また、首相の口から「革命」という言葉が発せられた。これは、「国難」の予兆です。

首相は、「革命」の恐ろしさを知っておられるはずなのに。政権与党が「革命」という言葉を使用されること自体、国家の危機です。次の内閣も上手くいくのでしょうか?心配でなりません!

 何も起こらないことを切に願います。

 

声を大にして、「日本列島を救ってください!」

九月十一日

神佛より、方向の大きな建物(国会)でバッチをつけた人(国会議員)に教えの話をしなさい。そして、日本列島を救いなさいと教示されました。今回の内閣改造で「人づくり革命」と保守政権が何の問題意識を持たず「革命」の言葉が使われました。大変危惧されます。

 

日本時事評論 2017-09-01号 ~時の流れの羅針盤~福の紙 nipponjijihyoron.co.jp/img/old_paper/… この新聞が日本の多くの方々に広まり、国民1人ひとりが目を覚まされますように。 国会議員の先生方、どうか日本列島をお救いくださいませ。

 流通革命や印刷革命、コンビニスイーツ革命、ラーメン革命、素肌革命など『革命』の語句

 

がテレビのワイドショーやコマーシャルなどで氾濫しています。そしてついには、安倍政権の

 

看板政策として『人づくり革命』が登場しました。本来、『革命』とは政治体制の転覆を意味し、

 

その実現を目指す工作の一環として、革命気運の醸成のために『革命』を濫用しています。わ

 

が国の天皇をいただく政治体制の転覆を目指す謀略に、政府・自民党までが乗せられてしま

 

っています。今回の安倍政権の『革命』の使用は、天下大乱の予兆です。政府はもちろん、各

 

企業も使用を中止し、国家の安寧を目指すべきです。

 

 何故、信仰が必要なのか、何故、信仰しなければならないのかと問う事は、何故、学問をしなければならないのかと問う事と同じであり、それは大自然が一定の法則によって運行されているからである。

 言葉を学び、世の中の仕組みや自然の法則などを学び、生活や仕事に役立てて、より良い、豊かな生活をするために学問をする。

 信仰も同様である。

 しかも信仰の方が、世の中の根源的なことを学ぶのである。

 学校での学問が、目に見える自然の法則(形而下の法則)を学ぶのに対して、信仰は目に見えない自然の法則(形而上の法則)を学ぶ。

 自然の法則は人間の生活とは関係なく、一定の法則で運行されており、人間も知らず識らずに、好むと好まざるとにかかわらず、その法則に従わされている。

 つまり信仰とは、人が行わばければならないこと、行っては

ならないことなど人が生きていく上で守らなければならないきまりを学び、身に付け、実行していくということである。

 科学の急速な発展でこの世は人間を中心に動いているように考え、自惚れているが、それは錯覚に過ぎない。

 それを一番よく知っているのでが、科学者自身であろう。

 物質の成り立ちを研究する物理学においても、人間の仕組みを研究する医学においてもあるいは一個の細胞からできている生物の研究においてすら、解明すればするほど、自然の精妙巧緻さに驚き、新たな謎が生じてくるだけに、人間の知恵では及びもつかない自然の法則、その偉大な力を認めざるを得ないという。

 例えば、人間には細菌などが体内に侵入してくれば、それを排除するために体内に抗体を作る機能があるが、それは一様ではなく、進入してきた細菌の種類と量によって、それと結合して無害化する抗体を体内で作り、生命を維持することができる。

 あるいは目の網膜は、単なる感覚受容器の細胞の集まりではなく、細胞一つひとつが赤なら赤を感受するなど役割を持っていて、網膜それ自体が目から入ってくる情報を処理する小さな脳のようなものであることが分かりつつある。

 人間は一つの受精細胞から成長するのであるが、何十億もの細胞の一つひとつに生体としての機能を維持するための役割が与えられている。

 その細胞が自分一つくらいとその分担任務を怠ければ、体に故障が生じたり、時には生命にも関わってくる。

 逆に言うならば、何十億もの細胞があるが、その一つとして分担任務や使命を持たないものはないのである。

 その細胞の集合体である人間が、社会において何等の使命も分担任務も持たないということがあるだろうか。

 人間のみがこの自然の法則の枠外にあるはずがない。

 人間も大自然の中に住する一つのものに過ぎないのである。

 人は自由に何でも出来ると思っているが、自然の法則の下に他の動植物が一定の行動の自由しか許されていないように、人間の行動も一定の範囲が定められており、あたかも透明のガラスケースの中に居るのと同じなのである。

 そのガラスケースの中で動いている間はケースの存在は分からず、あたかも無限の自由があるかのように思うが、それより外に出ようとすれば、ケースに頭をぶつけることになる。

