いつもごひいきにしていただき、ありがとうございます。
実際に会ったこともない人のプライベートなことに口をはさむ輩がいる。まぁ、その人の自由やからいいんやけど。だから許す。人のことを批判できるほどあんたは偉いんかと言いたくなるけど。どんな行動をとるかはその人の自由やからいいんやけど。だから許す。誰が何人とどんな場所で不倫していようと当事者ではないあんたなんかに何か関係あるん?て思うけど何を感じるかはその人の自由意志やからいいんやけど。だから許す。合コンや婚活デートで「○○っていう芸人が不倫したやんか。あれどう思う?」って目の前の相手が自分の意見を聞いてきたらこう言おう。「うーん、その人と会ったことないから知らんけど本人の自由なんちゃう。世間的にあかんことしたか知らんけど人ってみんな失敗するやん。それを寄ってたかって叩いてる輩は『お前らアホ面さらしてどんだけの人間やねん?』って逆に聞きたくなるわ。人の失敗をネタにしてメシ食ってる輩もおるけどそれはその輩の自由やからいいけど。だけどぼくはたった一回失敗しただけでその人の全部を否定するような人間にはなりたくないなと思てるたくさん失敗してきた成功者ほど他人の失敗には寛大や、ってなんかの本で読んだわ」こういえばかなりポイントが上がると思うねん。目の前の相手の好感度のことちゃうで。「自分を自由にするポイント」のことやで。自分を自由にできたら相手の反応うかがったりおべっか使ったりビクビクせんでもええやろ?自分を自由にするポイントは自分の考え次第で貯まっていくものや。他人の小さな失敗を許せたら自分の失敗も許せる。許せる自由があるからや。デートの前やのにニンニク料理食べてもたりお好み焼き食べてネギが歯に挟まったまま会話してたり。そんな死にたくなるような失敗も許せるようになるんや。デートや合コンの前に自分に宣言しよう。「今日、相手がどんなことを言ったとしてもどんな考えを持っていたとしても誰よりもわたし(ぼく)がその自由を認めよう」なぜなら、あなたは自由に自分の意見や考えを持っているからや。他人は他人で自由にその人の意見や考えを持ってる。他人も自分も自由にさせる人間が一番、魅力的なんやと思うで。でも間違っても自分から不倫の話を持ちだしたらあかんで。俗世間の話なんかしたらお里が知れる。あくまでも訊かれたら答えるんが鉄則や。あとな。基本は聞き手でいることやで。相手の話なんて全部きかんでええんや。疲れるさかい。話半分だけ聞いとったら成るようになるわ。ほながんばっといで。
洗濯ものを干してシンクとバスとトイレを掃除した。床に掃除機もして濡れぞうきんで仕上げた。たいして動いたわけではないのに夕方になると肌がべとついている。だからさっきシャワーを浴びてすっきりした。昨日はH君と久しぶりに電話した。40分以上だれかと電話することなんて今年に入って初めてのことかもしれなかった。もともと電話は苦手だから。近況報告なんかをし合ったりして楽しかった。でも気をゆるめると、エゴが登場して自分の考えばかりが口をついて出てくる。自分の考えが出てくるだけならいいのだけど「自分のことを理解してほしい」という気持ちがそこには多分に含まれているのを感じて少し背中が冷たくなる。自分の考えが唯一正しいわけではないということをいつも念頭に置かななければいけないなと思う。他人と調和するには、自分のことは6割程度話すだけで十分だと思っている。自分の主張はその程度にしておいてあとはジョークとかバカなことばっかり言っていればいい。そしたら相手もずっと楽しい気持ちでいられるから。久しぶりの会話が嬉しくてついいつものクセが出てしまった。20代の初め部屋の壁に自分のスローガンを書いて貼っていた。それが「芝居をするな、バカになれ」だった。記憶が不確かなので断言できないけど「セカチュー」の映画の撮影で、長澤まさみが映画監督から「芝居をするな、サルになれ」と言われたことをメイキングで話していた気がする。だから元ネタは多分それだと思う。実際に芝居を勉強していたこともあって、そのスローガンだったんだけど、今それを思い出した。年を重ねると、人はどんどん賢くなっていくし賢くなろうとする。でも目指したいのは常に和やかでその場の雰囲気を明るくできる人の心を惹きつける自分だ。いつも余裕があってユーモアがあって豊かで楽しい人柄なのだ。だから真面目な話なんて少しでいい。それよりもっと楽しいことを追求する。楽しい話を相手に投げかける。軽快であることだ。真面目な自分は、バカを演じるくらいがちょうどいい。「バカを演じるのは賢い役者じゃないとできへんよ」と誰かが言っていた。そして他人の話も、ぜんぶは聞かない。半分聞くくらいが、ちょうどいい。訊かれたくない質問をされたときはユーモアではぐらかす。誰かを批判したくなったら、自分がいかにドジで未熟なのかも同時に話して、毒を中和する。「深刻な状況」というのは、もうこの人生では起きない。ぜんぶが幻だということを知っているからだ。「唯一これが真実」というものも存在しない。それぞれの人間が、それぞれの立場から見る位置が違うからだ。この日記にもそのことを何度も書いてきた。何度も書くことでそのことを毎日思い出している。「物事のいい面にフォーカスする」と書くと理想主義的な、ご都合主義者の考えに見えるかもしれないけど、そう見えたとしても「だから何?」という感じだ。どうせみんな自分の見たいように世界を見ているのだ。自分の信条に従って、誰もが生きている。そうして「幸福とは何か?」を見つけるゲームを楽しんでいる。また真面目なことを書いてしまった。あほやな。
