかしさに、ぼんやりとTVを眺めることしかできない自身がいた。

 「すず、余計なことは考えるな。 でないと、この時間が無意味になって断ち切ることになる。」

 短時間で最初の希求に充足し、更に読めない次のステップを求める欲を持ったすずを冷静に見抜き、ここに来たシンプルな原因だけ解消しろ、でなければと警告している。

 また大粒の涙をこぼし、タンクトップの胸を濡らすすずを置いて、昂太郎はベランダに出た。

 のろのろと立ち上がり、洗面室で顔を洗い、鏡に写る自分に、雨宿りなんだよねと言い聞かせ、昨日のピンクのハーパン、別のタンクトップの上にTシャツを着た。

 「帰れませんでした。」

 「なら、一人じゃないことだけにしなさい。」

 はいと返事はしたが、また涙を流すすずに、何事もないように8レースのオッズを開く指示が出る。

 涙も拭かず、少し慣れたサイトからオッズを開ける。

 「馬単。」

 何度か聞いた式別、決定をクリックする。

 聞かれた組合せの倍率を順番に答えていると、涙は止まった。

 「投票内容照会№2を読上げて。」

 「はい、12点、3千6百円購入、馬単〇〇的中、払戻し4万2千円です。」

 「ほう2番目のオッズか。 3万8千円の儲けだな。 すず、これで出るが、向うで見よう。」

 デスクトップで投票内容照会№3を開く。

 「読上げて。」

 「はい、14点、2万8千円購入、馬単〇〇的中、払戻し28万円です。」

 「いいな、25万儲けだ。 俺の2点、4千円は余計だったか。 しかし、すずのビギナーズラックは凄いぞ。 最後に纏めて渡そう。」

 「何をですか?」

 「儲け分だよ。 博打のルールだと言ったろ。」

 「お金なんか要りません。 それより。」

 「ストップ。 それ以上はルール違反だ。」

 出掛った言葉を飲み込んで、辛うじてごめんなさいと震える声で答えると、また涙が出てしまった。

 涙を無視した昂太郎は、何か食べなさいと言い置いてベランダに出た。

 また顔を洗い、メロンを二人分切り、ケーキ、ジュースを出す。

 「すずのビギナーズラックを徹底的に追い駆けよう。 9レースのダート1、200は休憩して10レースを見てくれないか?」

 「隣に座っていい? 今だけだから。」

 50型TVの正面の二人掛けソファに座る昂太郎に、吹っ切ったつもりで聞いてみた。

 ピーナツを齧ってビールを流し込んだ昂太郎が、ゆっくり左側を空けてくれる。

 メロンやケーキの皿を動かし、横に深く座り、新聞の発走時間を確認して、食べてからと答え、出馬表を眺めた。

 昂太郎が空いた缶を持って立ち上がり、新しいのを持って座った。

 「ビールよく呑むね。」

 「そうかな。 1時間に1本だよ。」

 無闇に呑んでいるようだが、考えていることが窺えた。

 「そんなに呑める昂が羨ましいな。」

 「自慢できることじゃないが、慣れればこうなる。 すずだって昨夜は結構呑んでたよ。」

 「ここだったからよ。 他所じゃ殆ど呑まないもん。 それにね、歯磨きのあと覚えてないの。」

 「そうかい。 洗い物して、おやすみなさいってちゃんとしてたよ。」

 「覚えてないって恥ずかしいよ。 初めてだし。」

 「他所ではやばいかもな。」

 「解ってる。 こうさせて。」

 昂太郎の左腕を、両腕と胸で抱え込んで、頭と身体を凭せ掛ける。

 初めて掴んだ男の腕は意外にごつく、煙草の匂いが微かにする体臭を、記憶するようにそっと吸い込む。

 ビールを呑む喉の音が、耳に心地よく届いた。

 腕を挟んだ乳房には初めての感触だが、乳房を通して身体の奥底に響く未知の蠢きに、驚きと戸惑いが鳥肌として皮膚に現れた。

 昂太郎はそのままの体勢で、すずの心と身体の揺らめきを見抜いているかのように、到達地点をゆっくり待っている。

 体臭と感触を身体に記憶させ、未知の昂ぶりが治まるのを待って、新聞を掲げ数字が浮かぶまでゆっくり時間を待つ。

 「〇〇〇かしら?」

 昂太郎が持つ新聞から、10レースの浮かび上がった馬番を読んだ。

 ノートに阪神10レース、三宮S、3才上1600万、RD1200のメモの下に〇〇〇と書く。

 「殆ど無印だな。 すずのラックに乗って馬体重も見るのは止めよう。 よし、打ち込んで。」

 指示に従い、馬連3点3千円、馬単6点6千円、三連複1点3千円、三連単6点6千円を入力、読上げ確認し購入金額1万8千円で投票した。

 「よし、あっちで僕の分をやってくれ。」

 デスクトップに同じように入力したが、指示された金額が違った。

 1点5千円で、購入合計金額は9万になっている。

 「10分でスタートだよ。 楽しみだな。」

 二つの合計購入金額は10万を超えて、自分の1ヶ月の生活費より多い。