 要するに勝手、気ままは許されないのである。

 人も、一人ひとりに社会の中で果たすべき役割が与えられており、その使命を果たしてこそ、社会の秩序が維持され、健全な社会を作ることができ、その結果として個人の幸せや繁栄がもたらされる。

 人がいくら幸せになろうと努力しても、大自然の法則に従い、分担任務を果たし、社会の役に立たなければ、決して幸せにはなれないのである。

 神佛は人にこの大自然の法則を知り、従うことを要求されているのである。

 その要求の合図が病気や経済的な苦しみなどである。

 人は医学で治らない病気や経済的破綻などに直面すると、神佛に手を合わせ、救いを求めようとする。

 人は神佛を、苦から逃れるための道具としようとするが、実は逆で、苦こそ神佛が人を救済するために使われる道具なのである。

 従って、いかなる信仰であれ、最初に神佛に手を合わせれば、神佛の実在や力を示すために、難病などを治すなどの不思議を見せられる。

 しかし、正しく法則を説いた正しい信仰をしなければ、神佛は別の苦という形で合図を掛けられるのである。

 今度は拝むだけではご利益もご守護も貰えない。

 それでも正しい信仰をしなければ、次から次に苦という合図を掛けられるので、いかにも苦が集まるように感じられるのである。

 しかし、正しい信仰をしなさいという合図なのだから、正しい信仰をして、大自然の法則を学び、行わなければならないことを実行し、行ってはならないことなどをしなければ、願わなくとも苦は消えてしまうのである。

 そして正しい信仰をすれば、神佛は絶対のご守護を与えられ、大きな力を示され、すべてのものごとが仕合わすのである。

 人が認めようと認めまいと大自然の法則があり、信じようと信じまいと神佛は存在するのである。

 正しい信仰をしなければ、損をするだけでなく、時には命すら失うことになるのである。

                              (平成二年八月十日)

 何故、信仰が必要なのか、何故、信仰しなければならないのかと問う事は、何故、学問をしなければならないのかと問う事と同じであり、それは大自然が一定の法則によって運行されているからである。

 

 言葉を学び、世の中の仕組みや自然の法則などを学び、生活や仕事に役立てて、より良い、豊かな生活をするために学問をする。

 信仰も同様である。

 

 しかも信仰の方が、世の中の根源的なことを学ぶのである。

 

 学校での学問が、目に見える自然の法則(形而下の法則)を学ぶのに対して、信仰は目に見えない自然の法則(形而上の法則)を学ぶ。

 

 自然の法則は人間の生活とは関係なく、一定の法則で運行されており、人間も知らず識らずに、好むと好まざるとにかかわらず、その法則に従わされている。

 

 つまり信仰とは、人が行わばければならないこと、行っては

ならないことなど人が生きていく上で守らなければならないきまりを学び、身に付け、実行していくということである。

 

 科学の急速な発展でこの世は人間を中心に動いているように考え、自惚れているが、それは錯覚に過ぎない。

 

 それを一番よく知っているのでが、科学者自身であろう。

 

 物質の成り立ちを研究する物理学においても、人間の仕組みを研究する医学においてもあるいは一個の細胞からできている生物の研究においてすら、解明すればするほど、自然の精妙巧緻さに驚き、新たな謎が生じてくるだけに、人間の知恵では及びもつかない自然の法則、その偉大な力を認めざるを得ないという。

 

 例えば、人間には細菌などが体内に侵入してくれば、それを排除するために体内に抗体を作る機能があるが、それは一様ではなく、進入してきた細菌の種類と量によって、それと結合して無害化する抗体を体内で作り、生命を維持することができる。

 

 あるいは目の網膜は、単なる感覚受容器の細胞の集まりではなく、細胞一つひとつが赤なら赤を感受するなど役割を持っていて、網膜それ自体が目から入ってくる情報を処理する小さな脳のようなものであることが分かりつつある。

 

 人間は一つの受精細胞から成長するのであるが、何十億もの細胞の一つひとつに生体としての機能を維持するための役割が与えられている。

 

 その細胞が自分一つくらいとその分担任務を怠ければ、体に故障が生じたり、時には生命にも関わってくる。

 

 逆に言うならば、何十億もの細胞があるが、その一つとして分担任務や使命を持たないものはないのである。

 

 その細胞の集合体である人間が、社会において何等の使命も分担任務も持たないということがあるだろうか。

 

 人間のみがこの自然の法則の枠外にあるはずがない。

 

 人間も大自然の中に住する一つのものに過ぎないのである。

 

