神戸滞在中の5日、大坂府に近い兵庫県尼崎市の塚口駅から正玄寺、富松神社、近松門左衛門ゆかりの広済寺を訪ねることにした。
 
三ノ宮から阪急電車に乗り塚口駅に下車。
この駅頭に降り立つのは生まれて初めてである。
北口を出ると商店はなく、全くの住宅街であった。
それもところどころにお屋敷が散見される高級住宅街といっても良いであろう。
                                  
めざす正玄寺も塚口御坊跡もなかなか見つけられない。
通りかかった郵便配達の人に聞くも、この辺りでは聞いたことがありませんと、誠につっけんどんな答え。
大坂人は人懐っこい人が多い半面、逆にこのように全く他人に冷淡な人達もいる。
それにしても民営化された日本郵便らしからぬ態度である。
 
すぐ近くの路地を入ったところに目指す堀口御坊の跡にある正玄寺があった。
五本線の入った立派な塀を廻らしダウン、堂々たる本堂が建っている。
これを知らないとは地元の人の恥ではなかろうか。
イメージ 1
 
塚口御坊とは室町から戦国時代にかけて真宗の興正寺別院を中心とした寺内町があった。
200㎡四方に土塁を廻らし周囲を二重の濠が取り巻いていたという。
一向一揆のこの地区の中心であり、信長、村重の書状では塚口城と呼ばれていた。
 
現在はその面影はほとんどなく、わずかにその後に正玄寺が建つのみ。
しかし境内には本堂ダウン、庫裏、鐘楼のほか大木が数本残るのみ。
浄土真宗興正派の寺院、1409年の創建。
イメージ 2
 
昨日の明石市の寺社巡りで廻り過ぎて懲りたため、今後は目的とする寺社を決めて訪ねることにし、その途中で通りかかった寺社のみ訪ねるに留めたい。
 
次に目指す富松神社は正玄寺からかなり西の方角にあり、ただひたすら歩いてゆくが遠かったこと遠かったこと。
富松神社近くの少し南の川端にある円受寺が目に入ったので立ち寄ってみる。ダウン
真宗大谷派の寺院で、山号は天徳山。
山門は閉まっていたが、塀に囲まれた境内には鉄筋本堂、鐘楼、会館、植え込みなどなど。
本堂前に毎月発行の会報「無量寿」が置かれていた。
読んでいると、ちょうどスクーターで帰ってみえた住職から、どうぞお持ち下さいとのお言葉を頂く。
なかなか内容のある会報であった。
イメージ 3
 
富松神社は境内がかなり広く、樹木が鬱蒼と茂り神社独特の静謐さが漂うダウン
創建は行基であり、現在の伊丹市を中心に開墾事業を行った時、周辺二十三ケ所に造った坊の一つと伝わる。
その後、一条家の荘園になり、また春日大社の末社ともなったと言う歴史を持つ。
イメージ 4
 
本殿は1636年再建の一間社春日造り。
組物、蟇股は極彩色とのことだが、現在は鉄筋覆殿に覆われており、拝殿から覗いたが暗くて見えなかったのは残念。ダウン
祭神は須佐男命、応神天皇。
末社として皇太神宮、白山比売神社、熊野三山神社、愛宕、厳島、金毘羅、天神社、稲荷神社など。
イメージ 5
 
それにしても本殿裏には竹などが繁茂密集した鎮守の森になっているが、やはり塀が廻らされ中には入れない。
新しい舞殿が建っているがダウン、毎年7月26日には薪能が催され、今年で32回目になるという。
そもそもは江戸時代に殿様をもてなした「にわか芝居」が始まりであり、そのため当地は謡の文化が今もって盛んであるとのこと。
イメージ 6
 
すぐ近くに富松城跡があるらしいので訪ねてみる。
車の往来の激しい大通りの交差点近くに、こんもりとした森として一部残っていた。
室町から戦国時代に、土塁と二重の堀を備えた東西150m、南北200mの規模を持つ城館であった。今はその城郭の西側遺構が一部残るのみ。ダウン
管領細川家の内紛の戦いの場となったところとのこと。
イメージ 7
 
お腹が空いてきたので大通りに沿った蕎麦屋「讃岐路」に入る。
大阪に来るとやはり饂飩に限るので、「肉うどん」を注文。
玉葱の甘い香りが肉と良く合いまさしく絶品であった。