日記を開くのが一週間ぶりになった。日記を書く時間なんて存分にあるのだけれど何となく書くことをしなかった。この一週間に起きたことを思い出そうと頭の中をのぞいてみた。実際に何を見て、何をして、と、細部まで思い出すことができた。けれどもそれをしなければずっと思いださないままだったかもしれない。まるで記憶が水中でぼやけている状態だ。記憶を水中からすくいだしてみたらその細部までまじまじと見ることができるそんな感覚だ。自分が何をしたか、何を言ったかこだわらなくなってきているのかもしれない。「過去」というものがもはや自分の手元から離れているみたいだ。逆にいえばどんなことも後悔がない状態だ。最近は意図的に自分が「気分が良くなる、明るくなる」ことにフォーカスしている。何をしたら、いま気分が良いだろう?と自分に訊く。その結果いつもは地下鉄で移動するところを車を使ってみた。人が混雑する場所に行かずにすんで気分はよくなった。何を食べたら、気分が良いだろう?と自分に訊く。その結果いつもは健康を気遣って食べなかったファストフードや甘いものを食べた。どんなふうに過ごしたら気分が良いだろう?と自分に訊く。その結果人込みの中を歩くときいちいち他人を見ることをやめてただ目の前を流れる景色を俯瞰して歩いた。他人からどう見られているかを気にせず、他人が自分に向けてくる視線(とそれに含まれるであろう思考)に注意を払わず、ただ無感情なアンドロイドのように歩いた。それをやったら気分が良いからやった。今までは他人の視線にどこか恐れを感じていた。だけどそういうものからはもう卒業する。ただ自分で在ればいい。この目がガラス玉のように何も捉えていないかのように見えてもいい。この肉體をとおしていろんな感覚を味わってきたし今を味わっている。何かを学び、経験するため生きていることを喜ぶため。幸せとは何か、を探して見つけるため。ときには不幸(だと思えること)を経験し幸せとは何かを知る。そうしてひとりの人間を超えた先の壮大な世界や宇宙の仕組みを知ることになる。この現実世界にあるものはすべて自分の手(思考)が創造した仮想空間だ。ひとりの人間が一生をとおして愛や喜びや幸福とは何かを知るために自分のためだけに用意された世界である。自分だけが自分のことを「不幸」にも「幸福」にもできる。他人がどう言おうとも自分がどんな存在になるかは自分にかかっている。言い訳をしないですべての責任を自分で負うことができるなら。
すべてを「許す」という学びをやってみたと前回書いた。それからは、いろんな「許していない事柄」がでてきてそのたびに「あ、これは許してないことだ。許そう」と心の中でつぶやき、許すようにしている。そうして、曇った心の中が少しスッキリするのだ。今日も許していないことがあった。それは……「キラキラネーム」というやつだ。いっとき取り上げられた「キラキラネーム」がネットサーフィン中にぱっと飛び込んできた。どんな名前があるのかはネットにさんざん書いてあるのでここでは割愛するけれど羅列されている数々の「キラキラネーム」の一部に「なんとバカげた名前を子どもにつける親がこんなにもいるんだ!」と思った。だけど、そのとき賢者モードのゆうや君がでてきて言った。「どこの誰かも知らない人間が、その子どもにバカみたいな名前をつけることとゆうや君との間になにか関係があるの?」と。たしかにそれもそうだ。誰がどんな名前を考えだそうと自由だ。どこかの親が自分の子どもを所有物みたいに扱おうがぼくの知ったことではない。その子どもが将来、学校でいじめの標的になりそうな名前を親からつけられようが、それが嫌で改名しようが、自由だ。「こんな名前だったら将来、絶対いじめられる」なんて誰にも分らないのだし。それにネットに登場するその「キラキラネーム」がそもそも実在するのかどうかも分からない。それを、さも存在するかのように考えて自分の価値観と照らし合わせて「ありえない」と批判的な目を向けている。名前が平凡でも幸せな人もいるし不幸な人もいる。「キラキラネーム」を親からつけられて「かわいそう」かどうかなんて他人が判断できることではないだろうと思う。そこまで思い至ったとき、許そうと思えた。そうしてまたひとつ楽になった。実際に会ったこともない誰かが誰かと不倫してたとしてそれがあなたと何の関係があるの?そんなに腹がたつことなの?誰かが簡単に責められる今の風潮をみてまた許しの学びができそうなポイントが見つかった気がしている。to be continued......
みなさまにおかれましてはごきげん麗しく存じ奉ります。「なりたい自分の姿になる」と宣言することを「アファメーション」とかいうらしいけれどそんなことはどうでもいい。アファメーションの定義が間違っていようがそれも今のぼくにとってどうでもいい。ぼくが重要だと思っているのは今日1日は「許す日」「許せる自分」になると決めたことだ。とにかく目に映るものを許すことにした。4時間前。朝の玄関で雨の日用の、少し履きづらいデニム調のデザイン靴を苦労して履いた。サイズはあっているのに固い生地のせいで履きづらい。やっと靴を履き終えたとき忘れものに気づいて一瞬靴のままで部屋に取りに戻ろうかと考えたけれどいやいやここは日本で日本家屋のよくあるアパートの一室で100パーセント室内では靴を脱ぐ生活をしている。そういうわけで履きづらいその靴は脱ぐのも脱ぎづらく忘れものをとって再び履きづらい靴の履きづらさを味わい「もうっ!」っと怒った。玄関は相変わらずしーんとしていた。地下鉄までの道を少しイライラしながら天気が雨でなければこの通気性の良くない上履きづらい靴を履かなくてすんだのに。イライラする感情を靴のせいにして歩いていたとき賢者モードのゆうや君が出てきてそして言った。「何もかも自分の思いどおりにいってるのに、何をそんなにイライラしているの?」そう言われて、はっとした。誰かに自分のやりかたを批判されたわけでもない。誰かに自分の行動をコントロールされたわけでもない。何かに自分の貴重な時間を奪われたわけでもない。理不尽なルールを強いられたわけでもない。ぜんぶ自分で決めてたったひとりでの自由行動だったのにその結果にイライラしていた。腹が立つときというのは自分の中で決めた勝手な「基準」や「ルール」にとらわれているときだ。それらを他人に押しつけて他人がそれに従わなければ怒る。または自分にあてはめてそれに反した行動をした自分に怒る。「許していない」存在があるという態度だ。そのことに気づいてだから今日はすべてを許すと決めた。以前から履きにくかったこの靴にイライラをやつあたりした自分を許した。雨の天気も許したし本当は自動車で仕事場まで行きたかったけど時間の都合上地下鉄を使うことになった経緯も許した。地下鉄の中で向かいに座るおじさんが足を組んでいてその足の靴裏がまんまと横に座る女性の方に向いていてだらしなく見えたことも許した。