希林さんの告別式 | yuwママのブログ

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Yahoo!ブログから移行してきました。
2000年交通事故で6歳の次男を亡くし
犯罪被害者遺族として活動しています。

パート仲間が大好きで、たとえ焼香とかできなくても行きたい、
近くまで行きたいってことで、新幹線とホテル取って行ってきました。
台風で迷いましたが、キャンセルするよりも
直前にもう一泊を決め3日間満喫してきました。

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告別式2時間前に到着。すでに3名いましたがほぼ入り口あたりで待つ。
一番前にいた方が、どこにいればいいかわからないといい
私達に話しかけてくれました。
彼女はなんと希林さんとも食事をしたことがあるという。
関係者側に行った方がいいんじゃないですか?というと
遠慮してるようでした。

映画「あん」の原作者の方とお知り合いでした。
舞台となった国立療養所多磨全生園にも仕事で何度も足を運ばれていて
そこの なごみ食堂に
その時の衣装もあり、着ることもできると教えてもらい
告別式のあと、そこへ行きました。
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吉井徳江さんは希林さんの役名
電話番号はググったら多磨全生園でした。


この衣装を着て、この帽子かぶり、このメガネをかけたら
なんか名探偵みたいになりました。
お見せできないけど・・なんで?何が違う?(笑)


この映画のメインストーリーはハンセン病
希林さんはハンセン病患者でした。
たぶん完治されてる設定。
200円でもいいから働かせて欲しいと雇われ店主の永瀬正敏さんに頼み
断られ、何度目かに、手作りあんを渡したが即行ゴミ箱へ。
でも思い直し、拾って食べたら美味しいかった。
50年作ってきたというそのあんはハンセン病収容施設で作り上げてきたものなんだけど・・・。
そこで75歳ではあるけど採用し
店が繁盛するが、ハンセン病だと知れ渡り、あんなに繁盛してた店も
誰も来なくなり、去ることに・・そして・・・

この多磨全生園はとてつもなく広くその中に資料館もありました。
日本のアウシュビッツと書かれてました。
人権と尊厳という石碑もありました。
治療法がない頃は、感染すると子どもも親から離され収容される。
そして二度とそこから出れることはない。
鼻がもげ、手足が腐り切断され、その代りの劣悪な義足が展示してありました。
学校もあり、お祭りもあり、一つの国みたいになってましたが
全てが患者。
人生を奪われた人たちがたくさんいました。
希林さん演じる徳江さんも、その一人。
平成になりようやく元ハンセン病患者に対する差別撤廃に国が動き出した次第。

全生園には
人権と尊厳という石碑がありました。
亡くなってもお墓も作ることは許されず、元の家族の墓に入れない方も多く
納骨堂に現在も何千人もの方が眠っておられます。
お墓の代わりの桜を植えたりしてたようです。
ここの桜は自由に生きて欲しいとのことで一切暫定してないようです。

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これはお借りしました。



ふと考える。
高齢者施設とどこが違う?
治療も家族が望まない限り、受けられない。
死ぬまで出ることもない。
息子の命日の次の日
死にたいと言われた利用者Mさんがいました。
私は、懇々と話しました。
麻痺は酒浸り、妻も殴ってたと。
自業自得よねって。
そりゃMさんが死ねば楽になれるよね。
家族のこと知ったことちゃうよね。
でも今死んで、残されたもの苦しいよ。
息子さんに一生その苦しみを背負わすの?って。
かなりムキになって話し、懇々と話ました。
納得してくれて
後日、そのMさんが私を探してたこと、
その先生に、心に響いた話聞いたって言ってくれたのを
教えていただきました。

また別の日コールで呼ばれたら
「俺はここで死ぬのか?」と言われ
絶句し、「辛いね」とだけしか言えなかったことがありました。
その1週間後くらいに
その方は脳出血で病院に搬送されました。
そして、この全生園から東京へ戻るバス停で
パート仲間から「Mさんが亡くなった」と連絡がありました。
泣きました。
病院にお見舞いに行こうかと思ってたくらいだったので。



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希林さんの焼香後いただいたはがきサイズの会葬御礼

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これもお借りしました。

「死ぬときくらい好きにさせてよ」
これは2016年の企業広告

亡くなってすぐこの写真がネットに出て
私はMさんのことを思いました。
その時点でまだお元気でした。
ここの施設の人は
死ぬ時も自由に選べない。
たぶんどこの高齢者施設でも自由に選べる方は少ないと思います。

大切にしてくれる家族、
自由に動ける健康な体
自由に動け判断できる脳
そして、お金
これがないと人間、死ぬ時も自由にできないって
この東京旅行で思いました。