 人は自由に何でも出来ると思っているが、自然の法則の下に他の動植物が一定の行動の自由しか許されていないように、人間の行動も一定の範囲が定められており、あたかも透明のガラスケースの中に居るのと同じなのである。

 

 そのガラスケースの中で動いている間はケースの存在は分からず、あたかも無限の自由があるかのように思うが、それより外に出ようとすれば、ケースに頭をぶつけることになる。

 要するに勝手、気ままは許されないのである。

 

 人も、一人ひとりに社会の中で果たすべき役割が与えられており、その使命を果たしてこそ、社会の秩序が維持され、健全な社会を作ることができ、その結果として個人の幸せや繁栄がもたらされる。

 

 人がいくら幸せになろうと努力しても、大自然の法則に従い、分担任務を果たし、社会の役に立たなければ、決して幸せにはなれないのである。

 

 神佛は人にこの大自然の法則を知り、従うことを要求されているのである。

 

 その要求の合図が病気や経済的な苦しみなどである。

 

 人は医学で治らない病気や経済的破綻などに直面すると、神佛に手を合わせ、救いを求めようとする。

 

 人は神佛を、苦から逃れるための道具としようとするが、実は逆で、苦こそ神佛が人を救済するために使われる道具なのである。

 

 従って、いかなる信仰であれ、最初に神佛に手を合わせれば、神佛の実在や力を示すために、難病などを治すなどの不思議を見せられる。

 

 しかし、正しく法則を説いた正しい信仰をしなければ、神佛は別の苦という形で合図を掛けられるのである。

 

 今度は拝むだけではご利益もご守護も貰えない。

 

 それでも正しい信仰をしなければ、次から次に苦という合図を掛けられるので、いかにも苦が集まるように感じられるのである。

 

 しかし、正しい信仰をしなさいという合図なのだから、正しい信仰をして、大自然の法則を学び、行わなければならないことを実行し、行ってはならないことなどをしなければ、願わなくとも苦は消えてしまうのである。

 

 そして正しい信仰をすれば、神佛は絶対のご守護を与えられ、大きな力を示され、すべてのものごとが仕合わすのである。

 

 人が認めようと認めまいと大自然の法則があり、信じようと信じまいと神佛は存在するのである。

 

 正しい信仰をしなければ、損をするだけでなく、時には命すら失うことになるのである。

                                           (平成二年八月十日)

宗教は科学

科学とは一定の条件で、一定の行為をすれば、確実に同じ結果が得られる法則を明らかにする学問です。
これまで人間の通常の能力で観察、実験、調査を行えるものに限られ、それを科学と称し、宗教や信仰は非科学的なものとして扱われてきました。
しかし、大自然の法則には、形而下と形而上の両面があります。
形而下の法則や法のはたらきは、数学や物理、科学などの学問を学校で学んで、日常生活に役立てています。
形而上の法則や法のはたらきは、人間の通常の肉感的能力では、見、知ることはできません。
そのためにこれまで、一部の特殊な才能の持ち主以外は体験できないと考えたり、偶発的な現象だと考えるなど、形而上学の哲学、宗教が不完全で、法則が正しく説かれておらず、日常生活には役に立たないと考えられてきたのです。
しかし、現実には形而上の法則に順応するのとしないのと、知っていると知らないのとでは、人々の吉凶禍福は大きな影響を受けています。
形而下の法則だけでは、世の中の真実の相を解明することはできません。
例えば、医学的には、多くの病気の原因はほぼ解明させていますが、その人がなぜ難病、奇病で苦しむのか解明できていません。
しかも、医師が見放したり、治療ができない病気が、神佛にお願いをすることで治ることがあるのも現実です。
この世の中に起ることすべてが、大自然の法則に基づいて発生するものであり、この原理、原則を研究して、日常生活に応用活用してこそ、人類の生活、文化の進歩発展があります。
この形而上の法則を解明するのが宗教であり、宗教は形而上の科学なのです。
形而上の法則、原理、原則は同じ条件で、誰が行っても、同じ結果が得られるのですから、これを学んで生活を豊かにできます。
宗教は日常生活に役立つ学問であり、生活を豊かにする実践哲学なのです。
日常生活から遊離し、生活に役立たない宗教は、正しい宗教とは言えません。

 

 信仰とは何を信ずるのでしょうか

 

