一週間の御無沙汰でした。
実は神戸に在住の義母の元に、親孝行の真似事のため、女房殿と出かけてきました。
とはいっても、例の如く私はあちこち寺社巡りをしておりましたが。

先月30日に東京を出発しましたが、天気予報に反して、近畿は晴れておりましたので、急遽新大阪駅で一人下車し、河内長野市の観心寺を訪ねてきました。
新今宮経由で河内長野市の駅頭に降り立ったのは14時10分。
観光案内所に飛び込んで相談の結果、時間的に見て観心寺をゆっくり拝観することを勧められました。

駅前よりバスに乗り、観心寺前で下車。
帰りのバスの時間を調べていると、通りかかった私と同年輩の男性からアドバイスを頂く。
観心寺から延命寺を二時間かけて歩くのが日課だとのこと。

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観心寺は山門前からの眺めが素晴らしい(写真)。
大寺らしい風格が、ゆったりした境内、緩やかで広い石段などの造りに良く出ている。
訪ねて来て良かったと、まず嬉しくなる。

なお山門手前の駐車場には、南朝ゆかりの寺らしく、楠木正成の銅像がある。
さらには山門を入ったすぐ左手に楠木正成が8歳から15歳までの学問所があり、中院と呼ばれている。

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拝観料300円也を払い境内に。
ゆったりした石段がのぼっており、左右の樹木の間からお堂が見え隠れしている(写真)。
観心寺は山号を槇尾山、高野山真言宗の寺院。
701年、役小角によって雲心寺として開山された。
その後、808年に空海が当寺を訪ねられた時に北斗七星を勧請され、815年に如意輪観世音菩薩を刻まれて、観心寺と改称された由。

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石段の途中、右手にお堂が二つ建っていた。
何のお堂かなと思っていたが、手前のあるのは鎮守堂の拝殿であった(裏からの写真)。
そういえば裏には石橋が続いている。

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その鎮守堂は重文指定されており、「詞梨帝母天堂」と呼ばれる。
一間社、春日造り、桧皮葺の小さなお堂だが、貫禄充分。


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さらに石段を登りつめると、正面に朱色の金堂が建つ(写真)。
室町時代初期の建立で国宝。
七間四方の堂々たる建物。
入母屋造りで、和様、禅様、大仏様の折衷様式。
本尊の如意輪観音は色彩が鮮やかな国宝であるが秘仏。
4月の二日間のみ拝観可とのこと。

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さらに金堂の右手に茅葺というか、見事に草を生やしたお堂が建っている(写真)。
建掛塔と呼ばれており、楠木正成が報恩のため建てかけたが、湊川で討ち死にしたため、未完のままこうして残っているとのこと。
それにしても屋根の草草はすごい。重文指定。

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金堂右手にはさらに弁天堂、阿弥陀堂、御影堂、行者堂などが並んで建っている。
さらには開山堂があり、その右側には正成首塚がある(写真)。
湊川で討ち死に後、正成の首級が当寺に送り届けられて、首塚として祀られている。

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行者堂と開山堂の間から、苔むした石段を上ってゆく。
杉木立の中をしばらく登ると、後村上天皇槇尾陵がある(写真)。
後村上天皇は、後醍醐天皇の皇子で、97代天皇。
南朝方の天皇として、約10ケ月、ここで日本の政治を執ったので、死後ここに御陵が造られた。

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また金堂の左手に行くと、牛滝堂、霊宝館があり、さらに立派な恩賜講堂が建っていた(写真)。
霊宝館には、地蔵菩薩ほか9体の重文指定仏像を初めとして、たくさんの寺宝が展示されていた。
しかし無人で運営されているのには正直驚く。

そういえば観心寺の広い境内を、時間をかけてゆっくり回ったが、出会ったのは受付の方と、夫婦の拝観者ひと組のみであった。
これだけの由緒ある大寺で、しかも国宝クラスの寺院なので、もっと多くの人々に訪ねてきて欲しいと考えながら、観心寺を後にする。

門前のお店で飲料水を買い求め、お店の方に延命寺への路を聞くと、片道30分位とのことなので思い切って出かけることにした。