『エリック・サティ 覚え書』 秋山邦晴
その8
サティとダダやシュールレアリスムの連中との間には、幾つもの軋轢や衝突があった。その詳細は省略するとして、はじめはサティを、というより音楽そのものを毛嫌いしていたシュールレアリスムの頭目、アンドレ・ブルトンも、面白いことに、晩年にはついにサティを認めることになる。
ブルトンはこんなサティ論を残していた。秋山邦晴氏が引用している。
「かれの茶目っ気、かれの気どった奇癖がいばらの幕となって私の目の前を覆い隠し、かれがこんなにも格別に高い存在だったことを私が理解するのが、あまりにもおそすぎた」
秋山氏は言う。
─ブルトンはサティの重要性をつぎのように鋭く指摘するのである。
「十九世紀から二十世紀へ移るその歩みのなかで、サティにみられる精神の進化ほど魅力のあるものは、他にみられないのではあるまいか。
そのサティの精神の進化は、二つの極点、つまり神秘主義思想とプラトンとのあいだで、ピンと張りつめていた。その三十年間、それは近代精神の避けられぬ宿命というべきものだったのか。サティと同郷人であったアルフォンス・アレー、それにもうひとり、アルフレッド・ジャリのふたりによって、ユニゾン(同音)で、このサティの弦は振動させられたのだった……」
秋山氏は、ジャリやアレーなどのサティに及ぼした影響についてさらに言及しているが、これも省くことにしよう。
代わりに、サティの音楽の風通しのよさを指摘した秋山氏のサティ論をあげておく。
─サティはアナーキストではなかった。そしてサティはいちどだって自分をダダイストと称したことはなかった。ひとびとがかれをダダの音楽としてみてしまったのだ。
なぜ?サティが芸術と日常生活の境界線を自然なかたちで取りのぞき、生活のなかで〃音楽〃を考えたり、行動したとき、ひとびとは、サティの〃悪〃と挑発を感じとってしまったのだ。