私が疑問なのは、瓦礫受け入れ反対に熱心な人と、「命が大事」「命を守れ」として原子力発電所への反対を声高に叫んで来た人々が、不思議に符号している、ということです。
「命が大事」「命を守れ」と言うならば、本来なら、被災地で困っているいる人のためにも、「瓦礫処理受け入れを急ぐべき」との主張を展開してしかるべきだと思うのです。復興が一日でも遅れることで、本来、救われるべき命が救われないし、「他人の痛みを分かち合う」発想こそ「命を大切にする」ことの根底であるはずの考えであろうと思うからです。
しかし、現実には真逆の現象を示しているのは、たぶん、「命が大事」「命を守れ」の真意は、「自分の命が大事」「自分の命こそ先に守れ」ということだからなのではないでしょうか。
話は少々変わり、先般、東京大学の研究チームが、東京都民が福島第一原子力発電所の事故で放出された放射性物質を含む飲食物で、この一年間に受けた内部被曝(ひばく)の量の推定を発表していました。
結論的に言えば、何もない時に飲食物で摂取することによる被曝量の数分の一以下、という予想通りの結果でした。(もちろん、乳児・幼児においても、です)
つまり、私たちが日常に摂取している食物自体が放射性物質(代表的なのがカリウム40)を含んでおり、今回の事故によって余計に摂取した放射性物質(放射性ヨウ素および放射性セシウム)はその数分の一で、健康に影響を及ぼすようなものではない、という結論です。
このように、科学的知見を冷静に判断すれば、心配するほどのことではないにも拘わらず、「危険だ」と決めつけ、冷静な判断を求める専門家の声も「御用学者の言うことは信用ならない」と貶(おとし)め、結果的に「被災地の他人の命より、非被災地の自分の命が大事」という行動になっているとすれば、もはや倫理的にも道徳的にも、看過できない問題と言えるのではないでしょうか。
小さなリスクを恐れることが、逆に、もっと怖い大きなリスクを招くことになりかねないこともを考えておくべきでしょう。科学的・理性的な議論ができるような世論の沈静化・正常化が求められる由縁です。
