今般、芝増上寺を再度訪ねてみて、改めてその歴史や元境内の広さを再認識することができた。
振り返ってみると、最初に23区の寺社巡りを始めたころは、健康のためが目的であってひたすら
歩くことに専念していた。
増上寺と共に徳川家の菩提寺であった上野寛永寺についても、とりとめもなく回った記憶しかなく、
寛永寺の全体像がつかめていないことに気が付かされた。
今回、改めて訪ねてみて元寛永寺の境内は、現在の上野公園と諸美術館、動物園、不忍池、
JR鶯谷駅から見える墓地すべてであったことに気づかされた。
その痕跡が公園内などのあちこちに残されている。
現在の寛永寺の中心である本坊(根本中堂)はJR鶯谷駅から寛永寺陸橋を渡った言問通りの左手にある。
写真は入り口。
その中心となる現在の根本中堂は明治12年に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に、
焼失を免れた用材を加えて移築再建された。
宗派は天台宗別格本山、山号は東叡山。
正面に架かる東山天皇御宸筆「瑠璃殿」の勅額や、水盤などにその面影を残している。
堂内陣には本尊薬師如来三尊像(国重文、秘仏)を中心に葵の紋が随分と目立つ。
根本中堂前に鐘楼が建っており、梵鐘は四代将軍家綱霊廟の梵鐘が架かる。
そのほか石地蔵、根本中堂の鬼瓦が置かれている。
慈海僧正墓は墓石に聖観音像を刻んでいる。
尾形乾山墓碑・乾山深省蹟の乾山は光琳の弟で画家、書、茶、作陶家として知られる。
公開図書館「勧学寮」を設立した了翁禅師塔碑と坐像などが並んでいる。
なお元の根本中堂跡は、上野公園噴水の近くでありその跡地板が立っている。
寛永2年(1625)に江戸城の鬼門の上野台地に天海大僧正が建立。
さらに四代将軍家綱の霊廟が造られ将軍家の菩提寺となって発展していった。
五代綱吉が建立した根本中堂は間口45,5m、奥行き42m、高さ32mという大伽藍であったという。
八代将軍吉宗の時代には堂宇30余棟、子院36坊、境内地30万5千坪、寺領一万1700石という
大寺院となった。
幕末の慶応4年(1868)の彰義隊がここに籠っての戦争により全山焼失したうえ、境内地はほとんど
国に没収された。
その後少しづつ復興され現在は3万坪の境内に、戦災を免れた清水観音堂、本坊表門、
再興された開山堂、輪王殿、弁天堂などが点在している。