 この人は今日はOFFのようだが、休日はいつもこうなのかと、ふと思った。

 「休みはいつもこうなの?」

 競馬と、昼間から呑むことを併せて聞いたつもりだ。

 「今日明日はたまたまね。」

 簡潔な返事で、日曜も同じということは判ったが、明日も雨宿りと言いたい自分の言葉は我慢して飲み込んだ。

 昂太郎がソファに凭れるのに合せ、また左腕を抱いて、頭と身体を預ける。

 「スタートだ。 馬体とグリーンターフがきれいだろう。」

 返事は求めていないし、自分がそう思っているだけのような言い方だったが、光り輝いて躍動する馬体と、緑の芝は確かに美しいと感じた。

 4コーナーから直線に向い、一番のゴールを目指して、躍動する馬体群が懸命に坂を駆け上がる。

 昂太郎がノートをちらっと見て、よし、差せと小さく声を出した。

 大外から来た2頭が差し切り、1、2着のゼッケン番号は確認できた。

 「よーし、馬連単は来たな。 3着はどうだろうな?」

 確かに1,2着馬の番号は入力した記憶がある。

 昂太郎に言われて両手を解き、PCを操作して馬連、馬単の読上げたオッズをノートに記入していると、1着から5着までの馬番が出て、確定の赤ランプが点灯した。

 「すず、凄いぞ。 君が言った3点、どんぴしゃりだよ。 すずの勘とLuckはどうなってるんだ。 購入履歴照会ナンバー4を読上げて。」

 当たったらしい昂太郎の弾んだ声が嬉しくて、急いでサイトを開く。

 「いい?」

 「ゆっくりね。 書くから。」

 「OK。 馬連84,900、馬単128,300、3連複549,400、3連単2,220,200、千円18点の18,000で、払戻2,982,800よ。」

 「凄いな。 じゃあ№5を。」

 「はい。 馬連424,500、馬単641,500、3連複2,747,000、3連単11,101,000、5千円18点の90,000で、払戻14,914,000だわ。」

 「ふうーっ、参ったな。 10万が1千5百万に化けたぞ、すず、君のビギナーズラックはほんとにどうなってんだ? まるで女神だよ。 まあいいや、考えるのはあとだ。 こうなったら徹底的に行こう。 メインの11レースを頼むよ。」

 すずの頭を撫で、新聞を渡す。

 褒められ、撫でてくれたことで一層嬉しくなって、両足ごとソファに上げ膝を抱いて新聞を眺める。

 競馬自体も、馬券の種類さえ知らないのに、偶々当たったようで、昂太郎が喜んでいることは素直に嬉しいが、終わった時はどうなるんだろうと不安が矢のように掠める。

 序々に大きくなる不安で、紙面がぼやけるが、そのぼやけた中に三つの数字が浮かび、更にもう一つの数字が微かに光る。

 「三つと、もう一つかしら。」

 「よし、読上げて。」

 四つの数字を伝え、新聞を返すと、阪神11、米子S,、3才上オープンハンデ、RT1600と書いた下にいろいろと書き付けながら首を傾げて腕組みしてしばらく考える。

 「よし、とにかくすずの数字で突っ込むよ。 先ずすずの分、入力いいかい?」

 サイトを開き、どうぞと答え、指示どおりキーボードを叩き、入力を読む。

 「阪神、11レース、馬連、千円で6点、馬単千円で12点、3連複千円で8点、3連単千円で24点、合計50点、5万です。」

 よし、では向うでと、デスクトップに入力する。

 「阪神、11レース、馬連、5千円で6点、馬単5千円で12点、3連複5千円で8点、3連単5千円で24点、合計50点、25万だけど、こんなにいいの?」

 「いいよ、投票してくれ。」

 クリックして投票が完了した。

 新聞から眼を離さない昂太郎に言われ、11レースの馬体重と増減を読む。

 「すず、済まんがもう1回入力してくれないか。 すずを信用しないんじゃないが、さっきの4つは不人気ベスト4だ。 ちょっとあんまりなんで、保険を入れとこうと思ってね。」

 「阪神、11レース、馬連、1万円で6点、馬単1万円で12点、3連複1万円で8点、3連単1万円で24点、合計50点、50万だよね。 トータルで80万になっちゃったけどいいのかな?」

 「OK、投票だ。」

 クリックで投票したが、入れた数字は、すずが言ったのとは全く違う数字だった。

 「ありがとう。 すずの数字は買ったし、信用しないんじゃないから、気を悪くしないでくれないか。 だからといって、当たらなくても気にしないことだよ。 僕が勝手にしてることで、すずに責任はないんだからね。 楽しんで遊ぶゲームだし、さっきえらく儲かったんで、どっちか当たってくれればそれでよしだ。 どっちも楽しみだよ。」

 ゲームというが、たった2~3分のことに80万も注ぎ込めることが理解できない。

 自分の生活費の半年分くらいのお金を賭けれるのが、この人の感覚と生活なんだと思うしかなかった。

 

