お知らせ
明日16日から徳山(一泊)での墓参、下関(一泊)での現役時代の会合、熊本(一泊)で友人と待ち合わせて阿蘇神社ほかを巡り、最後に博多泊という四泊五日の忙しい旅に出かけます。
その間、またまたブログはお休みしなります。
伊賀上野の旅のブログもまだかなり残っており、その後の名張市、岡崎市、神戸、播但線の旅、さらに4月寺社探訪会、大津市坂本ほかの二泊三日の寺社巡りの旅とかなりストックが溜まり、どうしたらよいかと悩んでいます。
一日に二回載せるなどスピードアップも図りたいとおもっていますが。
まあ、とりあえず旅に出かけてきます。
商家の建ち並ぶ小路を後にして、近鉄伊賀線西大手駅近くの踏切を渡る。
大通りに出て右折すると旧崇広堂、上野高校、白鳳門、西小学校などが並んでいる。
旧崇広堂は文政4年(1821年)に10代藩主藤堂高兗の時代に領地に住む藩士の子弟を教育するために建てた藩校の遺構である。
写真の表門は建設当時のままで、弁柄塗で赤門と呼ばれた通用門である。
写真は大玄関。
通用門を入った正面に大玄関が付いた玄関棟があり、建設当時のままである。
他に教師の控室や事務職の部屋があった。
今はここから入って内部を巡回できるようになっている。
多くは1854年の大地震で崩壊した後に再建されたもので国指定史跡。
土塀を挟んだ内側には講義などが行われた講堂。
七間四面、入母屋造で1821年の棟札が残る。
明るさを取り入れるために開放的な造りになっている。
架かる扁額「崇廣堂」は米沢藩主上杉鷹山筆。
この講堂を取り囲むように勾玉池を中心とした庭園が広がっている。
奥に見える有恒寮は明治時代に新築されたもので、まだ幼い子弟の教育の場であったという。
もう一つの門である御成門は藥医門でやはり建設当時のままであり、藩主が臨校の際に使用された。
隣に建っている上野高校校舎は明治33年築の白亜の建物。
東西68mと細長く、中央に玄関ポーチがある。
ただ構内には立ち入り禁止で、おまけに前面にネットが張ってあるため極めて見辛い。
立派な白鳳門がポツンと建っている。
この道は上野城址公園にと続く。
上野城の門の名残であろうか。
その入り口に西小学校があるが、この現役である木造校舎も趣があるのでパチリ。