地方ラジオ局のDJの滑舌があまり良くなかったことも「良くない」と思った自分のことも許した。新しい雨の日用の靴を買いに行こうと決めた自分を許した。新しい靴を買わなくても靴屋で品定めして買わずに帰る選択があることも自分に許した。他人のことも自分のこともとにかくぜんぶ許そうと決めた。「どうしても許せない」と思うことがあることも許そうと思った。それは、許した先にあるものを知っているからだ。許すことができたときはじめて癒しがおこる。アルツハイマーという症状がもっとも緩やかにその人の次元上昇をうながすと言われているように「許す」というのは道徳的行為というよりも自己融解をうながすような気がしている。そうして他人がすることなんていちいち気にしなくなって自分がいつも許されているという気がしてくる。そのとき「許しの物語」が人生の中で進みだす。すべてを許し「すべてオーケー」となったとき自分が見ている世界がまったく変わることを知っている。
みなさまにおかれましては、ごきげん麗しく存じたてまつります。ぼくは明日から、仕事に復帰する予定です。巷では、「第2派がどうたら・・・・・・」という話題もちょいちょい耳にして、復帰したと思ったら、また自粛ということもあるかもしれません。まぁ、この人生、そういう展開も悪くないとは思います。さて明日の仕事は、普段60分のクラスで稼働しているのですが、しばらくは30分に短縮されます。その分、報酬も半分になってしまうのですが、それでもぼくを起用してくれるのはありがたいです。クライアントさんにとっても、ゆるやかな復帰になるのではないかな、と前向きにとらえましょうかね。ぼく自身もここ数か月は、トレーニングもほとんど休んでのんびり(ダラダラ)していましたから、からだがちゃんと動くのかちょっと心配(笑)だって先週は、久しぶりにお世話になっているヨガスタジオのクラスに参加して、プランクポーズで腕がすぐにプルプル~となり、なんとも情けなく思いましたから。人前に出るのも久しぶりで、けっこうプレッシャーです。自粛期間中は、普段は控えていたニンニクを毎日のように食べました。外出はマスク着用だから、口ひげも鼻毛も伸ばしまくり、顔面が無法地帯。そんな暮らしをしていた男が、いきなり人の前で、カチッとポーズを決めて、エネルギー全開にする・・・・・。誰がそんなことできるの?という感じです。しかしまぁ、孤独だけが唯一の友だちだったので、誰かと話す機会があるのは嬉しいです。せいぜい今から、以前の俊敏性と肉體の感性を取り戻すのみ。人前に出て何か喋ったり、表現する人にはわかると思うんですが、人前にでているときだけが仕事ではないとぼくは思います。仕事の時間以外の、たとえば日常で、どういう振る舞いをしてどんな生活をしているかが、自分の雰囲気として如実に表れるものです。それが「波動」というものになって、必ず相手にも伝わってしまいます。敏感な人でなくても、「相手の機嫌が表情で読み取れる」というのと同じこと。同じ空間にいる人に、自分の波動が伝播すると考えたら、やっぱり自分が心地よくありたいと思いますよね。ですから、「家に帰るまでが遠足」の法則ではないですが、「プライベートな時間も、仕事に影響する」という概念をぼくはもつようにしています。今をどんな気持ちで過ごすかが、明日からの仕事に影響してくるって考えるようにしているのです。そうそう。専門学校で演技のクラスに参加していたとき、教わっていた役者の先生がこんなことを言ったんです。「家でポテトチップス食って、テレビ見ながら寝転んでる奴の芝居なんて、誰が見たいと思う?」と。役者は演技をしているときだけが仕事ではなく、私生活のすべてが観客に伝わってしまう。役者はからだすべてが商品。だらけた生活態度も思考も演技に滲んでくる。だから日ごろから、鍛錬を欠かさず、品位を保つように、とのこと。劇団を主宰するその役者さんの言葉に、芝居の厳しさを知りました。今ぼくは役者ではないですが、このことを思い出すたび、生活の質を保つことは大事だな、と背筋を伸ばしたくなります。人間、自分にはどうしても甘くなってしまうものですけれどもね。反省、反省。みなさまにおかれましては、ご陽気にお過ごしくださいませ。敬具。
多くの男子たちは、家庭科の授業で裁縫の授業をしたあと、おそらく二度と裁縫道具に触れる機会がなくなる。今はどうか知らないけど、ぼくが小学生のときは生徒一人につき、ひとつの「お裁縫セット」を買ったと思う。そして中学にあがる頃には、それに触れることはもう二度ないだろうと、物置の奥にしまわれる。ぼくも、「お裁縫箱」を開ける機会なんて、人生で二度とないと思っていた。ところが、専門学校に入ると、クラシックバレエのクラスがあり、バレエシューズが必要だった。そして、バレエシューズはゴムで縫い付けなくてはいけない箇所がある。不器用な手で、バレエシューズにゴムを縫い付けた。それから専門を卒業してしばらく、バレエ教室に入門し、新しいバレエシューズが必要になりまた裁縫が必要になった。「めんどうくさいな」と思いながら、またバレエシューズを縫い付けた。新しいバレエシューズを購入するたび、裁縫が必要になる。ぼくは不器用だし、手が痛くなるしで、この作業がいやだった。30歳にして、初めて一人暮らしをすることになり、それまでぼくは母の裁縫箱から道具を使っていたのだけど、「もうひとつ、裁縫セット持ってないの?」と母に聞くと、母は物置から何かを取り出してきた。小学生のときにぼくが学校教材として買ってもらった、あの裁縫箱だった。ぼくは、母がまだぼくの裁縫箱を保管していたのにも驚いたし、自分の裁縫箱があったことすら忘れていた。「ソニック」という子ども向けのキャラクターがデザインされたその裁縫箱。その道具ひとつひとつに、ひらがなでぼくの名前が書いてあった。学校で道具を失くさないようにと、母が書いてくれていた。それを一人暮らしのアパートに持っていって、そこで改めてその裁縫箱をみて、ぼくはじーん、となった。ふでばこも、鉛筆も、お道具箱も、色鉛筆も、絵の具も、給食袋も、みんな同じように母がぼくの名前を書いてくれていたことを思い出し、またじーん、となった。裁縫箱以外のお道具たちは、小学校を卒業すると同時に、ぼくの手から離れていって、また粒子に戻ったはずである。