1969年春…

 

北陸の田舎町

一番大きな駅から徒歩5分の産院で私は生まれた

 

冬が長い北陸の町

グレーの空が少しずつ、その高さを回復

待ちに待った春は

 

我が家には来なかった…

 

 

 

「女なんか生みやがって…」

 

3090グラム、健康な「女の子」をみた

その子の「父親」は

そういって産院をすぐ立ち去ったそうだ

 

なぜ私が知っているのかというと

「あの時、あんたを見て、お父さんがねぇ『女なんか生みやがって』って捨て台詞吐いて帰ったのよ」

母がその後30年以上、私に愚痴っていたから…

 

「だって、女なんか嫁に出したら終わりだろ?」

父親はその愚痴にこちらも決まり文句で返す…

 

その会話を私はずっと聞いてきた

 

「女」である私が

この夫婦を「選択」して生まれて来た…

 

ここから

私の50年に渡る「私になる」旅が始まった…

 

 




【スピリチャル的解釈】

「女なんか」

これ、

父と母両方から私に「刷り込み」!


私がその「刷り込み」にチャレンジしたいのね

きっと過去世とかもからんじゃう


逆に

わたしは

「女」であることを楽しむことが

神聖な運命なわけだ

 


この「傷」がある限り

私は「女性である」ことを追求

わたしの「ライフワーク」は「女」

わたしの「ライトワーク」も「女」

 

久しぶりに書いてみたら

本当に最低な両親

 

しっかり「怒」ろう

 

わたしがスピリチャル業界に

嫌悪感を感じるのは

「すべて感謝して」という風潮…

 

いや

憎しみや怒り

この神聖さを活かさないと

私の人生は「神話」にならない…

 

神は「感謝の神」だけではない

 

「怒り」「憎しみ」の神もいる…

 

 

わたしが選んだこの未熟な夫婦

 

その研究から

私はパートナーシップの探求に入れた

 

それだけは「感謝」

いや

それこそが「感謝」

 

私の神聖な運命の目的は

「女であることの追求」

「神聖なパートナーシップの探求」

 

そのために

わたしはこの

「怒るべき」「未熟な」夫婦のもとを

「私が」選んで生まれて来たんだ