さらに横丁から南に曲がって歩いていると豊国神社に出た。
随分と昔に訪ねて以来、久しぶりに来たことになる。
 
豊国(とよくに)神社は豊臣秀吉を祭神とし「ほうこくさん」と呼ばれている。
唐門は伏見城の遺構とされ国宝指定されている。ダウン
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には龍の滝登りが彫られ、欄間の彫り物共々左甚五郎作と伝わる。
両脇の石灯篭は豊臣恩顧の大名の寄進によるもの。ダウン
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ここから中には入れなく遠くから拝殿、本殿、さらに右の北政所を祀る貞照神社を見るのみである。ダウン
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周囲を囲んだ透し塀の僅かな隙間からの写真。ダウン
手前の社殿は貞照神社で、その向こうが本殿のようである。
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境内の左手に名高い方広寺の大鐘(国重文)がある。ダウン
慶長19(1614)に秀頼によって造られたが、鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の文字が、豊臣を君主とし家康を貶めるとの言いがかりが大阪の陣となり豊臣滅亡の引き金になった。

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大鐘の銘をアップで撮ると、文字がはっきりと読み取れる。ダウン
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方広寺は天台宗の寺院。ダウン
文禄4(1595)に大仏殿として秀吉が建てた壮大な寺院であったというが、今は質素な本堂が建つのみ。
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一旦、豊国神社の鳥居を出ると左手に、異様に大きな祠が見えたので近づいて行くと耳塚であった。ダウン
文禄・慶長の役で朝鮮に出兵した武将が、敵を討ち取った印として朝鮮軍兵士の鼻や耳をそいで、塩漬けにして日本に持ち帰った。秀吉の命によりこれらの供養のためこの地に埋めたとのことであり、これも哀しくなる歴史上の事実である。
この石塔は寛永2(1643)の古地図にすでに見えるという。
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説明版を読んでいると豊国神社の境内の隅に馬塚があると書かれていたので、豊国神社に引き返して、受付で許可を頂き境内右隅の馬塚を訪ねる。
駐車場の先のまさに一番奥に何の説明もなく、ただ五輪塔が立っていた。
徳川時代になって豊国神社が廃されていた頃は、この五輪塔が内緒で代わりに拝観されていたという。
塔には「元和元年八月十八日」の秀吉の命日と梵字のみが刻まれている。左下矢印
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写真は豊国神社の境内右奥にある庭園と茶室の入り口。ダウン
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受付でお礼を言って今度は国立博物館を目指して歩いて行く。
この辺りはすべて方広寺の境内跡であるが、今ではその大仏殿の石塁のみが往時の姿を留めている。ダウン
またまた京都の街の奥深さを改めて思い知った。
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国立博物館には訪ねようと思いながらも今回が初めてである。
写真は正門1895年築、国重文。ダウン
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受付に行くと70歳以上は無料とのことでびっくり。
近代的な入り口を入ると、右手に瀟洒な明治古都館が建っている。
明治28年に建てられた建坪3015㎡のネオ・ルネッサンス様式を基調として建物で国重文。ダウン
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今現在の展示場の平成知新館は2013年築。
中に入って一階の仏像群などを拝観する。
 
ふと時計を見ると女房殿からのメールで、新神戸から乗った新幹線の時刻が入っており、京都駅には30分後に到着するとのこと。
慌てて博物館を出てバスに乗って京都駅に、どうにかギリギリ間に合って新幹線で合流することが出来た。