高尾の山なみは、すぐ後ろに飛び去り、電化された中央線は、みどりの匂う山間を縫い、渓をわたり、まぶしい光の中を突きすすむ。
そんな中央線の車窓から望む山野は、時に桐の木が真っ直ぐに伸びて繁り、それは畑中の一軒家のうら山の先祖の一族の墓所に日陰を作るみどりであったりして、無性になつかしさを誘う。
思いがけないような文化的な住宅の屋根はカラフルで、そんなものでさえも、この沿線の田園では不釣り合いなものに見えない。
なだらかに起伏するぶどう畑は、時々葉をうら返して驟雨がおそったりして、いっそう旅情をかきたてられるものであるようだ。
桐は、美しくやさしいうすむらさきの花を匂わせてこぼれやすい夕の刻を、もう終わらせたのであろうか。
桐の下駄は、とても大きいのに嘘のように軽く、子どもの私が履いたら太い鼻緒でどうにもならないような、それでいて、時々そういったいたずらをしてみたい誘惑にかられる父のぬくもりのようなものが感じられるのであった。
私は父を尊敬していたし、父も私にはことのほか甘いようであったのは、私が末っ子だったせいなのであろう。
僧の父が、檀家の葬儀のためにその葬列と共に本堂にのぼると、父の大きな下駄は、まだ足うらのあたたかみが残っていて、それを客殿の玄関に移しておくのが、小さな私にあたえられたつとめのひとつのように思われた。そんな小さな仕事は母が教えてくれたものであったかどうか、記憶があやしい。
父が玄関に揃えらえた下駄に、法衣だけを替えて再度出掛けていくのは多分施主の家であったろうし、埋葬に立ち合う意味でもあったろう。
棚経と呼ぶのはいつの頃から本邦に行われているのであろうか。異教に走るものがあるかもしれぬと考えた、江戸の頃の檀家制度に連なる探査の一面が名残となっているものと考えぬでもないが、妥当を欠くと叱られるかもしれぬ。
若い頃の父は、よく「西郷さんのようだ」と言われたほど、たくましく、精悍な容貌を、古い写真に偲べるのであるが、私が記憶している父は、すでにそのいかめしさは消えていて、田舎の檀家の人たちからは慈父のようにみられていたかに覚えている。そんな父はめったに笑顔を見せて家人にはサービスすることをしなかったし、それがごく当然のように思えていて、少しも不思議なことではなかった。それでいて、とてつもなくこっけいなことを話し、家人が笑いころげるさまを知らぬふりをして楽しんでいる父であったのである。
棚経の父の共をして急ぐ私は、もうすっかり汗をかいて、日盛りの中を懸命に暑さに耐えて歩くのであった。同級生の男の子や女の子に時たまぴったりと合う視線は、どんな心で彼らの姿を把握していたのか、あまりはっきりと想い出せないでいる。
檀家中をお盆の数日中かけ棚経に歩くのは、そう容易なものではない。一軒の玄関先から仏壇のある室に父が上がっていくと、私はその父のぬいだ下駄の向きをかえて日傘にした黒いこうもりをたたんで、棚経の終わるのをひとり外に松のであもあった。
父の読経の声は、いつもはっきりと、外に佇ってまつ私の耳にとびこんできて、父が少しも息を抜かず拝んでいることが分かる白昼であったりして、「あゝ、もう終わるな」と思っていても、経のあとに話し込む時もあれば、そう私の思うように辞してくる父ではないこともあったのである。
そこの家の人が、父の後からそそくさと出て玄関先の父の下駄の向きを直そうとして、それが直っていることで、私というお供があったことに気づくこともあった。最初から、ともあの私に気づいて接待してくれる家も時にはあって、遠慮しがちにそれを受ける私は、お礼を言うのを忘れることもあったが、父がかわって挨拶してくることに甘えていたのかもしれない。
歩き出す父に日傘を広げて差し出すと、父は嬉しそうであった。そんな父の共をして、夏の日の街中を、浜風の吹きぬく草いきれの細みちを、また程よくのびた稲田の中を辿る。
田舎の寺は少し高台にあって、眼前にひらける稲田を望むことが出来るので、家人は
「今頃の時刻だから、あのへんに見えるかもしれない」
などと言って、思い出したように私達二人をさがしたこともあったという。
朝の七時過ぎに出かけて、正しい時間に昼食もとらず、遅い昼食に帰るのは一時半であったり、二時を過ぎていたりして、外をまわって、暑さと疲れにぐったりとして帰る寺は、炎暑の中に白々ともえるいらかを繁りの中にみあぐるようだった。
昼食後の父と子は、三時頃また出かけてゆく。その足音に、油蝉はじりじりと樹にある位置を変えて、それから「ジッ」と短く鳴いて逃げるのが、小さな私にはしゃくにさわって、
「なにも逃げることはないじゃないか」
と、思ったりもしたのである。
日暮れて帰ってくる寺の本堂には明るくお盆のお灯明がともって、ふだん見なれているたたずまいが、改めて、
「本当にお寺らしいな」
と感ずる夕べであった。
墓参に行き交う人々の群れは、声をかけあって通りすぎ、寺の前の路地を提灯を手にしつつ、子供らは浴衣姿で暗くなった墓地の坂道を、ことさら声高に話してゆくのは恐怖心を忘れるための努力であったのであろう。
十三日の晩に墓参にゆくのは精霊を迎えるためであるという。それで、迎えたはずの精霊なのに、やはり十四日にも墓参にゆくおは奥ゆかしいものといえる。
十五日の晩は送り火、迎えた精霊を送ってゆくのだといって、家から灯してきた提灯の火は帰りに消してゆくのであった。ところによっては十六日に送る例もあると聞くが、地方によって風俗習慣が異なるのは当然なのであろう。
お盆の期間中、寺の庭には梵字を書した白旗が翻って、
「あれぞまさしく源氏の白旗」
などとたわむれをいった日がなつかしい。太い孟宗竹の枝を払って高々とかかげるのであれば、遠くから眺めた目には、何に見えたであろうか。<東都歳事記第三>七月十三日の条に
「今日より十六日に至るまで、人家精霊棚を儲け、件々の供物をささげ、先祖を祭る。この間僧を請じて誦するを棚経という。十三日の夜、迎え火とておがらをたく。十六日朝、送り火とておがらをたく。この内を俗に盆中という。諸人先祖の墳墓に詣づ。盆の中托鉢の僧多く来る。」
と記し、また「栞草」に、
「青藍云、むかしは在家に仏壇を飾りおくことなかりし故に、七月、十二月二度魂棚を飾り設け、聖霊をむかえ祭りしなり。しかるに邪宗門御改の砌、我が家は何宗といえるあかしに、常に仏壇を置くることとなれり」
とあることから、<棚経>というのは、徳川の宗門あらための頃よりあった称なのであろう。そして、まだ各家に仏壇がととのわぬ頃からこういった風習であったのである。
父は亡くなる前の年まで老齢をおして勤行し、その棚経の声は、その時まで少しも衰えていなかったのを知っている。幼い頃、父の供をしていた私は、今の仏門への道をやはり歩いていたものなのであろうか。
田舎の寺は、長兄があとをとって住し、昔の父のように法衣の裾をひるがえして棚経に歩いている。
他人事のような書き方をしている私も、やはり東京の巷を夏の法衣に身をつつんで棚経に歩く。
桐の下駄は、都会のアスファルトのみちにあたって、かけやすいものであろうか。