 リビングに戻って二人並んで座り、もう1回とねだった。

 競馬を離れ、二人だけの空間に戻りたくて、左腕を抱き眼を瞑る。

 昨夜初めてここに入った時の自分とは全く変わっているが、先が読めない自分にとって、これがベストの状態なんだと自覚すると、高揚感の中で落着くことができた。

 昂太郎のスタートだの声で、現実に引き戻される。

 「すずに夢を見せてもらってると思って、待つとしよう。 1分半の夢だ。」

 TVの実況アナがずっと喋り続けているが、内容はよく解らないし、咀嚼しようとも思わない。

 決勝線手前で多頭数が横一線に並び、ゴール板を駆け抜け、アナが10頭が大きく横に広がってゴールしましたが、これは判りませんと叫んでいる。

 流石ハンデ戦で横一線だなと昂太郎が呟くが、これも意味が解らない。

 「これは解らん。 待つしかないな。」

 「当たればいいね。」

 「うん、すずの祝杯になればいいけどね。」

 昂太郎が長いなと呟いて、更に待たされて馬番と赤ランプが点灯し、TVの場内からどよめきが上がり、大変な波乱になりましたとアナが叫ぶ。

 1、2、3着の馬番に記憶があり、腕を解いて購入履歴照会№6を開いた。

 「いい、読むよ。 馬連的中1,559,500、馬単的中3,036,500、3連複的中17,282,800、3連単的中127,275,000。」

 「ちょっと待って。 書くからもう1回最初から。」

 最初から繰り返し、購入金額5万で、桁を数えながら払戻1億4千9百拾9万3千8百円と読上げた。

 昂太郎がノートから眼を離し、すずをじっと見つめたあと、№7と静かに促す。

 「いい、ゆっくり読むね。 馬連的中7,997,500、馬単的中15,182,500、3連複的中86,414,000、3連単的中636,375,000、購入金額25万で、払戻7億4千5百9拾6万9千円になってるよ。」

 「すず、君は凄いぞ。 女神以上だな。」

 「№8はね。」

 「いやそれはいい。 愚かな捨て金だった。 残高確認を見てくれないか。」

 「はい、898,193,800、約9億になってる。 これだけ増えたの?」

 昂太郎も画面を覗き込んで確認する。

 「そうらしいね。 たった3レース、すずの予想で、3百万の競馬資金が9億になったんだな。 信じられんな。 先ずはとにかくありがとうだね。」

 左腕で肩を抱いて、右手で頭を撫でてくれる。

 嬉しくて身体を寄せるが、自分の腕で男性の身体を抱きしめる勇気は無い。

 ちょっと考え事をするからと、新しいビールを持ってベランダに出て、煙草に火を点け、簡易椅子に座った。

 すずはテーブルの皿を片付け、甘えたくて戻ってくるのを待った。

 かなりの時間が経って戻って座った昂太郎の腕を取り、今夜も雨宿りいいか聞いて顔を覗き込むと、TVを消した。

 「もの凄い女神様の頼みは断われないだろう。 GⅠがあるから、明日1時までに戻ると約束できるなら、ご褒美に欲しい物を何でも買ってあげるよ。」

 「約束しまーす。 ありがとう。」

 「そうか、まだ5時前か。 なら、明日といわず今から行こうか?」

 「いいけど、明日も居るよ?」

 「勿論OK、女神様。 買物もいいよ。」

 さっそく着替えて、タクシーで銀行に寄ってデパートに行き、スカートとパンツのスーツ2着を4日後受け取りにして、バスローブや衣類、香水を買ったが、下着類は10万を渡して、すず一人で買わせた。

 食料も買い込み戻ってから、昨日は碌な食事じゃなかったと、すずも前を通ったことはあるがとても入れない鮨屋で食事した。

 「僕はまだ呑むから、風呂でも好きにしなさい。」

 「私ももう少し呑みたーい。」

 鮨屋で誂えた包みを皿に移し、350缶を持って座る。

 TVは消して、低いジャズサウンドが流れている。

 1缶だけ昂太郎の相手をして、シャワーに行った。

 今日買ったセクシーな下着で、バスローブを羽織りたかった。

 丁寧に髪から足まで洗い、髪を乾かし顔を軽く叩いて、ブラ無しに自分ではかなり際どいと思う小さなピンクの下着だけを着けた。

 白のローブは軽く羽織り、ベルトは締めないで、薄いルージュと、最後に首と脇、手首に香水を付け、お待たせしましたと昂太郎の横に座った。

 胸前がはだけ、ノーブラだが締付けがなく、自分一人の部屋ではできないことだったが、開放感で気持ち良いことを改めて実感する。

 「すず、ナイスボディで甘い香りだね。」

 「どう、いい女に見える?」

 ローブの前が開いても、気にしない。

 「最高だよ。 見事な色白のボディに、しゃぶりつきたい乳房だな。 眼の保養を超えてるよ。」

 「昂なら襲ってもいいよ。」

 「危険だが、蠱惑的な響きだぞ。」

 「初めてよ。」

 「声が震えてるな。 ちゃんと着なさい。」

 「どうして? 私はいいのよ。」

 立ち上がり、お湯割りをお代わりし、すずにワインを注いで渡してくれた。

 ローブの前を全部開けられ、空いた左手で思わず胸を押さえた。

 「そういうことだ。 まあ好きにしていいが、無理はしなさんな。 相手が違うだろ。 少なくとも俺じゃないな。」

 ローブの前を合せ、ベルトを締めてくれた。

 「すずを抱きたくないの?」

 「ないと言えば嘘だな。 だが、相手は俺じゃない。 相手がうらやましいがね。」

 「だったらどうして?」

 「あまり俺を困らせないでくれないか。 女神の君に俺は相応しくないし、これでも一生懸命我慢してるんだよ。」

 この状態で一生懸命どころか、余裕で昂太郎が自制していることは、経験が無いすずにも判った。

 「解らない、なんで? 女の私がそうしてって言ってるのに。 どうして?」

 「俺はすずに相応しくない、それが答えだよ。 同じ相手なら、酒の相手をしてくれないかな?」

 男女のことでは到底太刀打ちできる相手ではないことにやっと思い至り、もう切替えて、つぶれるまで呑むつもりになったが、すずの心の奥底にある微かな安堵感には本人は気付いていない。

