さらにバスにて東福寺に。
ただ東福寺には立ち寄らず、塔頭の退耕庵に直行。
ここも内部の本堂内は勿論、境内はすべて写真禁止。
それにしても庭園まで写真禁止とは一体どういうことなのだろう。先ほどの「お茶屋」さんで見張りの人に聞いてみると、三脚とか立ち止まって撮影されると、渋滞が酷くなることが理由とのこと。
そういえば最近のカメラマンの傍若無人ぶりは目に余り、良いアングルを狙って立ち入り禁止の場所や、苔の中に平気で入ってゆく光景をよく目にする。
天竜寺で注意しても睨み返したあのおじさん、城南宮での厚かましいおばさん、あなたですよ。
嘆かわしい光景であり、写真を撮る資格は無いと思うが如何であろう。

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退耕庵は臨済宗大本山東福寺の塔頭寺院で「小野小町ゆかりの寺」として知られている。
1346年、性海霊見和尚により創建されたが、1599安国寺恵瓊により客殿が再建された。
写真は入口の山門の佇まい。

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また客殿の内に造られた、安国寺恵瓊が西軍の石田三成らと謀議をしたと伝わる四畳半の茶室「作夢軒」には護衛の武士のための「伏待の間」や忍び天井まである。
僧侶でありながら毛利家の外交官であり、遂には一国一城の主になった、まさに生ぐさ坊主の典型と言える。
写真は拝観券と作夢軒。

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絶世の美女と謳われた小野小町との縁も深く、本堂には自分自身で容色の衰えた姿を彫った「小町100歳の像」がある(写真、パンフレットをコピー)。
どんな心境で何のために彫ったのであろうか。
なお当寺は鳥羽伏見の戦いの折、長州藩の陣が置かれ、戦死者の菩提寺ともなっており、毛利家の家紋があり、懐かしく拝見。

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客殿の南側には室町初期、開山の性海霊見が作庭した庭園「真隠庭」がある(写真、やはりパンフレットをコピー)。
ゆるやかな起伏を持ち、緑の美しい杉苔に覆われて、樹齢300年という霧島つつじが植えられている。

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続いては同じ東福寺の塔頭である勝林寺を訪ねた。
1550年の創建で、本堂は近衛家の大玄関を移築したもの。
しかし所蔵されている仏像はそれ以前ものものもある。
これは藤原氏の氏寺であった法性寺の跡を受け継いだためとのこと。
写真は正面客殿入口。
ここも境内はすべて写真禁止されていた。

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この寺は北方を守護する毘沙門天を祀ることから「東福寺の毘沙門天」と呼ばれている。
毘沙門天像は平安時代の作で、150cmと等身大に近い一本造りの像であり、今回はなんと83年ぶりの公開となった(写真、パンフレットよりコピー)。
長く東福寺の天井内に秘かに安置されていたが、江戸時代に発見されて勝林寺に安置されることになったとの由来がある。
毘沙門天像の右にはその妃とされる吉祥尊天、左にはその二人の子である善膩師童子像が安置され、何と親子三人の揃い踏み像である。
また毘沙門天は、四天王の多聞天と同一で、単独の時にそう呼ばれるということを、恥ずかしながら始めて知った。もっと勉強しなくては。
また毘沙門天と縁の深い虎の襖絵(櫟文峰絵)や、ムカデの模様がちりばめられていて、その徹底さに感心。