続いては江川邸を訪ねた。
これまで訪ねた国清寺、毘沙門堂、香山寺、本立寺ではどこでも人っ子一人出会わなかったが、江川邸は月曜日にも拘わらず、多くの観光客で賑わっていた。

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江川邸は韮山役所跡に建つ江川家住宅のこと。
江川家は清和源氏の流れをくみ、保元の乱に破れこの地に住み着いた。
江戸時代は世襲代官として幕末まで続く名門で、反射炉を造ったのは36代目英龍。
写真は表門と塀、中に見えるのが主屋。
表門は1696年に造られた三間一戸薬医門。

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主屋ほか表門、堀など敷地全体が重文指定されている。
主屋は室町期と江戸期初期に造られたものが一つになっている。
単層入母屋造りで、高さは12mもあり、極めて豪壮な造りである。
写真は主屋の玄関。

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中に入ると土間は162㎡と広く、ここから見上げると幾何学的な屋根の木組みがよく分かる(写真)。
今でいう免震構造になっているとのこと。
またこれまで火災に一度もあっていないことから、文書、書画、武具などが数多く展示されていた。

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その他境内には南米蔵、北米蔵などの他、茅葺屋根の西蔵がある。
西蔵は正面から見ると、将棋の駒のような形をしているので駒蔵とも呼ばれる。
四方の壁が内側に少し傾いた「四方ころび」という技法、また軒の屋根には河原でなく伊豆石が置かれている。
写真はその駒蔵であるが、写っている人物は知らない観光客の一人である。

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さらに近くにある、源頼朝が配流の地、蛭ヶ小島を訪ねた。
今見ると島のようには見えないが、当時は狩野川の中州になっていたという。
一帯は公園になっており、真ん中に「蛭島碑記」の碑が立っていた(写真)。
この碑は1790年に建立とある。
また一画には茅葺屋根の歴史民族資料館もある。

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頼朝は14歳の時、ここに配流され、政子と結ばれるまで17年間をここで過ごしたという。
その後は北条館に移り、34歳で旗揚げをした。
写真は公園の中に立つ、頼朝と政子の夫婦像。
私見だが、頼朝は恐妻家でもあり、その後政子が自分達の子供を殺し、親元北条家のために尽くしたことを考えると、この二人の夫婦像をバックに記念写真を撮る気には到底ならない。