もうね
墓場まで持ってこうかなと言うことも
書いておこうと思う年末。
嫌なニュースばっかりだ。
私は今は美術系の仕事をしているけど
元環境系の大学出身
持ってる国家資格も実はそっち系なんだよね。
温暖化は もう越えちゃイケナイラインを二つ位
越えてる気がする。
SDGS もLGBTQもそうだけど
問題としては真摯に取り組むべきなんだけど
変な面々が沸いたせいで 胡散臭い界隈になってしまって
そのせいでイマイチ解決すべきという危機感も無くなったり。
格差も 不労所得やら投資やらなんやらが許容されてる限り増えるし
貧困層が増えれば 衆愚が蔓延して
民主主義のコストも増えると私は思う。
環境も社会も
崩れゆく流れの中にあるように思えてならない。
今日より明日が良いと思えるから 前向きに頑張れるんだわ・・
段々と悪くなっていく中でもがくなんて
不治の病にかかってしまったような気持ちになってしまう。
そう言う事を書いてきたけれど
そうネガティブな話だけで私の思想癖は占められてる訳じゃ無い。それも書いておこうと思った。
・
北海道旅行に行って とある山奥の湖に行った。
駐車場は満杯 確かに良いところだ・
良いところだが かなり山の奥だ。
携帯の電波が1になっていた。
そんなところに 3桁の数の車が停まっている。
みんな好きだねえ と思う。
旅行とは不思議なものだ。
何も残らない。ただ一時の為に
お金や時間を結構なレベルで注ぎ込む。
この湖に居る殆ど全員が
別にこの湖に対して この後の繁栄に繋がる何かを求めて来てる訳では無い。
ただ綺麗な湖を見て
ついでに名物の美味い飯を食いに来ている。
投資では無いので
お金が増えたり そのタネになったりはしない。
しかしだ むしろ
なんでお金を稼いだり貯めたり増やしたりしているのかと言えば
こう言う体験をしたいが為 とも言える。旅行とは一つの 稼ぎのゴールだ。
お金は使わないとその価値を発揮しない。
旅行やらグルメやらは その使い道の筆頭格だろう。
しかし改めて不思議である。
旅行に行っても帰るのである。
帰れば何も残らない。迎えるのは減った残高と 休んだせいで溜まった仕事だ。だが何の後悔もない。
また旅行に行きたいから頑張るか!である。そしてまた懲りず?に旅行に行く。
人生も同じだ。
安い旅館のスリッパではないが 人生は旅・と言うのは言い得て妙 だ。
バージニア大学の研究で輪廻についての重要な研究成果はあるが
それを考慮に入れずとも・・入れてない人が大半であろうが
人生は旅のような消費のされ方をしている。
とりあえず人は死ぬ。
思い出を積み重ねても 死ぬ時は死ぬ。
思い出の価値はなんぞやと言われても そんなものはおよそ明言出来ない。
しかしむしろ
人生の価値とは思い出にあり なんて気持ちにもなる。
実際のところケチな私は 来世にも使えるような能力とは何か?みたいな事を考えてはいるが
そもそもその能力は何の為に使うのかと言えば
究極、
結局旅行やグルメ 楽しい思いをしたいからである。
その為に 来世でも私は能力を駆使してその機会を得ようとするだろう。
そしてそれも 悲しいかな必ず過ぎ去って
思い出という跡を残す・・のみだ。
延々と輪廻をして
それなりに苦労しもがきつつ
思い出を積み重ねて・・さて私は一体どこに行くのだろうか?
字で書けば大層救いの無い話のような気もするが
感動したあの時 確かに私は
生まれて 存在して良かったと心から思った。
なんの役にも立たない ただただ感動したあの時、心震えたあの時は
宝物となって 私の存在の甲斐となっている。
その感覚は その後いつになろうと
少なくとも間違いでは無いと断言出来るものだ。
意味や価値を超える
或いは意味や価値の根源的な軸がそこにある。
北海道の辺境にあるその湖に並んだ観光客の車達は
私だけではなく 多くの人が
感動し心震えたその時を何よりも 存在の甲斐としている事を証明している。
美味い飯 綺麗な景色 素晴らしいサービス
それがそこにあるのが嬉しい。
それは娘に対しても思う。
娘を産む前 私は正直子供を作る事に懐疑的であった。家内は猛烈に子供を欲しかったので
まあ 私が最悪あんまり子供を好きで無いままだとしても
家内が愛するから 隣でニコニコしてればなんとかなるか・
家内の為に作るか・・と言う
ただそれだけだった。
私は海外旅行 特にアジアや辺境系?が好きだったが
子供が出来れば制限は少なからずある。旅費も1人分増える。
そもそも責任も発生する。
生活コストも増える。
言い方は悪いが 子供を作るなんて
純粋な赤字要素の塊だ。
ところが 不思議なもので、娘は私にとって
大きな華となった。
コイツが飯を食うだけで嬉しい。飯代がかかるだけなのに。
あれ食うか?これ食うか?これ欲しいか?ここ行きたいか?