信仰は気休めのものでも、精神的な慰めでもありません。
神佛の実在を信じて、神佛に心を向け、神佛が人々を救済されるお力を信じ、大自然の法則のはたらきの真理を信じ、真理に適った教えを信じて、教えられたとおりに日常生活を実行していくのが信仰です。
この世の中は人間を中心に動いてるわけでも、人間の思い通りになるわけでもないことは明らかです。
すべては神佛の定められた法則によって運行されているのです。
法則の運行を司っておられる神佛の存在を信じることです。
そして神佛は人々を救済するために大きなお力を示されます。
奇跡と称するものを、人類は数限りなく体験していることからも、神佛のお力は威大なものであることがわかります。
このお力を信じることです。
その神佛のお力は一定の法によってはたらいています。
神佛はこの法をさとらせようとされています。
この法を信じることです。
そして神佛の法やはたらきを説いた教えを信じ、実行することです。

 

 神と佛は同義同体

 

大自然の法則を司っておられ、この宇宙のすべてを支配されているのが、神様であり、佛様です。
神様にも佛様にも、家内安全や商売繁盛をお願いするのも神様と佛様が同じものだからです。
神と佛は同一、同体なので、新生佛教では「神佛」とお呼びします。
人間が死んで神や佛になるのではありません。
同じ人間なのに、死んだら、佛教では「佛様」になり、神道では「神様」になるのは道理に合わないことからもこれは明らかです。
神佛はテレビなどの電波のように、いつでも、あらゆる所に遊在(ゆうざい)し、つねに人々の側におられるのです。神佛は1つですが、人々の先入知識を使われ、その人の望む姿で見せられるので、あたかも様々な神が存在するかのように見え、その意味では、一神でもあり、多神でもあると言えます。
神佛には人間の想像をはるかに超えた威大なお力があります。
だから、医師が見放した難病や不治の病、先天性、後天性の身体障害なども神佛は簡単に治癒することができるのです。
その大きなお力をいただけないのは神佛の法則に適っていないからで、神佛のお力が小さいからではありません。
時に、神佛は、自らの存在を人間に知らしめるために、手を合わせるだけで大きなお力を示されます。
これは実在を示すために仮に現されたお力です。
いわば、これは神佛の実在を知らせるための手段であり、正しく法則を学び、法則に適った行いを実践しなければ、またすぐに元に戻ったり、別の形の苦が現れてきます。
また、地球や太陽が共通、共有であるように、佛教の佛様、キリスト教の神様、イスラム教の神様という、固有独占の神佛は存在せず、神佛はただただ法に基づいてはたらかれます。
神佛のはたらきの大小は、大自然の法則を解いたその教えの正しさの度合いで決まるのです。
だから、正しく説かれた教えを、正しく聞き、正しく実行することが、より良き人生を送る要訣となります。

正しい教えとは

 

 宇宙大自然の法則は、一切の差別なしに、平等にはたらくものであり、老若男女、貴賎貧富、人種などを問わず、神佛はすべての人に救いの手を伸ばされます。

 だから、誰でも、『普遍平等』に、体験できること。

 教えが道理に適い、『妥当性』があり、矛盾なく理解できること。

 同じ条件、同じ方法であれば、常に、『絶対確実』に、同じ効果、結果が得られること。

 宗教は科学ですから、正しい教えとは、『普遍』、『妥当』、『確実』の三要素を具備していなければなりません。

 「多分」「かもしれない」「だろう」とかの曖昧、空想的な期待、希望的観測であったり、一時しのぎの気休めであってはなりません。

 信仰は、人々の生命と財産、運命がかかっているのです。

 

 教えの実践には

 

 形而上の法則、法のはたらきは通常の肉官的能力では感知することはできませんが、人は皆、生まれながらに神佛の力、はたらきを感受し、観応する能力を与えられているのです。

 通常これを霊感と言ったり、超能力と言っているのです。

 テレビの電波が、目には見えなくても、空間に存在していて、チャンネルを合わせれば見ることができるように、神佛の霊波がこの宇宙間に遊在しているのです。

 ただ、神佛の霊波を受信する方法を知らないだけなのです。

 新生佛教では入団と同時に家族みんなが信じれば三歳の幼児でも、神佛と交信のできる霊的観応通力をいただくことができます。

 この力をいただいてはじめて、形而上の法則を学ぶことができます。

 霊感や超能力を得ることが、信仰の最終目標のように考えている宗教もありますが、これは信仰の入門証なのです。

 新生佛教では、誰もが、簡単に霊感をいただけて、日常生活の中に役立てています。

 信仰の目的は苦を逃れることではなく、法則を学び、神佛のご意趣をさとって、日常生活に実践して、社会の役に立つ生き方をすることです。

 神佛と交信できる力がなければ、目に見えない法則や法のはたらきを学ぶことはできませんし、何が善であり、何が法に適った正しい行いであるか分かりません。

 人は未来を知ることもできませんし、事物、現象の隠された本質を見抜くこともできませんが、神佛は過去、現在、未来を見通し、それぞれの人々の性質、欲望を見抜かれ、最善の方途を教示されます。