 「相手してあげる、ワイン注いで。」

 「ここでだけだぞ。」

 「もう注意ばっかり。」

 「男からすれば、酔っ払った女はカモだからな。」

 はっとして昂太郎を見て、ほんとに心配してくれてると気付いた。

 ワインを注いで、チーズを切り、大吟醸も出してくれた。

 「ここならへべれけになっても大丈夫だよ。 すず女神の今日のLuckに乾杯だ。」

 嬉しいのか悲しいのか解らない涙を我慢しながら、アルコールの力を借りて、自分を曝け出すつもりで赤ワインを呑み干した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 

 

 


 

 

 


 

 

 

  

 

 

 



 



 

 

 

 無理矢理どうしてもと引っ張り出された、思ったとおりの楽しくない飲み会で、具合が悪いからごめんねと断わり、早々と抜け出して、電車から降りたばかりだった。

 ぽつぽつと降り出していた雨だが、駅から徒歩で15分弱の女性専用の1ルームコーポに急いで帰れば大丈夫だろうと、急ぎ足で歩き出したばかりだったのに、いきなり雷鳴がなり、滝のような雨が降り出した。

 急いで帰ろうと走りだしたが、雨以上に雷と稲光がものすごい。

 駅から真直ぐの、センターラインがない2台の車がすれ違える道を走ったが、あっという間にずぶ濡れになり、とにかくバリバリと音が鳴る稲光が怖くて、片側一車線の道路との角にある2階建ての建物の入口の小さな庇に駆け込んだ。

 水田涼美(みずたすずみ)、国立大学理学部2年生、二十歳になったばかりの6月下旬、金曜日の7時半過ぎだった。

 その交差点にはナトリウム灯が設置されていて、暗くはないが、それ以上に雷鳴が轟き、バリバリと鳴る稲光が間断なく続く。

 雨以上にものすごい音の雷と、一瞬明るくなる稲光がとにかく怖ろしい。

 雫が顔を滴り落ち、慌ててタオル地のハンカチを出して顔と頭を拭いたが、それだけで絞るのが必要だった。

 風向きだろうか、庇の下に雨が吹き込んで容赦なく身体を濡らすが、雷鳴が怖ろしくて、耳を塞ぎ、Gパンの腰を屈めた。

 5分ほどそうしていただろうか、それでも雷鳴と雨は治まらない。

 吹き付ける風もあって、身体が冷えて、雨が叩く足が震え始めた。

 自分のコーポまで10分くらいだが、これだけ濡れていれば、時々通るタクシーも停まらないだろうと、泣きそうになった。

 それでもGパンを絞り、ポロシャツを拭くが、唇も震え始めた。

 その時、向いのマンションの3Fの真ん中当りから突然明かりが漏れた。

 カーテンが開けられ、人の頭部らしきものがベランダに出たのが解り、煙草だろうか時々赤い点が蛍のように明滅する。

 寒さに唇を振るわせながら腰を屈め、耳を塞ぎつつ、合間に少しでもとGパンを絞るがいつまで続くのかと涙がこぼれた。

 いつの間にか煙草の明滅は消えたが、カーテンを大きく開けたのか、照明の幅が大きくなっている。

 もういっその事、素足のミュールを脱いで裸足で走ろうかとも思うが間断ない雷鳴が怖いのと、寒さで足が出そうにない。

 向いのマンションの大きなドアが開いて、傘をさした人が小走りに道路を横断して、庇の前に立った。

 「ひどいな、ずぶ濡れじゃないか。 うちで乾かしなさい、風邪ひくよ。 向いの3Fのカーテンが開いてるとこだが。」

 逆光で顔は見えないが、男性だということは解り、その方が怖いと思わず狭い庇の端にあとすざりした。

 「いつ止むか解らんし、熱発や事故はやばいだろう、遠慮は要らんよ。」

 雷鳴のなか、男性の低音が柔らかく響いた。

 「心配だが、ま、信用しろというのは無理かもしれんな。 もうカーテンは閉めるよ。」

 傘を立てたまま向きを変えた男性に、思わず待って下さい、お願いしますと声を出して、傘の横に身体が動いてしまった。

 耳をつんざく雷と、稲光、冷たく叩きつける雨からとにかく逃れたくて、とっさに出た言葉と行動だった。

 男性は傘を全部涼美に傾けて、急ぎ足で道路を渡り、マンションのドアを開けてエントランスに入った。

 「助かりました、有難う御座います。 此処で充分です。 小降りになったら出ますから。」

 「身体が震えて、唇が真っ青だよ。 早く乾かして温めないと。 それに、此処に一人にはしておけないな。」

 確かに身体はガタガタ震えているし、唇もそうなんだろうが、そこまでは決心ができない。

 「僕はやることがあるから、その間に乾かして温まればいいだろう。 まだ止みそうにないし、身体がやばいぞ。 心配は無用だから来なさい。」

 包み込むような柔らかな低音の声で、、思わずはいと従った。

 ホールのオートロックパネルにキーを差し込み自動ドアを開けて、エレベータで3Fに上る。

 玄関のドアを開けて男性が先に入り、鍵はしないでいいからと中に行く。

 いつでも動けるようにドアを開けたまま待っていると、タオルで頭を拭きながら涼美にバスタオルを差しだし、こっちにと呼ぶが、雫は滴り落ちるし、恐怖心もあって動けないでいると、そのままいいから早く温めなさいと急かされ、震える身体で上がり、洗面室に連れて行かれた。