そんな中、時を超えた今でも、裁縫箱はずっと目覚める機会を待ってくれていた。小さかった頃のぼくの思い出とともに、箱の中の道具たちは、ずっと待っていた。断捨離、という言葉に影響され、モノをたくさん所有する生活から遠ざかって何年も経つけれど、ぼくの手を通り抜けたモノたちに、ぼくを成長させてくれたモノたちに、そして無限の愛をくれた母に、このときほど感謝したことはなかった。必要ない、と捨てていたかもしれない自分の裁縫箱を母がずっととっておいてくれたのはすごく嬉しかった。このときから、ぼくは、自分の裁縫箱をちょくちょく開く機会を手にしている。バレエシューズはもちろん、自分が着る舞台衣装の手直しが必要なときも、恐れることはなくなった。靴下の先っちょが破れると、かならず針をとおして、また履くようにしている。ブックカバーなんかも、手縫いするようになった。自分用にも作ったし、友人にも贈ったこともある。最近では、リビングチェアのひじ掛けが、飼っていた子ネコに食いちぎられた箇所があり、それも縫合した。いつのまにか、針を使うことを「めんどうくさい」とは感じなくなっていた。それより、もっと今あるモノたちを大事にし、語り掛けようと思っている。そして、粒子に戻っていったかつての同胞たちに、たまに思いを馳せている。男子たちよ。今はまだ分からないかもしれないけれど、家庭科の授業は、将来きっと何かの役にたつよ。針と糸を扱えるのは、本当に素晴らしいことだし、君が手にしているすべての道具は、君を成長させることだけのために、君のもとへやってきた仲間なんだ。だから、大事にあつかってあげよう。大人になってから、それらを見返したとき、自分を愛してくれていた人の存在に心震える日が来るのだよ。
みなさまにおかれましては、ごきげんよろしくお過ごしでしょうか?きょうの大阪の天気は、快晴です。午前中からベッドシーツを洗濯しました。今は夕方の5時。ちょっと気分を変えたくて、近所のチェーン店のカフェを訪れました。席についてまもなく……気分が落ち着かなくなった(笑)いつも来ているおなじみの店。お店は空いているし、静かな環境なのに。気分を変えたくて来たはずなのに。あれっ?て思ったんですよ。それで自分の中で何が起きたのか、探ってみることにしました。(『探ってみる』なんて、じつに大げさな言い方だけど)以下は頭の中での“自己対話リアリティショー”です(一部、演出しています)↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓「やぁ、気分はどう?」「カフェに来てみたんだけど、なんだかあまり気分が乗らないんだ」「ふーん。君は、“気分が乗っていない自分”を認めてる?」「は?認めるって、なにそれ!w うーん、そういえば、最初に席についたとき、『時間は有限なんだから、急いで作業しよう』とか思って、すぐにPCを起動した。そしたら、キーボードを打つ手が進まなくなった」「何かをやろうとして、今そこに座っているの?」「うんとね。ここに来た本当の目的は、のんびり過ごしたかったからだと思う。何かを急いでやる必要なんて、最初からなかったのね」「その席じゃないと、のんびりできないの?」「そういうわけでもないみたい。机といすとコーヒーがあれば、どこでも事足りたね」「君が、カフェにいることで得られることって何なのかな?」「他人が同じ空間にいるのを感じられる。お店の人がコーヒーを淹れてくれるのを感じられる」「それを感じたらどういう気分になるの?」「心地よくなる」「それをやったら心地よくなることを知っている君が、“それをやること以上に重要なこと”なんてあるのかな」「ほんと、それな」「急いでやろう」というのは、多分ぼくの心のクセなんだろう。それが何かのきっかけで出てきた。ただ文章を打つだけなのに、(別に〆切があるわけでもないのに) なぜか「急いでやろう」とか考えた結果、何を急ぐのかを、自分の頭が処理できず、思考停止しました(笑)6月から、仕事に復帰する予定です。もしかしたら、それで今から「心の準備」をしているのかもしれません。戦闘モード、というのか。いや、まったく戦いとは無縁の職業ではあるけれども、何かのモードチェンジが起こったようです。そういうわけで、のんびりする期間もあとわずかになりそうです。
緊急事態宣言が解除となり、街には少しずつ活気が戻ってきています。いや、正直にいうと、実際に見たわけではないので、それは本当なのかどうか分からないのだけれど。この数か月間は、自分と「自分以外のもの」とで、あまり距離をとって生活してきたので、自分の住む街や人々に、関心が向きづらくなっているのかも……。またはそれが、もともとの自分の性質だったのかも(笑)以前から他人に興味がなく、無関心な態度であることが表面化しただけかもしれません。(文字にしてみると、ちょっと寂しく感じます)いわゆる「あぶり出し」というやつですね。でも、この数か月で、そういう隠れていた「自分の性質」があぶり出されたという人も多いのではないでしょうか?自分のことは分からなくても、他人のふるまいを見て気づく人もいるのでは?ある人は、自分の中にある「正義」に気づいて、自粛警察(いらんことしぃ)になったでしょう。ある人は、混乱の世を嘆いて、それはすべて国の所為、政治家の所為と、主張したでしょう。ある人は、いくら「恐慌の時代が来る」、「○○な脅威が今後の世界を覆う」、等といわれようが、ニコニコ暮らしていたでしょう。この時勢ですから「不安になれる材料」なんて、数えたらきりがないですよね。それをどのように料理するかは個人の自由です。不安という材料を使って、そこから「がんばる」動機づけにしてもいいし、他人の不安な気持ちを利用して、ウソや騙しをやって金を稼ぐチャンスにしてもいい(そんなことは望んでいませんが)他人も自分と同じように不安であることを感じ取り、勇気づける言葉を言ったり、書きつづったりする人もいます。またはただ、自分を見つめる機会にする人も。善悪の基準は抜きにして、“どのようにとらえてもいい”自由があると思うのです。他人のふるまいを見て、自分はどう感じるのか、自分ならどんな行動をとるのか、またはとらないか。そうやって、「自分らしさ」を彩っていくゲームが、この人生なのではないでしょうか?
