所詮は学部生の戯言でありますが、解析力学を学び始めた時にラグランジュ形式とか出てきても、あまりモチベーションがわかなかった私が当時を思って少しばかりラグランジュ形式を学ぶモチベになりそうな話を。
といっても、ランダウの「場の古典論」を読めばほとんどわかるような気もしますが。
教養程度の、初歩の電磁気学では「マクスウェル方程式」を学ぶが、マクスウェル方程式は電場と磁場についての方程式になっている。そしてそのマクスウェル方程式を扱えば電磁場の時間発展は追尾できる。という話でじゃあ実際にどんなことがあるの?っていう話は学部程度の電磁気学でいっぱい学べる。
しかし、マクスウェル方程式は実は完全には閉じた方程式ではないのです。
なぜか、を考えるためにマクスウェル方程式を書き並べておきましょう。
div E(x,t) = ρ(x,t)/ε_0
div B(x,t) = 0
rot E(x,t) = -∂B(x,t)/∂t
rot B(x,t) = μ_0 j(x,t) + 1/c^2 ∂E(x,t)/∂t
理由は簡単で、例えば電流や電荷の分布を与えなくてはいけないが、それが時間依存しているのです。つまり、初期条件だけ与えても、その時間依存を知らなければ、閉じないのです。静的なものというわけではなく、それらは電磁場との間に「ローレンツ力」という形で力学的な「力」を生じさせ、それは運動方程式を介して電流電荷密度の時間変化に寄与します。
さらに言えば、電荷や電流の分布密度が電磁気以外の「力」によって変化することはいくらでも考えられる。実際、電気を帯びた棒を吊り下げて実験していた時にその吊り下げていた糸が切れたことによって落下するといった現象を考えてしまえば、棒が動いてしまったために、もともと「棒の周り」だった場所が棒の周りでもなくなって、電場や磁場にその棒の影響が現れなくなったり、現れても大きく変化してしまうような「実験の失敗」みたいなことをもし理論的に追尾すれば(糸が切れるところのダイナミクスは考えないことにしても)、力学的な方程式に重力を入れてあげる必要が出てくるのです。
となると、マクスウェル方程式は閉じた式ではなく、力学の考える対象が閉じたものになるには運動方程式などを連立させてあげる必要がある。とはいえ、どちらも時間発展を記述する、しかも一般的な方程式の枠組みとして考え出されたものなのであるから、やっぱり同じ枠組みから運動方程式も、マクスウェル方程式も導出してあげたい、というモチベーションが現れてもいいでしょう。
そのようなモチベーションにおいて解析力学は機能してきます。
詳細にどのような論理展開で式が展開されるかについてはランダウの「力学」と「場の古典論」あたりを参照していただければいいとして、ラグランジアンと呼ばれる関数をうまく与えて、ラグランジュの運動方程式にそのラグランジアンを代入するとかたやニュートンの運動方程式、かたやマクスウェル方程式に到達します。
ってなわけでラグランジアンを考えることが大事なのです。
さて、そんな文脈で見てあげると、「力」というのはラグランジアンに何か項を付加すると、それに伴って現れるもの、と考えられるようになります。付加する前の、「静止もしくは等速直線運動解」を導く項を「自由粒子のラグランジアン」などと呼びます。これに対して新しく項を付け加えていくと運動方程式やマクスウェル方程式が出てくることが知られており、どういう項を付け加えればいいのか、また、それを加える「理由」が物理の中身となってくるわけです。ランダウの教科書はそういう視点で書かれているのですごい教科書ですね。やはり。
量子場の理論ではラグランジアンに「局所ゲージ対称性」を考えてあげると、自由粒子のラグランジアンから付加されるべきラグランジアンの項が出てくることが知られています。この詳細はいつか紹介することになると思います。それまでは差し控えさせていただきます。
その時、付加される項をまとめて「〇〇力」というような言い方をするケースはあります。
もっとも、残念ながら、ニュートン的な意味での力はそれそのものではありません。
通常、正規直交座標の位置変数でラグランジアンを微分したものから出てきます。
しかし、ラグランジアンの変数は古典的な「位置」だけが変数ではなく、古典電磁気では「ポテンシャル」(注:ベクトルポテンシャルとスカラーポテンシャルを一つにまとめた「4元ポテンシャル」)と呼ばれるようなものがその「位置」変数になるケースも出てきます。ラグランジュ形式を見るだけで、実際の物理的な意味を考えない限り、位置とポテンシャルが同等の意味を持ってきてしまうわけです。