 だから、神佛に直接おたずねして、教えていただいて、法則に適った正しい行いをするように努力するのです。

 信仰の目的は、『さとる』ことですが、そのためにも神佛の直接の指導が不可欠です。

 『さとり』とは、神佛のお考えと人間の考えの『差を取る』ことです。

 神佛は、宇宙全体のこと、社会全体のためにはたらいておられますが、人間は自分の欲望や利益のことばかりを考えて、行動をしがちです。

 この考えの差を取り、法則に適った正しい行いをするのが、佛道修行の目的です。

 

 

 第一章 立教の意義

 

 二十世紀の信仰、それは形而下一辺倒の科学万能である。

 

科学技術の長足の進歩は実に驚くほどで、何人もがその実現を夢だに思わなかった事も、何時の間にか、誰もが知らない者がない程日常化されて、生活の中に溶け込んでいるものも実に数が多い。

 

 「人知によって解決されないものはない」と考えられ、「何事も人類によって征服されないものはない」と考えられた。

 

 更に神佛の存在さえも否定されるに到ったのである。

 

 明らかに人類は増長し、慢心していた。

 

 ここに於いて世の中は汚濁の様相を示しだしたのである。

 

 即ち、劫濁、命濁、煩悩濁、衆生濁、見濁の五濁の悪世相である。

 

一、劫濁の時は、戦乱、内乱等の刀兵災が起こり、或いは他国の侵入の難を受け、天変、地妖が続いて発生し、病疫が流行し、害虫簇生、繁殖して害をなすなり。

 

 (天変とは、冬時、雷鳴はげしく鳴り、光り、夏六月に、氷、霜、雹をふらして、冷旱害が発生し、穀物、野菜が実らず、飢饉となり、風水害が続いて発生し、大風が樹木を倒し、大水が国土を漂わして、砂礫を流すなどなり)

 

 (地妖とは、地変とも言い、地震、津波が起こり、火山が爆発し、或いは、家屋。山林を焼きはらう等の大火が頻発する事等なり)

 

二、命濁の時は、悪業盛んにして、生命を軽視し、自殺、自殺的無謀行為、他殺、傷害、暴力行為等が横行するなり。

 

三、煩悩濁の時は、煩悩の為に心身を悩乱せられ、貪欲にして闘争を事として、邪曲盛んなり。

 

 即ち、贈収賄、横領等の汚職行為並びに掠盗盛んにして、上は為政者、官吏は汚職行為を当然の如く思い、欲望達成の為には金力、権力を駆使し、お手盛り立法に依って国法をまげて私腹を肥やし、下庶民は、出すべき公費等は出さぬ事を考え、取るべきものは、あらゆる手段をつくして、これを取る事を考え、懶惰の気風強く、骨身を惜しみ、世の為、人の為に働くことを厭う風潮流れ、働かず等、邪曲、欲心慳貪盛んなり。

 

 (掠盗とは、人の目をかすめ、物をごまかし、或いは他人の財物を盗み取り、或いはうばい取る事である)

 

 (慳貪とは、人に恵む事を知らず、惜しみ深くて、出ししぶり、取り欲で、むさぼり深い事である)

 

四、衆生濁の時は、衆生の悪逆盛んにして、父母師長に孝敬ならず、悪業の報果を恐れず、罪を犯しても罪悪感を抱かず、善悪の分別力を失いて、平然として、慚愧の心なくして、功徳を積まず、斉を修めずして、風紀乱れて、官紀ゆるみ、下克上の風強く、賭博的風習が流れ、徒党による脅迫、集団的暴力、暴動、さわぎ等起こるなり。

 

 (孝敬とは、孝は、能く父母に仕え、能く祖先に仕えて、父母祖先を大切にすることにして、敬は、心がつつしみ深く、うやまいて、おろそかにせず、上長や師に対して能く仕え、心からうやまう行いである)

 

 (悪業とは、神佛の定められている、人が守られければならない戒にそむいて、悪い報いを引き起こすところの身、口、意の行為、業を言う)

 

 (慚愧とは、恥を知り、神佛にはじ、人にはじて、罪を造らないようにし、或いは、罪を他の者に造らせないように心掛ける事である)

 

 (斉とは、威儀作法を正しく、つつしみて、礼儀作法、規律を正しく守る事である)

 

 (下克上とは、下の者が強く、上の者の権勢をしのいで、上の者をないがしろにしにする事等なり)

 