 ドアの内鍵はここ、4分で風呂にお湯が入る、洗濯機に放り込んでこれを押せば脱水乾燥、タオルとバスタオルはこの棚、何かあればバスルームの給湯パネルのお話を押せばいいと、要領よく説明して涼美を残してドアを閉めた。

 急いで内鍵をロックし、鏡に写る血色のない顔を見ながら洗面台のお湯に手を浸していると、手先の震えが治まり、ピーピーの音のあと、お湯張りを終了しましたと女性の声が出た。

 ロックを確認してもういいわと呟き、震える身体からそう多くない服を脱ぎ、しばらく考えて下着も一緒に洗濯機に入れてボタンを押した。

 ゆったりとしたスペースと大きなバスタブにびっくりしながら、頭からシャワーを流してバスタブに浸かった。

 さっきまでの冷たさが、お湯でジーンと溶けて行く。

 温まって、洗髪と化粧をしない顔の洗顔だけ済ませ、バスタオルで身体と雫が落ちた床を拭いて洗濯機を見ると、洗いの文字が点灯し、グーンと小さな音で廻っていた。

 乾燥ではないことは解ったが、止め方が解らない。

 壊したらそれこそ大変だし、やっと思い出して、バスタブ上の壁面にある給湯パネルのお話ボタンを押した。

 ピーピー音のあと、どうしたと声がして、洗濯になってしまって、あのう着るものを貸して下さいと、冷や汗が滲む思いで伝えると、少しの間のあと、ドアの横の外に置くから自分で取りなさいと返事があった。

 バスタオルで身体を捲いてしゃがんでいると、ノックと同時に置いたよという声のあと、カチャッという向うの部屋を閉めたらしい音がした。

 しばらく待って、ドアを小さく開け、手だけ出して置かれた服を掴み、また施錠する。

 肩で息をして服を見ると、ジャージのズボンは長すぎて脚が出ないので、下着無しは承知でハーパンを穿き紐を締め、その上にジャージのズボンで紐をしっかり締めて裾を捲った。

 未開封のTシャツは太腿まであり、ハーパンの下に押し込んで、ダンガリーシャツもボタンを全部留めて袖を捲って手を出した。

 一つ大きい溜息を出し、男性が居るらしい明かりが点いたスモークガラスのドアを開けると、かなり広いリビングで、右奥に大きなTV、その真向いに二人掛けのソファ、その間の三人掛けのソファにタオルを首にかけた男性の背中があった。

 有難う御座いました、洗濯機をと、恐る恐る声を掛けると、お、そうかと立ち上がり操作して、音がしたら乾燥にしてスタートを押せばいい、20分くらいだから、コーヒーでも飲んで待っていなさいと洗面室のドアは閉めないで、リビングの二人掛けのソファに涼美を手招きする。

 手際よくドリップのコーヒーを淹れて、よかったらこのまま何も入れないで飲んでみなさいと、白い大きなマグカップを涼美の前のソファテーブルに置く。

 まさか何か薬でもと思ったが、自分で見ていたし、香りの良さに一口含む。

 芳醇な香りのあとに、微かな酸味と甘みがあり、最後にほろ苦味が鼻を抜けて、思わずおいしいと声が出た。

 ゆっくりコーヒーを味わっていると、洗濯機の音がして、言われたとおり乾燥をスタートさせる。

 ソファに戻ってコーヒーを飲んでいると、PCとTVを見ている男性が、大丈夫かねと声を掛ける。

 男性の年齢なんかよく解らないが、40歳くらいかなと見当をつけて、はいとだけ答えた。

 服は我慢してくれと、サイズが合わないことを断わったようだが、ノーブラ下着無しが気になって浅く座り、誰も居ないんですかと聞いてみた。

 見てのとおりだとゆっくりビールを呑んで、やはりPCとTVを見て、時々に赤ペンで新聞に何か書き付けている。

 香り高いコーヒーを飲み終わると、洗濯機から音がして、洗面室をロックして服を取り出し、ブラと下着だけは着けた。

 リビングのレースカーテン越しにまだ雷鳴が続いて雨も止みそうにないので、露出が多い乾いた自分の服を着るのは躊躇いがあり、借りた服をまたしっかり身に着け、服を畳んでソファに座った。