この現実世界は、自分が思い込んだ通りに展開している。もともと決まった「世界」があるのではなく、みんなが「ひとつの世界」を見ているのでもない。もし、世界と自分との関係を変えたいのなら、自分の中にあるプログラムを変えればいい。たくさんの人がそのことを知っていて、それを教授したりしながらお金を稼いでいる。一方で、理不尽な扱いを受けながら生活する人や、危険な地域に暮らし、命がけの毎日を送る人もいる。それらは、観測者であるゆうや君が創り出したものだ。ゆうや君が他人を見たときにどういう反応をするか、その反応の種類を増やすために目の前の現実が展開する。どうしてそれをさせるのか。それは自分の望みを知り、自分の完成を目指すためだからだ。目の前で起きたことに、ネガティブな反応が生まれたら、そこから「自分の望み」を知ることができるのは、もう多くの人々が気づいている。それ以前の多くの人々は、ネガティブに感じることが起きたとき、そこに没頭して感情のままに動いてきた。しかし今、そのひとつの潮流が終わろうとしている。ずっと昔から存在したヨーガの達人のように、生きながら悟り、それでもまだ地上に留まる生きかたを、これから多くの人が実践していく時代になる。「世界はどんどん良くなっていく」という人が見据えている未来とは、今の人々から見たら神業か摩訶不思議に思えることが実際に展開する。でもそれは、その時代にはすでにスタンダードなのだ。みんながそれを体験するときがくる。それを信じることができれば、の話だけど。ただ今の時点では、これからやってくる出来事に没頭する人々がたくさん出てくるだろう。これまで通りの生き方を望む人々にとっては苦痛であり、失望の時代に見えると思う。誰ひとりとして(すべて)同じ視点から世界をとらえる人などいない。誰かの主張は、他の誰かにとっては「(根拠がなく)役に立たないもの」であり、「不正解」であり、「正確性を欠いた意見」であり、「狂気じみた発想」である。そんな否定的な感想や批判にさらされたとしても、何ら不思議はない。ここにいるゆうや君は、そう思っている。なぜならそういうふうに「プログラム」したからだ。(多様な世界であることをプログラムした)それでもここに表現することにためらいはない。いち観測者として、この世界をとらえたことをここに残しておきたい。他人がどう思おうが、どんな評価をしていようが、それを軸に行動するのはもうやめにして、ただ思い込んだ唯一のこの世界を遊ぶといい。それに飽きたら、このプログラムに変化を加えて、また遊べばいい。PlayStation 4 ジェット・ブラック 500GB (CUH-2200AB01)Amazon(アマゾン)36,736〜75,088円
こちら大阪府でも、緊急事態宣言が解除となっております。相変わらず仕事はまだ休業中なので、基本的には自宅から10キロ圏内しか移動しない日々です。ニュースもほとんど見ませんから、他の地域がどうなっているのかは、少し気になったりします。さて最近はネットフリックスもゲームも、すこし飽きてきたなぁと思い始めました。個人的には、こういうときは目の前が新しい景色に変わってくる「変化の時期」だと捉えています。これまでの習慣、日常のペースに飽き始めて、外側に新しい刺激を求める時期が、絶好のタイミングかもしれません。人は誰でも、心のどこかで「変わりたい」という欲求を持っているものだと思います。2012年、20代前半だったぼくは、4か月の間ニートを体験しました。その時期、社会との関わりが閉ざされたようで、苦しく感じていました。実家に暮らしていて、心配した母親がぼくに新しい仕事を持ってきたこともありました(笑)(でもぼくは何か違う……、とか思って断ったのですが)そんな社会や他人との関わりをもっていなかった時期も、心の中では「誰か新しい人と出会ったり、とにかく何かを始めたい」と焦っていたように思います。そして、とりあえずアルバイトを始めたり、デートアプリに登録し始めたりしました。夜の公園を走ったりもしました。わずかな失業保険を手にして、夜の梅田の街に行き、バーでお酒を飲んだりしました。そうして少しずつ日常に変化を加えていって、今の仕事に辿りつきました。それでもまだ暇を持て余していたので、空いた時間に図書館で「仏教」の勉強を始めました。それも、たまたま。それまであらゆる宗教と無縁な生活でしたが、たまたま手に取った仏教の本がとても興味深く、もっと勉強しようと毎週一回は図書館で勉強するようになったのです。あとになってから、あのとき仏教に触れたことが今の仕事に大きく役立ったので本当に不思議な巡りあわせだったと、今でも思います。この数か月の自粛期間と、2012年のニートだった時期と、ぼくの状況は似ています。仕事もせず、社会や他人とも距離を置いて過ごしていますから。しかし一度経験したことなので、あの頃よりも気持ちは穏やかです。「ここからいくらでも未来を切り拓いていける」という「根拠のない自信」があるのです(笑)だから焦ることがほとんどないのだと思います。東日本大震災の翌年の2012年、日本は「自粛ムード」という暗い世相だったと記憶しています。海外からも三度目の被爆国として「終わった国」というレッテルを張られていたのはないでしょうか。日本全体がそういう状態でも、ぼく個人はその中から希望を見出して「変わりたい」という願望を叶えることができました。ニートだった時期に「人と関わり、自分が好きなことで人の役に立てる仕事がしたい。たくさん働きたい」と願っていたのです。いろんな偶然が重なって、後にそれがすべて叶うなんて想像もできませんでした。