ラグランジアンから運動方程式を導く段階を考える限りだが、ニュートン的な「力」という区分は単に我々の日常慣れ親しんだ「空間」「位置」というものと「ポテンシャル」が別であるということが求められてくるわけです。
ニュートン的な「力」概念は誕生した時点からすでに批判をいくらか受けていたようですが、ラグランジュ形式の視点で眺めてあげることでそうした批判についても一定程度見解が得られるようになるかと思います。
さて、ここでニュートン的な「力」とラグランジアンを考える時の言い方としての「力」は別物、という話は、ポピュラーサイエンス本を読むときには注意した方がいい観点だと、個人的には思っているところです。
確かに、どちらも、「時間発展に影響する因子」という共通項があるが、その観点でニュートン的な意味の「力」は狭い意味しかないのです。
さらに、ニュートン的な力というものは力が何者かという答えをせずに、(ラグランジュ形式でのラグランジアンもそういう側面がありますが)、うまいこと外挿するべき力が何か、ということを考えて外挿していくという仕組みになっています。その外挿する段階で歴史的に発見されてきた力というものが世の中にはたくさん紹介されていますが、そういったものの一個一個は計算上の便宜の概念に過ぎず、本来的には、場を考えていけば出てくるはず、という立場が物理の立場、と言えるでしょうが、実際に厳密な計算をするのは不可能な結果としてうまいモデルで代用する、「繰り込み」が常に行われているのです。
そして、それはある意味で物理の多様化と量的増大につながってくるのです。
さて、しかし、得られた本質性が質的に多いからといって、さらに高い本質性を持っている保証はないが、標準模型のラグランジアンは項数がかなりあるのです。
高エネルギー物理はさらなる単純化を本当に実現してくれるのか、は見ものだが、同時に、応用価値のなさが際立ってくるだろう。今後のこのテーマがニュートン以来の自然科学ほどに応用性があるような気が私はしていない。時間発展を記述する一般的な形式として考えてきたラグランジュ形式とその項を考える技術の数々そのものの、輸出は、難しいのか。そういう輸出も一つ、「応用価値」と思わせる術なのではないでしょうか。
といっても、ランダウの「場の古典論」を読めばほとんどわかるような気もしますが。
教養程度の、初歩の電磁気学では「マクスウェル方程式」を学ぶが、マクスウェル方程式は電場と磁場についての方程式になっている。そしてそのマクスウェル方程式を扱えば電磁場の時間発展は追尾できる。という話でじゃあ実際にどんなことがあるの?っていう話は学部程度の電磁気学でいっぱい学べる。
しかし、マクスウェル方程式は実は完全には閉じた方程式ではないのです。
なぜか、を考えるためにマクスウェル方程式を書き並べておきましょう。
div E(x,t) = ρ(x,t)/ε_0
div B(x,t) = 0
rot E(x,t) = -∂B(x,t)/∂t
rot B(x,t) = μ_0 j(x,t) + 1/c^2 ∂E(x,t)/∂t
理由は簡単で、例えば電流や電荷の分布を与えなくてはいけないが、それが時間依存しているのです。つまり、初期条件だけ与えても、その時間依存を知らなければ、閉じないのです。静的なものというわけではなく、それらは電磁場との間に「ローレンツ力」という形で力学的な「力」を生じさせ、それは運動方程式を介して電流電荷密度の時間変化に寄与します。
さらに言えば、電荷や電流の分布密度が電磁気以外の「力」によって変化することはいくらでも考えられる。実際、電気を帯びた棒を吊り下げて実験していた時にその吊り下げていた糸が切れたことによって落下するといった現象を考えてしまえば、棒が動いてしまったために、もともと「棒の周り」だった場所が棒の周りでもなくなって、電場や磁場にその棒の影響が現れなくなったり、現れても大きく変化してしまうような「実験の失敗」みたいなことをもし理論的に追尾すれば(糸が切れるところのダイナミクスは考えないことにしても)、力学的な方程式に重力を入れてあげる必要が出てくるのです。
となると、マクスウェル方程式は閉じた式ではなく、力学の考える対象が閉じたものになるには運動方程式などを連立させてあげる必要がある。とはいえ、どちらも時間発展を記述する、しかも一般的な方程式の枠組みとして考え出されたものなのであるから、やっぱり同じ枠組みから運動方程式も、マクスウェル方程式も導出してあげたい、というモチベーションが現れてもいいでしょう。