 不思議そうに涼美を見て、しばらく考えたあと別室に行き、涼美が持つ服の上に1万円札を置いた。

 「何ですか?」

 「この雨だし、タクシー代だ。 ここから次の信号まで歩けばコンビニにタクシーが居る。 居なければ待てばいい。 靴ロッカーの端にビニール傘がある。」

 そのコンビニは知っているし、確かにタクシー駐車スペースもある。

 何も言えず、この雷雨で決心がつかないまま服を握っていた。

 「大変だろうと思っただけだし、今ここで何かされたと騒がれたら迷惑でね。 失礼だが手元不如意かと思って、金と傘は返却無用だ。」

 立ち上がり、冷蔵庫から500の缶ビールを出して一口含み、PCの横に置く。

 「あのー、冷房ですか?」

 自分でも思いがけない言葉が出た。

 「いや、除湿だけだ。 お家の方が心配されるだろう。」

 暗に悪気は無いし、目的は済んだろう、早く帰れと言われた気がした。

 ソファに背をもたせ見回すと、空気がさらっとして、居心地がいいことに気付く。

 恐怖心が薄れ、涼美の心にちいさなさざ波の変化が現れた。

 「TVは何ですか?」

 「質問ばかりだな。 明日の競馬だよ。」

 もうここに涼美が居ないかのように、PCTVを見てビールを呑んでいる。

 「あの、私にもビール下さい。」

 話し相手がいない6畳一間の1ルームに帰るのが淋しいのと、ここの居心地の良さに、自分でも思いがけない言葉がまた出た。

 笑顔で涼美を見て、しょうがないという感じでキッチンに立つ。

 手際よくチーズの盛り合わせと胡瓜のスティックを切り、爪楊枝をテーブルに置いて、350の缶とグラスを渡されたが、注いでくれる様子もないので、自分で注ぐ。

 見たことがないチーズを一口齧ると初めての味で、半分ほど一息で呑んでしまった。

 緊張して喉が渇いていたのだろうが、しみじみ美味しかった。

 それまでは、ガラス器のピーナツしか無かった。

 取り皿とマヨネーズ、塩が欲しかったので、新聞を読む男性に聞いてみると、塩はIH横の引出、マヨネーズは冷蔵庫、皿は適当に出しなさいという返事で、ジャージを押さえながら、二人分の皿、小さなフォークと一緒に並べたが、男性は何も言わない。