若きニートだった青年が、週7日休みなく働いて、それでも幸福感に包まれるようになるなんて、一番自分が信じられなかったんですから。でも、ぼくが今日いちばん言いたいことは、そのことではなくて。今いちばんお伝えしたいのは自分の中から「変わりたい」という内なる声を聴いたら、まずはそれをキャッチすることが大事だということです。いくら他の人が「今日は○○座の満月だから、今日からこれこれの新しい習慣を取り入れましょう」とか「アフターコロナはこうなるから、これこれをしましょう」とか「世界情勢はこれからこういう変化をしていきますから、こうなっていきます」などと言っていても、自分が変わるタイミングでなければ、変わらなくてもいいと個人的には思います。もちろん他の人の言うことにピン!ときたり、心がカっ!と熱くなるようなら、それはベストタイミングですが。今は情報が溢れすぎているので、「ピン!」とか「カっ!」のセンサーが弱い場合もあります。それでも今すぐどうにかしなければならない!という切羽詰まった状況を除いては、「変わりたい」と思った時がタイミングだと思うのです。いくらダラダラしてようと、「意識高い系」な周囲と比べて、自分が劣っているように見えたとしても、焦る必要はないと思うのです。なぜなら、必ずどこかのタイミングで純粋な「変わりたい」に気づくときが訪れるからです。そしたら、すこしずつ変わるための行動をすればいいと思います。それまでは外に出て移りゆく景色を眺めたり、絵を描いたり、日記を書いたりしながら焦らずいきましょう。
数か月前から、肌に吹き出物が出始めて、アラサー男子を悩ませている。おもに、額と、頬。赤みこそ少ないけれど、触るとざらっとする。30代を過ぎると、にきびや吹き出物などの皮膚症状は落ち着いてくるというのを聞いたことがある。それでもなかなか日々、新しいポツポツが生まれては去っていく。洗顔料を見直してみたり、毎朝の洗面所のタオルを清潔な新しいものに取り換えたりするものの、その効果は一朝一夕。それもそのはずだ。肌とは本来、排出器官なのだ――。外からの刺激で肌荒れしたり、外側から肌にアプローチすることなんて、たかが知れている。ある美容クリニックの院長の言葉に、ハっとした。「肌の手入れに時間をかける人がいます。高価な化粧品や乳液などを使いたがりますが、肌にとっては困りもの。なぜなら、肌は吸収するのではなく、排出するのが仕事だからです。肛門と同じような扱いでいいのです」なるほど。肛門を基準にしてみると、顔面の肌はかなり優遇されている。洗顔料にはじまり化粧水、乳液、美容液。しかし肛門とは違って、日々紫外線などと応対したり、お化粧を施す人もいるから、一応のケアは必要なのだろう。化粧もしない肌裸族にとって必要なのは、せいぜい保湿だ。それもワセリン程度でいい。そして肌に疾患があるというのなら、そもそも取り入れる食べ物に解決策があることが多いのでは?食習慣というものが、その人の今を現わしている。ここ数ヶ月、何をどのくらい食べたか?何を食べてこなかったか?前置きが長くなったけれども、そういう事情があって、いろいろ試行錯誤する中で「糖質制限」と「グルテンフリー生活」を取り入れることにした。数年前は、ベジタリアンを実践していた時期があって、そのときにグルテンフリーもためしたことがあった。自分のからだには合っていたようで、いろんな良い変化があった。そのときは、もともと体脂肪が少ないほうだったので、食事法を変えた当初は筋肉量も落ちたのか、ガリガリになった。そのあと、より身軽になったのと、集中力や記憶力がかなり上がったことを覚えている。ダンスの振付けを覚えるのがすごく早くなったのだ。そのときの肌状態はといえば、水分をよくとっていたのと、良質の油だけをとる生活のおかげか、いつもつるつるしていた。それから白米を食べるのをやめ、酵素玄米に変えた。自家製ヨーグルトを生成した。天然酵母も培養した。にんじんとほうれん草を自家栽培し、野菜スムージーを作った。食品添加物の量に文句を言いながら、スーパーを巡っていた。なぜ、そういう生活を辞めたかというと、一番の理由はやはりカレー屋で食べるチーズナンが恋しかったからだ。喫茶店で食べるバタートーストを心底愛したからだ。「週に一度なら小麦製品を食べてもいいだろう」と考えて、グルテンフリー生活をゆるめていき、気づけば小麦との「熱愛関係」は再び勢いを増した。決して小麦製品を悪くいうつもりはない。すべてはただ、自分の選択だったのだ。精製加工食品は何も悪くない。ただ、それらを愛しながらも遠ざけた「ひとりの男」がいただけだ。「糖質制限」には賛否両論あるけれど、食生活を見直すきっかけとして、こういう方法は有効だと思う。米もパンも好きだからこそ、それらを短期間でも断つことで、ずっと好きでいられる。自分のことももっと好きになれるだろう。家族や周りの人間から理解を得られず、ひとりぼっちになったとしても、すべて自己責任だという覚悟があればいい。(ストイックに突き進んだ結果、セックスフレンドに去られても、良い経験だったと思える日がくる)食生活と宗教と野球の話題は、注意が必要だ。人の数だけ嗜好が異なるからだ。だけど自分の健康は、自分で追求していく面白さがある。自分を人体実験材料として記録する可笑しさがある。果たしてどの食材が、今の自分に真に合っているのか?どういう食生活なら、自分が快適なのか?好きなものは我慢しないで食べることは素晴らしいと思う。「熱愛関係」に足を洗って、新たな道を築くのもまた素晴らしい。毎日の食事にどれだけ注意をはらうか、それは生き方をあらわしている。よみがえれ、肌。ありがとう、肌。
