鐘楼(国重文)は立派な袴腰で元弘2(1332)の再建であり、鐘(県文化)は元享4(1324)の鋳造。ダウン
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また姫路城主だった松平直基の墓所がひっそりとある。ダウン
家康の孫に当たり、姫路城主として赴任の途中に亡くなったが、その子直矩が城主となり、寛文10(1670)に父の分骨をここに祀った。
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法華三昧堂は江戸時代築。ダウン
十地院が横に繋がっている。
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さらに姫路城主榊原家の墓所があり、榊原家も二回姫路城主となっている。
一回目は榊原忠次、政房が16491667に、二回目は政邦、政祐、政岑、政永が17041741に城主となり、そのうちの二人、政房と政祐の墓が享保19(1734)にここに建立された。ダウン
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これで広い境内をほぼ一周したことになり、摩尼殿前まで戻って湯屋橋を渡って行く。ダウン
珍しい名前の橋だが、ここに湯屋があったために名付けられたという。
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その傍に護法石、またの名を弁慶のお手玉石。ダウン
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昇って来た参道にと戻る途中、左手に塔頭十妙院、右手に円教寺会館が建っていた。
十妙院の長い白壁が続き山門がある。ダウン
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ただ拝観は出来ないと書かれ門は堅く閉まっていた。
写真は境内の様子。ダウン
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以前から一度、円教寺の広い境内をゆっくりと廻ってみたいと考えていたが今回ほぼ廻り終えることができた。
しかし境内は坂道が多く、途中から足の指先が痛くなり最後は足を引きずるようになる。
そのためもあり、摩尼殿から裏山に入ったところにある白山権現と、十妙院からさらに西坂を下ったところにある文殊堂には行けなかった。