 味が違う美味いチーズで飲み干し、もう1本というつもりで缶を上げると、自分でしなさいとでもいいたげに冷蔵庫を指すので、自分で取り出した。

 しかし人心地着いたのは確かだし、そう心配するシチュエーションではなさそうだが、助けたつもりでも無視することはないだろうと聞いてみた。

 「競馬って面白いんですか?」

 んと、顔を涼美に向ける。

 「面白いが、長くなるんで説明はしない。」

 内容は別にして返事はしてくれたし、居心地の良さに少しリラックスして、身構えていた肩の力が抜けるのを感じて、ソファに深くゆっくり座る。

 助けてもらったお礼のつもりで、何故今すぐ帰らないか、説明をしておこうと思った。

 「帰っても誰も居ないし、話相手も居ない一人なんです。」

 好きにさせておくという感じで返事は無いが、聞いてはくれるとの感触はあり、見ず知らずの雨宿りの主に、独り言のように話し始める。

 「〇〇国立大学理学部2年で二十歳です。 実はここから歩いて10分ちょっとの女性専用の1ルームコーポに住んでますから、傘があれば歩いて帰れます。」

 柔和な眼で涼美を見ている。

 「こんな時間に一人歩きは危ないだろう。 でもまだ9時前か。」

 「夜の一人歩きほんとは怖いんです。 鍵を掛けた自分の部屋に一人で居ても怖いです。」

 「世間一般からすればここも同じかな。」

 「だったらどうして?」

 「人助けなんて高尚なつもりはない。 煙草を吸ってて、大変そうだったから雷雨を避けて温まりなさい、それだけだ。」

 「ここも危険なんですか?」

 当人に聞くことではないと、言ったあとで気が付いた。

 「世間一般と言ったろう。 僕は君をどうこうするつもりは無いし、そんな趣味も無いな。」

 抵抗感が無い空気と会話しているようで、休憩のつもりで美味いチーズを齧りビールを呑む。

 ジャージを片手で押さえ、勝手にまた350を取り出す。

 「今夜泊めて下さい。」

 唐突だが、一人になりたくない切ない思いと、危険がないと感じる本能が突然言わせた。

 「好きにしてもいいんだが、どうするかな?」

 今まで確固としていた男性が、初めて迷っている。

 ソファに寄りかかったあと、一息入れるようにベランダに出て煙草を吸っているが、風向きで雨は降り込んでいないようだった。

 戻ったあともビールを呑む。

 「困ったお嬢さんだな。 では私がタクシーで送ろう。 それで、雨宿りは無事終了だ。」

 一人ぼっちの自分の部屋に帰りたくない気持ちが大きいのを確かめた。

 「一人になりたくないんです。 迷惑は掛けません。 お願いします。」

 ううーんと後頭部に腕を組んで考えたあと、またビールを呑む。

 「今は一人暮らしでも、ご家族は心配されているよ。」

 「私、両親、兄妹いないんです。」

 はっとしたように手を上げて、涼美の言葉を遮った。

 「それ以上はもういい。」

 しばらく考えたあと、こっちに来なさいと、大きなTVの向こう側の部屋に涼美を連れて行く。

 「僕は何もしないし、君が何かされたと騒がない約束を守れるなら、今夜はここで寝なさい。 鍵は掛かる。 枕、シーツ、ケットはクローゼットにある。」

 自分の1ルームより倍以上は広い部屋で、ベッド、ソファ、TV、エアコンがありホテルの部屋のようだった。

 「すぐ君の服にきがえなさい。 いいね。」

 「何で着替えるんですか?」

 「そのぶかぶかじゃ可哀想だから、寝巻き代わりのものを買いに行こう。 急ぎなさい。」

 涼美を一人残して出て行った。

 確かにこれではと、急いで乾いた自分の服に着替えてリビングに行くと、細身のGパンの男性と傘を持って出て、タクシーで夜も開いているディスカウントショップに行った。

 言われるまま、下着やハーパンTシャツ、歯ブラシなど買い、待たせていたタクシーで、電話したらしい鮨屋で折り詰めを受取って買って帰ると10時半になっている。

 シャワーをという男性を先にして、折り詰めを皿に移し用意してからシャワーし、ベッドの部屋で新しい下着とブラ、ピンクのTシャツハーパンに着替え、洗面台の引出にあったドライヤーで髪を整え、リップクリームを薄く塗ると楽しくなった。

 涼美にワインを開けてくれて、初めて乾杯した。

 「何か楽しい。 有難う御座います。」

 「いいかね、君はここから出るのに鍵は必要無い。 私はトラブルを起こすつもりは無いし、出るのは君自身の意志でいつでもできる。」

 「解りました。 これ、お返しします。」

 渡された1万円札をテーブルに置く。

 「そうだな、ここに花を咲かせてくれたお礼だ、仕舞いなさい。」

 「嬉しい、ありがとう。 それに服も。」

 「さっきまでひどかったからね。 突然ではあったがすまなかった。」

 「何にもお礼が出来ませんけど。」

 「いやそれ以上はいい。 お腹すいたろう、大したものじゃないが、食べなさい。 眠くなったら寝ればいいし、ロックを忘れないで、好きなようにしなさい。」

 男性はワインをワングラスだけにして、芋焼酎のお湯割りに変えた。

 TVは点けないで、緩やかなジャズサウンドが低く流れている。

 涼美はそういう機会が全く持てず、まだ男性との性経験は無いが、自身では決して悪いとは思わないフェイスとボディに興味は無いのかと、2時間前までとは完全に矛盾して、甘えたい願いを心の中に抱いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

  

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 12月4日、第1週の月曜日、マンションの前で登校する二人を見送ったが、きりの動きに何となく余裕の自信らしきものを感じた。

 退社時間に近くなった夕方5時、佳人の携帯が鳴り、女将からだった。

 「今マンションに居るんだけど、まだきりが帰って来ないのよ。 何か遅くなることあるの?」

 「いや何も無いよ。 どうしたの?」

 「今日お休みで、また河豚を入れたから先に連れて行こうと思って4時前に来たんだけど、まだ帰らないのよ。」

 「解った。 すぐ学校に行くから、おふくろはそこに居て。 帰って来るかもしれないから。 何かあったら電話する。」

 妙に胸騒ぎがして、内田課長に娘がまだ帰らないので学校に行きたいのでと報告すると、それは心配だ、すぐ行きなさいと許可してくれた。

 車を注意して運転し、学校が近くなるとすれ違う人にも眼を向けるが、もう暗くて顔の判別はできない。

 学校に着いて、職員室に走ると他の先生と共に、担任の北川先生も居た。

 「峰村です。 娘の霧里がまだ帰宅してないんですが、何かありましたか?」

 「あらそうですか。 6時限の終わりの3時半に児童相談所の吉澄さんという女性が見えて、養子縁組後の家庭環境についてアフターフォローのヒアリングを本人からしたいということで、図書室に案内しました。 それで4時20分頃、終わりましたが遅くなりましたので送りますということで二人で帰られました。」