そのようなモチベーションにおいて解析力学は機能してきます。
詳細にどのような論理展開で式が展開されるかについてはランダウの「力学」と「場の古典論」あたりを参照していただければいいとして、ラグランジアンと呼ばれる関数をうまく与えて、ラグランジュの運動方程式にそのラグランジアンを代入するとかたやニュートンの運動方程式、かたやマクスウェル方程式に到達します。
ってなわけでラグランジアンを考えることが大事なのです。
さて、そんな文脈で見てあげると、「力」というのはラグランジアンに何か項を付加すると、それに伴って現れるもの、と考えられるようになります。付加する前の、「静止もしくは等速直線運動解」を導く項を「自由粒子のラグランジアン」などと呼びます。これに対して新しく項を付け加えていくと運動方程式やマクスウェル方程式が出てくることが知られており、どういう項を付け加えればいいのか、また、それを加える「理由」が物理の中身となってくるわけです。ランダウの教科書はそういう視点で書かれているのですごい教科書ですね。やはり。
量子場の理論ではラグランジアンに「局所ゲージ対称性」を考えてあげると、自由粒子のラグランジアンから付加されるべきラグランジアンの項が出てくることが知られています。この詳細はいつか紹介することになると思います。それまでは差し控えさせていただきます。
その時、付加される項をまとめて「〇〇力」というような言い方をするケースはあります。
もっとも、残念ながら、ニュートン的な意味での力はそれそのものではありません。
通常、正規直交座標の位置変数でラグランジアンを微分したものから出てきます。
しかし、ラグランジアンの変数は古典的な「位置」だけが変数ではなく、古典電磁気では「ポテンシャル」(注:ベクトルポテンシャルとスカラーポテンシャルを一つにまとめた「4元ポテンシャル」)と呼ばれるようなものがその「位置」変数になるケースも出てきます。ラグランジュ形式を見るだけで、実際の物理的な意味を考えない限り、位置とポテンシャルが同等の意味を持ってきてしまうわけです。
ラグランジアンから運動方程式を導く段階を考える限りだが、ニュートン的な「力」という区分は単に我々の日常慣れ親しんだ「空間」「位置」というものと「ポテンシャル」が別であるということが求められてくるわけです。
ニュートン的な「力」概念は誕生した時点からすでに批判をいくらか受けていたようですが、ラグランジュ形式の視点で眺めてあげることでそうした批判についても一定程度見解が得られるようになるかと思います。
さて、ここでニュートン的な「力」とラグランジアンを考える時の言い方としての「力」は別物、という話は、ポピュラーサイエンス本を読むときには注意した方がいい観点だと、個人的には思っているところです。
確かに、どちらも、「時間発展に影響する因子」という共通項があるが、その観点でニュートン的な意味の「力」は狭い意味しかないのです。
さらに、ニュートン的な力というものは力が何者かという答えをせずに、(ラグランジュ形式でのラグランジアンもそういう側面がありますが)、うまいこと外挿するべき力が何か、ということを考えて外挿していくという仕組みになっています。その外挿する段階で歴史的に発見されてきた力というものが世の中にはたくさん紹介されていますが、そういったものの一個一個は計算上の便宜の概念に過ぎず、本来的には、場を考えていけば出てくるはず、という立場が物理の立場、と言えるでしょうが、実際に厳密な計算をするのは不可能な結果としてうまいモデルで代用する、「繰り込み」が常に行われているのです。
そして、それはある意味で物理の多様化と量的増大につながってくるのです。
さて、しかし、得られた本質性が質的に多いからといって、さらに高い本質性を持っている保証はないが、標準模型のラグランジアンは項数がかなりあるのです。
高エネルギー物理はさらなる単純化を本当に実現してくれるのか、は見ものだが、同時に、応用価値のなさが際立ってくるだろう。今後のこのテーマがニュートン以来の自然科学ほどに応用性があるような気が私はしていない。時間発展を記述する一般的な形式として考えてきたラグランジュ形式とその項を考える技術の数々そのものの、輸出は、難しいのか。そういう輸出も一つ、「応用価値」と思わせる術なのではないでしょうか。