こんばんは(^^)今日は週一勉強会がおやすみなので管理人が勉強していることをお書きします。


みなさん柴五郎という方をご存じですか?

乃木希典や秋山兄弟、東郷平八郎を知ってる方は多いと思いますが、彼を知る方は少ないですね。歴史に埋もれていますので、私が掘り起こしてみたいと思います!!!


柴五郎という方は「日露戦争」で歴史的な勝利を収めるきっかけを作り、当時の欧米列強の間では彼の名は鳴り響いていました。

彼への賞賛の声

「日本軍は素晴らしいリーダーに恵まれていた。」(イギリス義勇兵B・シンプソンの談話)

「柴中佐の知力と実行力は抜群であった」(アメリカ女性ポリー・スミス)

「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務をまっとうした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が北京籠城を持ちこたえさせたのだ。」(ロンドンタイムズ社説)


これらの賞賛の声は、明治三十三年(1900年)、清国で勃発した義和団の乱において、駐留する諸外国に強い反発を抱いた義和団が、排外運動を起こし全国で殺戮を起こした際に、彼がわずかな、しかも足並みそろわない各国(イギリス、ロシア、フランス、アメリカ、ドイツ、オーストリア、、スペイン、日本など)の兵をまとめて、北京の公使館区域に籠城し、見事な統率力で55日間守り抜いたことへのものです!!


このことから柴は各国から武功勲章が与えられますが、そのなかでも彼をもっとも高く評価したのがイギリスでした。その時各国の総リーダー的立場にあったイギリス公使・マクドナルドが、当時のヴィクトリア女王と首相のソールズベリーに日本との同盟を強く進言したことで、明治35年日英同盟が締結されました。


この日英同盟がなければ日露戦争で、我が日本の勝利はあり得なかったと言えるでしょう。この同盟があったからこそ日本は国債をイギリスやアメリカなどに引き受けてもらい戦費を調達することができました。イギリスから様々な情報も手に入れることができました。


日露戦争で勝利を収め、欧米列強の植民地支配を免れた歴史的価値を考えれば、彼の成し遂げたことは計り知れないものです。


彼が有名でないのは、おそらく彼が会津藩出身で、当時政府では主要な役割を果たしていたのいが薩長の出身者が多かったからではないかと思います。会津は最後まで幕府に忠誠を誓っていたために、新政府においては活躍しにくかったという背景もあるでしょう・・


しかし・・そんな素晴らしい彼を歴史の中に埋もれさせるのは非常に残念というほかありません。

日本の歴史教育ではなぜこのような素晴らしい人物を取り上げて教えないのでしょうか?

歴史教育とは、自分たちの国へ誇りをもつためにあるべきです!

誇りがなければ国の未来はありません・・・


このようなリーダーシップを持った彼を作ったのはどのような教育だったのでしょうか?

彼はどのような少年時代を過ごしたのでしょうか?


長くなるのでまた次回書きます(^^)

明日は終戦記念日・・・

日本人として忘れてはならない日ですね・・