 佳人の首と背中を、冷たいものがぞわっと這い回り、やばいと危機感が走る。

 「車でしたか?」

 「いやそこまでは見ていませんが。」

 すぐ女将に電話する。

 「児童相談所の吉澄女史が、きりにヒアリングのために来て、送るといって連れて行ったらしい。 すぐ藤岡刑事に電話するから。」

 「何ですって。 いいわ、私もすぐそっちに行きます。」

 刑事ときいて、北川先生の顔が青ざめた。

 藤岡刑事に電話で状況を説明すると、解りました、すぐ行きますので先生も居てもらって下さいとの返事だった。

 僅か5分で2台の捜査車両が来たが、サイレンは聞こえなかったので、近くで赤色灯ははずしたのだろう。

 4人の刑事が来て、先生から聞取りして、藤岡が佳人にきりの服装を確認して電話している。

 女将もやって来て、不安そうに佳人に寄り添う。

 佳人は松本事務所の田沢と、内田課長にも状況を連絡した。


 まんじりともしない一夜が明けた。

 昨夜、田沢が来て、何か動くなら自分が一緒にするから一人で勝手にしないこと、これは事務所の仕事だからとくどいほど言うのに了解と答え、女将を送らせて帰した。

 逆探のチームも先ほど引き揚げ、一人になった7時だった。

 藤岡刑事の要請で、きりの写真のSDカードと、枕に着いていた栗色の1本の髪を渡したのが嘘のように思える。

 ぼーっとして何もできず、何も考えられない。

 朝日の中に一人で居ると、叫び出したい衝動と、それを冷静に見つめる自分とが交互に現れる。

 とにかく今はただ待つしかないと、思うほかなかった。

 藤岡刑事達が全員で動いているようだし、今自分ができることは何も無かった。

 のろのろと立ち上がり、主が居なくなった部屋をじっと見つめた後、おもむろにビールを取り出しゆっくり一口含んだ。

 時間を掛けて1本のビールを空けて、内田課長に少なくとも今週一杯は休むことを伝えると、応援や人手がいることがあればいつでも言ってくれという返事をもらった。

 小学校の登校時間を過ぎた頃、歩いて学校に行ってみた。

 授業が始まっているのか、校庭に生徒の姿は無かったが、自分が置かれた状況がどうにも納得できないことを自覚しただけで帰宅するしかなかった。

 肌寒いベランダで煙草を吸っていると、女将と詩織が入って来た。

 二人とも眼が腫れぼったく、赤く充血している。

 自分は泣いてはいないが、充血は同じなんだろうなと思うと、歯磨き洗面さえしていないことに気付く。

 詩織が佳人の胸に顔を埋め、自分が休みの間、送り迎えをするべきだった、御免なさいと泣くが、それは自身が注意しなければいけなかったことであったことが胸に迫り、しおりんには責任は無い、自分を責めないでと背中を撫でる。

 周囲の人には何の責任さえなく、自分の不注意の愚かさ、軽率さこそ責められるべきと胸に響く。

 「貴方、何も食べてないんでしょ。 食べなきゃ駄目よ。」

 腹が減った、何か食べたいという感覚は全く無い。

 重箱にいろんな具が入った太巻き寿司とサンドイッチを、女将が拡げて、箸と皿を出してくれる。

 おもむろに歯磨き洗面を済ませ、ビールでサンドイッチを流し込む。

 自室のデスクで、何故吉澄妃紗子がと考える。

 きりにしても、彼女を嫌っていた筈だが、どうして一緒なのか?

 先週11月29日の木曜日、沢藤からの電話で、郷の祖父母宅から午前3時半に出火し、祖父母二人と春幸が亡くなったことを知らされた。

 恐らくそのことと無関係ではなかろうととは思うが、それから先が解らない。


 年も変わり、春4月になった。

 あれから田坂と郷にも行き、火災現場や墓地にも行き、沢藤らの捜査で、郷で家集妃紗子という同名だった女性が、吉澄妃紗子と同一人物だったことが判明したがそこまでで、全く二人の足取りは掴めていない。

 詩織と舞の二人は時間があれば泊まりに来て、あれこれ気を使ってくれて、女将夫妻もそれまで以上に世話を焼いてくれる。

 きりが居なくなっても、何も変えなかった。

 時々堪らないほどの悲しみと苦しみに襲われることがあるが、佳人のこころの奥底に、微かながら必ず帰って来るという想いはある。

 今は二課のプロジェクトチームのリーダーとして、親会社をも含む情報管理システムと労務管理システムの構築に取り組んでいる。

 藤井副社長を中心に10年先の組織の有り様を強固に且つ安全にし、大きな財産である社員が報われて、原則ゼロにする時間外勤務もサービス残業無しに正当に評価するという側面も持っている。

 佳人を心配した副社長が、温めていたプランを全社的にスタートさせ、課題を与えたことだが、時間外、休日出勤無しという枠組みで集中して取り組んだ。

 お陰で精神も身体も壊さず、春を迎えることができる。

 膨大な基本項目の整理分類が済んでカテゴリー構築が出来上がり、これから実際のシステム造りに入る目途が立ち、ちょっと一息つける時だった。

 明日がGⅠの皐月賞という4月半ばの土曜日、のんびり9時過ぎに起きてドリップのコーヒーを飲んで、新聞を買いに歩いてコンビニに行った。

 22度あり、Gパン半袖のポロシャツに薄いニットのベストで充分だった。

 ショップ入口横にある灰皿で煙草に火を点け、新聞を開けようとすると車がいない駐車場を挟んで歩道を左から小走りで来た少女が立ち止まって、佳人をじっと見た。

 思わず新聞を開げる手を止めて、デニムのスカート、ハイソックス、薄いブルゾン姿の少女を見返すと、きりと初めて出会ったシチュエーションと同じであることに気付き、頭を殴られたような衝撃を感じて眼をはずすことができず、見詰め返す。

 可愛い女の子だが、髪が首までで身長が100センチ無いくらいの、小学3~4年生くらいだろと想像した。

 じっと見詰め合っていると、少女に笑みが浮かび、小さく手を振って駆け出そうとした時、きりの時と全く同じに後方から車が突っ込んで来て、危ないと叫び煙草を捨て新聞を放り出し、少女めがけて走った。

 膝で滑り込むように少女を捉まえ、力一杯抱き留めたが、車が突っ込んで来ることも無く、何も起きなかった。

 きりの時と全く同じだと受け止め、足が震えたが、何をするんですかと走って来る両親は居なかった。

 余計なことしたね、ごめんと少女の顔を見た瞬間、1m横を掠めるように車が突っ込んで、道を挟んだマンションの駐車場のコンクリート壁に激突した。

 正に全部、最初のきりとの出会いそのままだったが、この少女がきりと同一かは記憶が無かった。

 事故だという声は聞こえても、少女の眼を見つめることだけしかできなかった。

 震える手で少女の腰を両手でしっかり掴み、どういうことなのか掠れる声で、呻くように聞くのが精一杯だった。

 「君は誰なの?」

 少女が囁いた。

 「やり直しだね。」


                                           完