仕方ねえな くれてやるよ・・
独り占めしたいはずの飯を分け
安物で済ませれば良いのに割と良い服を買ってやり
大した面白く無いと分かりつつ 娘の行きたがるとこに行った。
娘が幸せそうだと 何故か幸せになった。
私は娘が幸せな現実が
美しいものだと 喜びであると
そう言う存在であった。
もしも今 娘が自分と血が繋がっていない事が分かっても
この気持ちは全く変わらない。
綺麗なものを見に行くのと同じで
赤字なのに 純粋な消費なのに
それは自分以外の何かなのに
美しい何かの存在が嬉しい。
風俗のように なにか肉体的快楽がある訳でも無く
何か今後の自分の発展につながる訳でも無いのに
嬉しい。
それが存在している事が嬉しい、
それが 私の中の
存在しているもの
に入っている事が嬉しい。
そんな 存在して嬉しいものを私はまとめて
存在の華 と呼んでいる。
そしてそれはあらゆる筋道込みのものでもある。
例えば
長年苦労して
闇堕ちもせず努力を重ねた結果
それが報われて
良い思いをした・結果が実った。
と言う事があれば嬉しい。それは自分でも他人でも だ。
これはその全ての流れが美しいからで
何も苦労せず
とか
悪い事をして
とか
そう言うものが最終的に 良い思いをした・と言うところに繋がれば
それは醜いものとなり
私は存在のテンションが下がる。
綺麗な風景や美味い飯もそうで
やはりそれらへのアクセスが
自分の努力の結果だとより甘美だ。
親のおかげで行けた と言うより
悪事で稼いだ と言うより遥かに甘美だ。
あらゆる現実には筋道が
私の それらの
背景がある。それ込みで私たちはそれを感じ
感動したり 萎えたりしてる。
それも込みでの 存在の華であり 筋道は花弁でもあろう。
先程バージニア大学の輪廻の研究について触れたが ざっくりと
輪廻は実証されたも同然だ。記憶もまた然り であるが
悠久の時を経て 筋道は蓄積していき
その形そのものが より複雑な華になるだろうと。
そう言う意味では
年々悪化するであろうこの世界でも
そんな世界で自分は あの人は これは
どうなんだ?と言う話になるだけで
必ずしもその結果が醜くなる訳では無い。
勿論 闇堕ちしたら元も子もないけれど・・。
確かに世界はちっとも良くなる気配は無い。
ただ 存在の華はその種類も 花弁の数も
常に増え続けている。
歴史が積み重なれば重なるほど 様々な趣も生まれ蓄積する。
平成レトロ なんて
私の歳には衝撃的な概念すら出てきたが
時代時代でパッケージされるほど
文化の華は時代各々で独自に華咲いている。
それは 時が蓄積すればするほど
存在の華が増えるという事を示している。
私もそうで 良くも悪くも過去が蓄積している。
忘れたような過去の飯も 今の体重という形で残っているし
あるとき思い出したり
或いは今の飯の好き嫌いに寄与していたり
結局覚えて忘れた そんな歴史込みで今の私に結実している。
良くも悪くも思慮深くなり経験も積み それが自信を生み老害化していたりもするが
ともあれ 進んだステップは後戻りせずに
例え過去の道を忘れても目の前の次は変わらずそこにある。
私は絵の練習をしているが
一度上手くなれば 下手な頃の絵は描けなくなる。
何故上手くなれないのか?と思ってた自分は 練習を重ねるうちに
何でこんなに下手に描いたのだろう?と思うようになる。
本当に上手い人は 本当に下手な絵を描けず
その逆も勿論また然りである。
そうやって 人は過去の最先端として今にいて
そしてもう過去の自分には戻れないのだ。
それは確実な進歩を意味する。
例え老化によって かつてのように動けなくなった人も
若い身体を手に入れたら かつてのように動ける。若い時は動けた人だからだ。
絵だって手が無くなれば描けない。
目が見えなくなれば描けない。
だが それはとある条件のせいで描けなくなった
だけで そこ条件が無くなれば描ける。
自分のポテンシャルは変わらない。
輪廻をして 新しい身体というデバイスを手に入れたら またその先に行ける訳だ。勿論前世や昔のことは忘れていても
それは忘れただけで 思い出せないだけで
かつて出来た自分の過去を消すものでは無い。
現に才能という形で 過去を思い出せなくても
ポテンシャルが現実を引き寄せる。
具体的な記憶がなくても
完全な過去の消去とはならず
ポテンシャルとして 様々に結実する。
一回覚えたことを忘れたとしても 過去手に入れたものはその残滓を ポテンシャルを未来に残すが
元々知らない事は 得ていないものは勿論何も思い出させず
何の可能性も未来に残さない。
過去を積み重ね 進んだ私達は
常に過去よりは 根源的には良くなっている。
それは能力だけではなく 知識もそうだ。
嫌いな体験は教訓を
良い体験は喜びとその先のアレコレをそれぞれもたらすからだ。
例え表層ではそれを忘れようと
人はどんどん勘が利くようになる。
危険なものを避け 良い方に行くようになる。
だから 私達はこの先も
存在して嬉しいものを 過去より効率的に求め
また作り出す事が可能になるだろう。嫌いなものを効率的に避け
除去する事も出来るだろう。
好き嫌いがある限り
それは私たちの本質そのものだが
教訓が積み重なり
能力が積み重なる。
だから 何も嘆く事は無い。
遠回りか近道か 近道の方が良いが
天国は確約されていると 私は思う。
思うけど
遠回りじゃ無い方が いいやね。
