小さな橋を渡ると左手にヤンマー長浜工場が広がっている。
その道路の間に小公園のような植え込みと立派な石碑(潤徳安民碑)が立っていたがダウン、何の説明板もなく不思議に思っていた。
帰ってからネットで調べてみた。江戸時代の中頃、十一川に沿った川下のここ平方地区は、川水の権利のため京都奉行所に訴えたが大変な費用がかかった。
13年にして水を引く願いが叶い、さらに借金の支払いも彦根藩の奉行御薬袋主計の働きにより15年分割となった。
天保14(1843)に借金をすべて返済し、その感謝の気持ちで建てられた碑とのこと。
それにしても見事に手入れされている。
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工場の中の道を南に抜けたところに目指す徳勝寺の境内があった。
山門などは無く開放的な境内である。
曹洞宗の寺院、山号は興福山。
応永年間(13941428)に医王寺として創建され、永正15(1518)に小谷城主浅井亮政が菩提寺とした。
写真は本堂。ダウン
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庫裡と境内。ダウン
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写真は鐘楼。ダウン
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この寺を訪ねたのは浅井久政、亮政、長政三代の墓があるからである。
思ったよりも小ぶりな墓が三つ並んでいた。ダウン
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境内の地蔵堂。ダウン
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写真は地蔵堂の内部。ダウン
可愛い色とりどれりのおべべを着た地蔵がずらりとならんでいた。 
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