山門から真っすぐの参道に戻って進むと、左手に建っている五重塔は高さ39,8mある。

 

右に文永の板碑が立っている。

古くは平維盛の墓と伝承されてきたが、最近では高麗一族(過日訪ねた)の始祖の供養塔と推定されている。文永8年(1271)銘がある。

 

さらに鎮守社五郎権現社が祀られている。

現在の社殿(都文化)は寛文11年(1671)築の一間社流造。

内部には菩薩像三基と暦応3年(1340)銘の神牌五基(重要美術品)が安置されている。

 

写真は神牌五基(国重要美術品)。冊子より転写。

暦応3年(1340)製作された珍しい位牌型のご神体。

 

数段の石段の先に本堂に当たる大日堂がある。

入り口の中門。

 

境内は広くまた複雑に堂宇が建っているので、境内図を載せる。

 

大日堂は昭和62年の再建、鎌倉様式で入母屋造。鳴り龍天井で知られている。

宗派は真言宗智山派別格本山、山号は高幡山。

創建は平安時代初期に円仁が清和天皇の勅願で開基。

江戸期には関東11檀林の一つ。

 

 

その奥に豊泉寮が建っている。

 

庭伝いに入って行くと奥に茶室知足庵があった。

茶室では茶会が開かれているのであろうか女性の笑い声が聞こえてきた。

 

豊泉寮・知足庵には庭園が設えてある。

 

大日堂に戻り、その左手に沿って行くと奥は墓地になっている。

大日堂の左横の山の斜面に「藤蔵・勝五郎生まれ変わりゆかりの地記念碑」があ、六地蔵が並んでいる。

文政5年(1822)に八歳の勝五郎が自分の前世は藤蔵と語り評判になり「ほどくぼ小僧」と呼ばれるようになったという。

 

石段になっている道を登って行くと鐘楼が建っていた。