五、見濁の時は、邪見を修して、正見にして正道を究め、善導を修行するものがなく、為に邪法が行われて、邪説、邪教はびこりて、邪宗派乱立して正教を離れ、世人惑乱するなり。

 

 (見とは、肉眼で見るところの見方ではなく、肉眼で見えない神佛の法の能きを霊観応によって見る、ものの見方、考え方、理解の仕方を言う)

 

 かかる五濁に乱れた悪世相にこそ、神佛は当来佛として世に出現され、大きくそのお力を示され、その法の能きをより強く示されて、

 

 正しく神佛の実在を悟り、正しく神佛の知見力(智慧、力)を理解して、正しく神佛の定めておられる法を了って、それに遵い、正しい神佛の教えの道に入って、諭しのご意趣を正しく理解して、

 

 汚濁の世相を浄化して正道に帰して、明るい社会、楽しい、住み良い社会、世相を作れよと、

 

 神佛は、あらゆる形で、大きくさとされる事を深く認識しなくてはならない。

 

 今、静かに、日本の現実に、世界の情勢の現状に、思いをめぐらして見るに、

 五濁の悪世相を日々、月々、歳々見聞し、ひしひしと感じ、誠に憂世の情、忍びざるものがある。

 

 これで、良いのか?

 

 今にして悟らざれば、神佛の諭しの警告は、益々強く、大きく、表現されて、不幸は増大されるであろうと、言わざるを得ないのである。

 

 かかる重大なる時機に、神佛は勅旨をもって、「遷主(様)」に、

 

 「汝、佛教の真如を会得して、弘法救世に邁進せよ。我等、汝の後盾となってこれを扶けん」

 と告勅され、

 

 以来、このご神勅を奉じて、

 

 「正真の佛教の新生弘通以外に救世の道は決してない」

 

 ものとの確信を得て、佛教新生による新生活文化運動を強く推進し、汚濁の世相の浄化による、

 

 真の平和、楽土、浄土の建設に挺身せんとする由縁のものである。

 

 強く世に訴える!

  次代を背負う若人よ奮起せよ!

   現実の世相を直視せよ!

 

 しかして、正しく神佛の実在を認識して、正しく神佛のお力、法の能きを学び知って、この法に遵い、正しい神佛の教えの道を推し進めて、正しい社会世相を作る事に、努力することを願い、声を大にして世に訴えるものである。

 

 人類の、一人一人の力の結集が、世界を動かす原動力となるものであり、正しい、明るい、人造り、村造り、国造りは、正しく当来佛の教えを信仰することによってのみ、築かれるものである。

 

 当来佛が日本に出現の由縁は、世界中で五濁の悪世相が現出し、日本でも顕著である一方、正しい教えを説いても国が邪柱しないという政治状況や、高度な佛教理論である大乗佛教が残存し、国民の教育水準が高いなど正法弘通の条件に適っていることなどである。

 

 (真如とは、世の中の真実ありのままの相の事で、人間の肉官では、表面的な相の仮相の事象しか見、知る事は出来ない。

 

 これを肉官と霊的観応との両面から見て、神佛の肉眼に見えない能き、法則、ご意趣を深く考えて過去、現在、未来のつながり、原因、経過、結果、応報の能き迄を見、知るところの世の中の真実そのままの相の事である)

 

 はじめに

 

宗教は大自然の法則を解き明かした科学であり、真の形而上学、哲学です。

 

 そして、その説かれた法則を学び、実践するのが信仰です。

 

 本来なら、宗教は学校で教えるべきものですが、これまでの宗教の本義が不完全だったた

めに、学問として学ぶこともなく、信仰も日常生活とは関係なく、一部、特別な人がするものと

考えられてきました。

 

 しかし、宇宙大自然の法則には、形而下の法則と形而上の法則の二面が厳然として存在し

ています。

 

 この法則に適う行いか否かが、人々の吉凶禍福に大きな影響を与えるのです。

 

 だからこの法則がどのように運行されているかを学ぶことが大事なのです。

 

 新生佛教の教えは、当来佛として出現された神佛が直接大自然の法則を、現代の科学水

準や教育水準に即して、全く新しい角度から正確に説き明かされており、また入団と同時に

 

神佛から直接指導いただける霊感の力を授けられる稀有の教えです。

 

 第一章 信仰の必要性

  なぜ信仰が必要なのでしょうか

 

従来信仰は、医者に見放されたり、自分ではどうにもできなくなったりした、いわゆる困った時

の神頼みで、初めて手を合わせる人がほとんどです。

 

 あるいは、信仰は、苦悩からの逃避の手段、精神的慰藉や精神修養の方途、葬祭の儀典

と考えています。

 

