イエス様の時代のユダヤ教は現在に至るまで

変わることなく神様の立法(モーセ)を遵守しながら

今日まで生きておられます。


それはとてもすごいことで、

伝統や文化を継承することは簡単なことではありません。


皆様ご存知のごとく、イエス様は十字架にかかられましたが、

摂理的な内容は別として、

裁判の場において、なぜバラバを許し、

イエス様を十字架にかけよと叫んだのでしょうか?


それは明らかにユダヤ教という中でのみ

イエス様をみていたからに違いありません。


バラバは当時のユダヤの人たちにとっては、

愛国者であったと

同時にローマにとっては眼の上のたんこぶのような

立場であったと思うのです。


イエス様は当時の立法を、安息日をはじめ、

ことごとくを破って、

自らを神の子としてたて、

やりたい放題のことをやっていたと

パリサイ人やユダヤ人の信仰を遵守す人たちの

眼から見たならば、

そのように映っていたのでしょう。


しかし、すべての民族を見ているピラトの目から見たならば、

イエス様が、なぜ犯罪者なのか、

よくわからなかったのは

当たり前なのかもしれません。


1宗教の中で、1国家の法律の中でのみ

物事をみていると、本当にただしいいことを

みることができなくなってしまうかもしれないという話なのです。


文先生も当時のキリスト教が

今までの内容とまったく違う内容を

語り始めたため、

受け入れることができませんでしたし、

特に位置のある人たちにとっては、

信徒たちを奪っていく悪人にしか

見えませんでした。


純粋に信仰をしてきた人たちにとっては、

そのみ言葉は光を放ち、

希望に満ち溢れた内容であったかもしれませんが、

信仰以上に地位や名誉を重んじる人にとっては、

文先生は眼の上のたんこぶでした。


ある意味一番イエス様を理解していたマグダラのマリアは

春を売る商売をしていたような

イメージに作り上げられました。


文先生の周りにもたくさんの女性がおり、

人間的な目で物事をみていた人にとっては、

スキャンダラスであり、

受け入れがたい内容であったのは

いうまでもありません。


未来を見据えた眼で、純粋な眼で、

良心の眼で、世界的な目で、

物事を見ることが必要だと思います。


いま世界中の多くの人たちが、また、韓国の中でも

文先生の偉業をたたえる人が

たくさん現れてきたことは、

うれしい限りです。


今回文鮮明先生の半生を書いた本を出版した

会社の社長さんは、キリスト教関係の

本を出版しているところなので、

今回の本に関しては、当然キリスト教からの

反対があったわけですが、

地位や名誉、お金を度外視して、

真に正しいことをやる決意と、

世界と韓国の真の

平和の為に、すべてを越えて

出版された本なのです。


日本でも、地位や名誉を離れ、1民族の目ではなく、

1宗教の眼ではなく、1思想団体の眼ではなく、

グローバルな眼で、良心の眼で

見つめていただければ、


いま行っている統一運動が、

文先生がやっているという内容としてではなく、

統一教会がやっている内容としてではなく、

公的な眼で物事を見つめていただければ、


真の平和を目指す、

文先生と統一運動が、

理解できるようになってくると思います。