興味があって、映画広告について調べていましたら、「感動する映画になる3要素」という記事が目にとまりました。感動する作品になりやすいのは、①何をやってもダメダメな主人公が、②どうしても叶えたい目標や理想を見つけ、③数々の障害や挫折を経て、達成する。という3つの要素があるそうです。(本当にぼんやりとしか見てないので、違ってたら失礼)劇場に足を運んで、映画を観に行くということはほとんどしなくなりましたが、このような感動に導く手法というのは、今でも形を変えて使われているのではないでしょうか?もちろん製作者の巧みな技術によって観客には気づかれにくい仕掛けになっているとは思います。こういうことばっかり考えて映画を観るのは、しらけてしまうのかもしれませんが。個人のブログなんかでも、この「感動につながる3要素」を意識して書かれたら、面白いのではと思います。たとえば、①夫と二人の子どもをもつ母親(50代)が、平凡な日常に退屈していて②ダイエット目的で始めたバレエ教室にドはまりする姿をブログに書き、③家族にからかわれたりしながら、発表会でバレエを踊り、みんなが号泣する。(こういうテレビドラマが以前ありましたね)架空のブログと、「感動の3要素」を組み合わせてみました。ブログタイトルは「モーレツ平凡主婦のバレエ奮闘記ブログ」(すでに存在していたら、すみません。勉強不足です)専業主婦である女性のこのブログの初期は、ご主人のお弁当とか、毎日の献立などの写真がアップされています。(こんなに家族のために働いても、その大変さを誰もわかってくれない)ある日、買い物の途中に見かけたクラシックバレエ教室の稽古場が気になった主婦は、ショーウィンドウに映る自分の姿に愕然とする。独身時代の華奢だった姿は見る影もない。明らかに体型が変わっていた。そのことをブログ記事に書いた翌週、さんざん迷って街で見かけたバレエ教室が主催する「おとなから始めるバレエ」のクラスに足を踏み入れる。家族にバカにされたり、家事とおけいこ、めまぐるしい日々に忙殺される日常。レオタードを買いにいったが、きつくて着れない。バレエ仲間との出会い。徐々に痩せて美しくなっていく主婦。おけいこに理解を示さない夫。家計簿とにらめっこ。愛犬の死。バレエに憧れた幼少期の思い出。子どもたちの受験。主婦として、母親として、女として「葛藤」——。すべてを発表会の日に賭けて、猛練習。バレエ仲間のケガによる欠場。ブログの読者からの「いい歳して……」「見てるほうが恥ずかしい」などと心ないコメント。そうして迎えた発表会本番。「女性はいくつになっても輝けるもの!」バレエの先生の言葉に、思わず目頭が熱くなる。こうしてただの平凡だった主婦は、発表会で、最高に輝く自分の姿を見つけた。これはもちろんフィクションでありますが、こういうブログがあったら個人的には楽しんで拝見すると思います(笑)俯瞰したときにいったん自分をできるだけ低めてから「最高に輝く自分」に至るストーリーに仕立てあげるのが、多くのジャンルで感動しやすいのかなぁと思います。(実体験や感情を文字にするという表現技術も必要なのは、前提として)まあこんな感じで、「自分の実体験をいかに面白く文章にするにはどうしたらいいかな?」なんて考えていましたら、こういうアイデアが思いつきました。まぁ、自己満足なんですけどもね。
その昔、ひとりの青年が子どもだった頃。「魂なんて存在しないし、この肉体だけがすべて。物質的な豊かさこそが、唯一の幸せ」彼のまわりの大人たちは言った。「そうやって、経済を回してきたから、今のような豊かさがあるんだよ、この国は」それが常識なんだ、と。大人になった青年は、ある日ふと思った。「常識?じゃあ、これが『豊か』になる唯一の方法だったのか?本当に?」ほんとうにみんなが豊かになったのか?幸せなのか?、と。学校でたくさん勉強して、「いい会社」に入って、出世を目指して一生懸命がんばって、結婚して、マイホームを建てて、楽な暮らしをする。これが「理想的な生き方」で「お手本」だった。一方で、莫大な財産を手にして、働かなくてもお金が入ってくる、もともと裕福な人たちがいた。彼らが裕福なのは、上記のような「理想的な生き方」「お手本」を実践した人々がいたからだ。「俺たちのために、もっと働いて『経済回せ』よ。何も考えず、娯楽に興じて、辛いことは忘れてろ。派手なアクション映画でも見て、ずっとおバカでいてほしいんだよ。病気になったら、病院に行って『経済回せ』よ。税金払って『経済回せ』よ」と、彼らは思っていた。そして、すべてのコントロール・マトリックスが構築された。*コントロール・マトリックス=政治、経済、法律、宗教、医療、教育、エネルギー政策などを通して、人間の意識、感情を心理的にコントロールすること。「それが嫌なら、死ねば?だけど、死んだら終わりだよ?だって魂なんてないし、お前はずっと無力なままなんだから。絶対に報われない。地獄に落ちるよ?幸せになんかなれないよ?どうする?」青年は思った。「魂なんて存在しないし、この肉体だけがすべて。……だったら何故、人々はお墓参りをするのだろう?『霊を見た』と言う人がいたり、見えない世界のことを話す人間がいるのだろう?」青年はこれまでの過去を必死に思い出そうとしていた。誰かが『幸せ』について、本当のことを話していなかったか。幸せとは何か、を自分に説いていた人がいなかったか。そしてこれまで、何を刷り込まれ、どんな行動をしてきたか。これは、そういう世界を眺めているあなたの物語。どんな選択をするかで、物語の結末は変わっていく。より望むほうを選択する。正解も間違いもない。ひとつの絵を描くにしても、小説や映画のシナリオを書くにしても、すべては一枚の白い紙から始まる。紙の上で、どのような世界が展開してもいい。紙の外側で、作者(創造者)が思考し、手を加えるなら、物語は進んでいく。スピリチュアル・リーダーを登場させてもいい。世界を疫病の混乱に陥れてもいい。そうして景色は変わり続ける。作者が世界を構築するのが役目なら、紙の上にいるわたしたちは、感情をつかって世界を味わう役目がある。あなたの感じたことが、あなたの行動を選択する。これは、あなたのための物語。
