サイトを相変わらずペコペコ作っているが、思った以上に作業がデカい。

 なんだろう、屋久杉みた~い! って言って、屋久杉の行き方と旅費と旅程を見たら、やる気がなくなっていく感じ?

 なんだ、口だけかよ。わかるわかる。仕方ないぜ、忙しいしな。

 

 

 きわめて当たり前のことだけど、あらゆるものには距離があり、そこを歩くための実際の足運びがあり、いつでも立ち止まり、いつでも引き返し、いつでも足を進めることが出来る。

 それは作品を適当に咀嚼して、頭の中で「ありうべき姿」を夢想して遊ぶのとは全く違う。消費者でいるな、生産者になれ、という話ではない。別に消費者でいたっていいと思う。

 

 

 問題は……もっと大きなことで、部屋に座って、誰かが撮った屋久杉の写真を見て、誰かが書いた屋久杉の旅行記を読むのと、屋久杉に歩いていくの、どっちが楽しいか? 人生でどちらを選ぶのか? ということだ。

 

 

 そもそも、こんな問いを自分にかけて、さも真剣な顔をしなければならない時点でまちがっている。歩くか、歩かないか? そんなことを聞かなければならないほど、聞かなければならないと思い込むほど、おれたちは疲れているのか?

 

 

 時間軸はつねにおれのなかにしかない。「なにかをしなければならない」時間なんて存在しないし、誰に何を言われようと、屋久杉に行きたければ行けばいいし、屋久杉の写真を見たければ見ればいい。それなのに、なんで、「消費者でいるな」なんて軽々しく言えるんだ? それってアジテーションと何が違うんだよ。「創作者がそんなに偉いのかよ?」という、すでに創作=偉いを内面化したひがみではなく、それ以前の問題として、創作するなら、「消費者でいたくない」なんて内面は持たない。

 なのに、そんなゆがんだ精神を持たせようとするのはなんでなんだ? 実は創作が嫌いなのか?

 

 

 自分のオリジナリティを出せ、という言葉には、オレの言葉に従え、という無言の命令がある。その無言の命令こそが、オリジナリティを奪う根本だというのに。脳みそすかすか♥ おじさんきも~い♥ 息がくさそう♥ 近寄らないでもらえますか♥