熊谷駅に降り立つのは、実に34年ぶりである。
また30代の若き日の一年間だが、この街に住んだことがある。
将来への夢、希望に満ちていたが、若気の至りというか、正義感に燃え過ぎて一年間で北海道に転任することになった苦い思い出の土地でもある。

久しぶりに駅頭に立ち、その街の変わり様に呆然とする。
駅からわずか30秒、商店街の中に住んでいたが、昔の町の面影は全く見当たらない。
まさに浦島太郎の心境とはこのことだろう。
よく飲み歩いた星川通りに出てみるも、ここも様変わりでまるで別の町に来たよう。

今回は寺社巡りに来たのだからと、意を決して歩き始める。
考えてみると、熊谷の寺社はどこも訪ねた記憶がなく、まさに仕事オンリーの生活であった。

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星川通りから右折して市役所に向かう大通りを北に歩き高城神社を訪ねた。
長い参道、といっても民家と畑のみだが、進むと境内に出る。
広い境内2000坪には樹木が鬱蒼と茂っており、なかなかの古社である(写真)。
樹齢600年の檜も数本あるとのこと。

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祭神は高皇座霊尊。
古い木造社殿は1671年の再建であり、向拝が随分と長く、また拝殿も長く本殿が小さい(写真)のが特徴。

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末社として熊野神社、鹿島香取、稲荷、八幡、白山、金毘羅、大国、少彦名神社など。
この熊野神社は、熊谷次郎直実の父直貞が猛熊を退治し、熊野権現堂を築いたとの伝。
また青銅の常夜灯は1841年に150人の紺屋により奉納されたもの(写真)。
鉄筋社務所は2Fの立派な建物。

さらに北に向かって歩くと、小川が流れ小路が多い地区に出た。
その一角にある仏谷庵を探すが見つからず、ただ荒れ放題で門が閉まっている。
ここが探す仏谷庵の跡地なのであろうか。

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その北に箱田神社の境内がある。
やはり清らかな川の傍の境内には社殿が三つ並んで建っていた。
真ん中が箱田神社本殿(写真)であり、右に赫顕威神、左には皇太神宮の扁額が架かっていた。
またそれぞれ木造鳥居が立っている。
小さな神社だが厳かな雰囲気が感じられる。

さらに小川に沿って左折し、地図に出ている信教寺を探す。
尖塔のある慰霊塔と鉄筋民家が建つのみであった。
宗派は本門仏立宗。

ここから西に歩き御嶽神社を訪ねるが、住宅地の片隅に富士塚のような盛り土があり、鳥居と、石碑が数個たっているのみ。

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すぐ近くの蓮紹寺を訪ねた。
境内の境目が定かでなく、空き地や草叢の中に石仏や石碑が点在している(写真)。


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墓地の中に小さめの新しい木造本堂のみ建っていた(写真)。
しかしお彼岸でもあり数人の墓参者が見えていた。


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今度は細い道を南に向かってしばらく歩き千形神社を訪ねる。
祭神は天津彦火瓊瓊杵尊。
高城神社境内の熊野神社は元ここにあり、猛熊退治の時に血が流れたので血形神社とも呼ばれる由。
広めの境内は樹木は少なく、駐車場と子供の遊び場となっていた。
その中に木造社殿(写真)と、ちっちゃな神楽殿が建っている。

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ここからまた西に歩いてゆくと、熊谷を代表する八木橋デパートの裏側に出る。
そこに熊谷奴稲荷神社があった。
樹木に囲まれ、こじんまりした社殿(写真)があるが、何か由緒がありそうな雰囲気が漂う。