みなさんこんばんは~(*^^*)

投稿は先行しています、諸般の事由により近況も解説もありません~

 

伊予市湊町の湊神社です

 

 

祭神は

事代主命(ことしろぬしのみこと)
菅原道真公(すがはらのみちざねこう)

違うと思うな~、なんとなく、住吉さんとかじゃないのかな?

克鯨一字一石塔とあります 克鯨とはコククジラのことだそうだ

 

由緒はこうだ

享保14年8月24日に勧請し天神社と称した。
上筒男命、底筒男命、息長足姫命、豊玉姫命は宝暦4年4月勧請、

戎神社と称したが、明治44年5月28日両神社を合祀して湊神社を改称した

 

一石塔由来
まっこう鯨が泳ぐ なぜか郡中沖に住みついた。明治42年早春である。
どこかに姿を消してほしいと漁民は願う。捕鯨の経験を持たぬ湊町漁民の素朴な願いがあった。

大鯨は姿を消さぬ。しびれをきらした湊町漁民はついに捕鯨に立ち上がる。 

 

大網を使った捕鯨作戦も見事に失敗した。 網などで獲れる相手ではない。

協議の末浜代表は馬開捕鯨会社(下関市)に應援を求めた。

 

砲主は数々の道具をたつさえて湊町に来る。

捕鯨作戦は3月21日午前8時8艘に50人が乗り込むこととなる。

3月21日早朝ホラ貝の合図と共に出動する。 

森沖に姿を見せる大鯨に砲主の目が光り若者50人の血はさわぐ。

朝日に映えて鯨体は黒光に輝く。

 

第一の砲声が郡中沖に鳴る。弾は鯨をかする。驚く鯨に追跡は續く。

松前沖で第二の砲声が鳴る。命中と同時に鯨体が空中に舞う。

50人のモリが鯨に集中し激斗の海に血潮は渦巻く。

カン声は海陸呼応して四囲にひびいた。

 

二頭の牛と数百人の力で恵美須の浜に曳揚られ臨時の掛小屋がつくられて人々に見せた。

見物人が恵美須の浜に群れた。明治43年3月鯨を供養して碑が建てられる。

 

克鯨一字一石塔。 湊町浜浦の長い歴史の中で鯨との出合いはこのときが最初であり

また最後でもあった。

(語り伝える 鯨のはなし 今に残るよ 記念の塔が 白い波 白い波 文字のあと)

 

これがその時の写真だろうか?  少し小さい気もする

 

 

供養塔ということで建てられているんですね、昔子供のころにんじんっていう本を読んだ

その時に出てくるモグラって話を思い出した、残酷であり恐怖でもあったんだな~

 

 

それでも海は今日も静か、神のいたずらか、それとも村人の不和を協調へと導くためだったのか?