 つまり、信仰は生活の中のほんの一部と思っています。

 

 しかし現実は、人間は大自然の法則の中に生かされており、運命、生命、幸不幸、栄枯盛

衰に大きく影響を受けるのです。

 

 この法則を知るのと知らないのと、遵うのと遵わないのとでは、大きな違いが生じます。

 これは個々の人だけでなく、社会や国の盛衰まで左右します。

 

 しかも、神佛は人々を救い、世の中を良くしようと、人々に合図をかけておられます。

 

 また、大自然の法則に遵い、正しい教えを信仰するように要求され、あるいは法則に反している人には苦をもって合図されています。

 

 これらの合図を解明し、神佛のご意趣に適った生活をし、社会を良くして、みんなが幸せになるためには、正しい信仰する以外に方法はありません。

 

 大自然の法の存在

 

 われわれが生きているこの宇宙の万物、諸行のすべては、一定の法則によって動かされています。

 

 この大自然の法則が存在し、それが不変であるから、人は安心して生活ができるのです。

 

  地球上の大気は、窒素や酸素、二酸化炭素などの元素が適当に配合されているので、人間は生き、生活することができます。

 

 人間は自然を観察、調査し、自然の中から多くの法則を発見して、それを利用して、現在の豊かな生活を享受しています。

 

 さまざまな物理や化学の法則が存在し、その法則を工業、農林水産業、学問などの広範な分野に応用活用して、今日の物質文明の豊かさを実現したのです。

 

 この法則がときどき狂ったらどうなるでしょうか。

 

 この世の中の何一つをとっても、人間が無から創り出したものはないのです。

 

 他の動植物と同じように、人間もこの大自然の法則のもとに、創られ、生かされているに過ぎないのです。

 

 動植物を観察すれば、かれらの行動形態は、その種に与えられた本能に基づき、一定の条件下では、決まった行動をすることが分かっています。

 

 これは動物にしろ植物にしろ、大自然の法則に支配されていることを示しています。

 

 それらの性質、行動特性を利用して、人間は動植物を生活に役立てています。科学の発展で、人間は自然を改良して、人間に都合の良い環境を作り出し、あたかも人間だけが大自然の法則から自由であると錯覚しがちです。

 

 しかし、人間の都合の良いようにした結果、地球環境を破壊し、人間の生存そのものを危機にさらしています。

 

 このように人間中心の考え方は、人類の破滅につながりかねません。

 

 人々は宇宙の中の一構成員に過ぎず、宇宙の法則の中において存在し、生活させられているのが現実です。

 

 大自然の法則に逆らうことができないのは明らかです。

 

 人間が自由に、自分が自分の行動を決定しながら生きていると考えるのは明らかにうぬぼれであり、世の中の現実を知らないからです。

 

 法則の範囲内でしか、人間は生きていけないのです。

 

 大自然の法則に反すれば戒めが与えられます。

 

 現在では刑法など、人の行動を規制するさまざまの法律ができて、その法律を犯せば罰せられることは誰もが知っています。

 

 大自然の法則は、人間の定めた法律以上のものです。

 

 法律に定められていることだけでなく、さらに高度に「人としてしなければならないこと」「してはならないこと」「したほうが良いこと」「しないほうが良いこと」などが厳然と定められています。

 

 大自然の法則は、人為法以上に信賞必罰が厳格で、しかも、行いだけでなく、心で思うことまでもその対象となります。

 

 人は勝手気ままに生きることは許されません。

 

 この大自然の法則を理論的、体系的に説かれたものが宗教であり、これを学び実践するのが信仰です。

 

 人はなぜ苦しむのでしょうか

 

 人は誰もが幸せになりたいと願っていながら、夫婦の不仲、親子の喧嘩、事故や病気、事

業の失敗、不慮の死など、苦しみや災難に遭います。

 

 これらを、運が悪いとか、社会や相手が悪いと考えたり、寿命とか運命だからと諦めますが、そうではありません。

 

 また、決して逃れられないことではありません。

 

 これらの出来事は偶然の結果ではなく、原因あっての結果であり、必然の結果なのです。

 

 すべて原因があって結果が生じ、その結果が次の原因となっているのです。

 

 それは、この宇宙は、一定の法則に基づいて運行されているからです。

 

 ただ原因と結果に直接の因果関係が分からないので、多くの人が一定の法則の有ることを知らないのです。

 

 しかし、昔から、経験することにより、この法則性に基づいた行動をしています。

 

 例えば、映画やテレビのドラマで、登場人物が悪いことをすれば、事故や病気、人に裏切られるなどの何らかの悪い結果が生じるし、正しいこと、良いことをする人は苦しい目に遭っていようと、最後には必ず良い結果となりますが、こうしたことを実際に体験、経験を重ねて、今ではごく当たり前に受け入れ、期待しているのです。

 

 これが因果応報という法則のはたらきであり、大自然の決まりなのです。

 

 人の行いや心がけは、周囲や社会に与える影響の良否、度合いなどがすべて加味、計算されて、その結果が現在の姿に表れているのです。

 

 だから、現在の姿が、過去の自分の行いの結果であり、将来の自分の姿は、現在の自分の行いを見ればどうなるかが分かります。

 

 苦は自分自身の行いがもたらした結果であることを自覚しなければなりません。

 

 しかし、どんな悩みや苦しみであっても必ず逃れる道はあります。

 原因を解明して、なすべき事を実行すれば、苦は除くことができるのです。

 

 絶望と思えるような時でさえ、何かの希望の道が残されているのです。

 

 しかも苦を除くだけに止まらず、苦を転じて幸せとなす事も、また善事を必得することも容易にできるのです。

 

 新生佛教はこうした法則を正しく解き明かし、苦の原因を除いて救われる道やすべて好都合に仕合わす道を、神佛から直接に示していただける日常生活に役立つ教えです。

 

広義の信仰は誰もがしている

 

 神佛の定められた法の下に人々は安住し、生活している

 

 神佛は、一定の法によって、宇宙大自然を運行し、人間社会を運営される。

 

 この法には誰も、何人といえども、貴賎貧富、老若男女、人種的差別なしに従わなければならない。

 

 神佛は何者にも、誰にもこの法に順うことを強要されているのである。

 

 また、何人にも、誰にも法を知ることを強く要求されている。

 

 この法を信じ、学び、実践する行動が信仰である。

 

従って、日常生活は信仰の基礎の上に立っているのであり、信仰しないでは生活できないのである。

 

 日常我々の身辺の身近に、見たり、聞いたり、感じたりする色々な事や現象を何も不思議に思わず、しごく当たり前に考えている。

 

 そして、それらのありふれた現象に、誰もが何の疑いも持たずに応動している。

 

 例えば、農家が米を作るにしても、毎年繰り返す、同じ時期の、同じような天候の変化を、永年の体験によって会得して、この気象の法を信じて、その時に即応して耕作している。

 

 この気象の不変の法とは何であろうか。

 

 医師が病気を治療するのに、種々な実験によって会得した、万人共通に効く薬を使用して効果を上げている。

 

 この不変の効能、治療の法とは何であろうか。

 

 工員が機械によって物を工作するが、誰でも使用法を知れば、作動させることができる。この機械が作動する物理の法とは何であろうか。

 

 これこそ、大自然の法の一部分であり、神佛の定められている法の一部分なのである。

 誰も、何人といえども、変えることも、停止することも、否定することもできない、神佛の大法則なのである。

 

 誰もが知らず、識らずに神佛の法を会得して、信じて、この法に順っているのである。

 だから、我々人間の日常生活は決して信仰なしには成り立たないのであり、信仰を離れては、日常生活は有り得ないのである。

 

 要するに、形而下的には、誰でも大なり、小なり皆信仰していると云えるのである。

 

 ただ、真の信仰という重大事を見逃しているのである。

 

 形而下の法則は小学校から義務教育で九年間、さらに高校、大学で学び、生活に実践し、役立てている。

 

 しかし、もう一つ形而上の法則のあることを忘れているのである。

 

 形而上の法則は、人々の生活と生命とを左右する重大なものであり、形而下の法則以上に真剣に学ばなければならない。

 

 何故なら、人間が社会生活を営む上に於いて、必ず守らなければならない道、即ち神佛が定められている、なしてはならない事、なさねばならない事のきまり、法則があるからである。

 

 これを道徳と云い、この法則を学び、教えるものが、哲学であり、形而上学、宗教である。

 神佛はこの法を知っていようが、知るまいが、社会秩序を立て、守る必要があるためにこれを実行し、世の中に行うよう、瞬時の休みもなく能いておられる。

 

 そして、神佛はこの法を知る事を強要され、深く真の信仰をして、神佛の社会の指導方針に協力することを望まれているのである。

 

 神佛は、神佛の意趣を正しくさとって、指導方針、運営方針に正しく、よりよく協力する者に、より強く大きな守護を与えられ、より豊かな利益(りやく)を与えるられるのである。

 

 正しい教えを学んで、正しい信仰をすることが、真に幸せを得る唯一の方法なのである。

                          引用元:法の泉一号 (昭和六十二年八月十日号)