ごきげんよう!お子さんのいらっしゃるご家庭では、今回出てきたワード「自粛警察」をどのようにお子さんに説明したら良いのでしょうか?手前みそですが、たいへん上手い説明の仕方を思いつきましたのでシェアさせていただきます。「ママ、自粛警察ってなあに?」「うん?『いらんことしぃ』の人のことだよ」関西では、①頼んでもないのに、勝手に手伝ってくる人②たいした能力もないくせに、有能ぶった挙句に失敗する人これらを総称して「いらんことしぃ」と呼びます。注)いらん=要らん「要らないことをする人」「あんた、ほんまにいらんことしぃやな」「いらんこと言いな!」「そんなん、いらんねん」「いらんかったら、ほかして(捨てて)」など、「いらん」は不要であるという意味です。「いらんことしぃ」には、対象となる人物が無能であると批判すると同時に、ちょっとだけ愛情をこめた言いかたに なるのです。ですから、自粛警察よりも、やや穏やかなニュアンスになるかと思います。その他、ポイントがズレたことをする人を揶揄する言葉「ズッコケ政治」「おとぼけ警部」など考えてみましたが、いまいちピンとこないのでテスト範囲から外れます。以上。
みなさま、ごきげんよろしくお過ごしでしょうか?ことし三月の中頃だったと思います。仕事先から、次の仕事現場まで歩いておりましたら、一人のスーツのイケメンから声をかけられました(マスクをしておられましたが、目元や頭蓋骨の形からイケメンだなと分かりました。ぼくの観察眼。)男性「アンケートよろしいでしょうか?」聞くと、「投資型不動産」の営業のかたのようでした。あんまり詳しく聞きませんでしたが、どうやらマンションの一室を購入して、その部屋を貸すことで家賃収入を得る仕組み。「へぇ、そんなのがあるんですねぇ」とわたくしも素直に男性のお話を聞いていました。いくつかの質問に答えました。たしか……年収は?とか、既婚or独身か?とか、生命保険に加入してる?みたいなの。そしてアンケートの最後のほうの質問に「老後に不安を感じていますか?」というのがありました。この時勢のこともあるでしょう。先の見えない将来に、多くの人が「はい」と答えたであろうその質問。「いいえ」と答えたぼくに、その営業の方は「え?」と小さく驚いた様子でした。それくらい「はい」という答えは定番なんだということが、彼のリアクションから判りました。男性「老後のこと不安じゃないですか?『2000万円足りない』とか言われているじゃないですか?」ぼく「ああ、そうですよねぇ。きついと思います。 でも現時点で、ぼくは『老後』ではないですからねぇ」男性「老後のために貯蓄されてるんですか?」ぼく「いや全然。この時勢ですから、今の仕事すら続けられるかわからないですよ。でもまぁ、独り身ですし、最悪のたれ死んだらいいかなぁって……ははは」男性「いや、ダメですよ(笑)」ぼく「ですよねぇ。でも明日死んでもいいと思って生きてますし、たとえ明日死ぬ運命なんだとしたら 『それが地球にとっては好都合だったのか』と諦められるような自分でいたいです。ああ、自分は淘汰されたんだなぁ、みたいな」などと、そのあとも能天気に答えていました。すると男性は「そういうことを言う方に初めてお会いしました」とすこし驚いた様子で言いました。「地球から淘汰される」というくだりが特に興味深かったようで。自分でも、まさかそんな言葉をいうなんて思っていなかったし、ましてや初対面のイケメン御仁に、そんなフワフワしたことを言って「こいつ頭だいじょうぶか?」等と思われる不名誉を被ったかもしれません。でも、その営業のかたとそのまま20分以上も立ち話が続きました。彼はルックスも良かったのですが、とても気さくな人物で、身の上話もしてくれました。「わたくしは前職は製造業だったんですが、先が知れていると思い、三か月前に今の会社に転職しました。奥さんと小さい子どももいて、転職して心機一転というときに今回のコロナで・・・・・・」通行人はみなが揃ってマスク姿。なかなか立ち止まって話を聞いてくれる人もおらず、そればかりか声をかけた途端「うるっさいんじゃっ!!」と怒鳴る輩もいたらしい。ぼくのようにごきげんに話してくれる人も珍しかったのだとか。「なかなか厳しいですねぇ。でもお互いどんな状況でも希望をもって頑張りましょうね!」と、最後はイケメンとおじさんが謎に決起して別れました。別れ際、すごく足取りが軽かったのを覚えています。生きていると、不思議なこともあるもんです。がんばろう、若者達。
みなさまにおかれましては、ごきげん麗しく存じたてまつります。今日の大阪は、とてもいい天気です。そしてとても過ごしやすい。わたくしは最近、家の中でトランクス一枚で過ごしています。そういうわけで今朝、洗濯ものを干すために、トランクス姿のままベランダにでました。でも普段はやらないことなので、何とも違和感……。向かいには、ファミリー向けのマンションもあり……。さすがにスウェットのズボンだけを慌てて履きました(笑)やはり、紳士としてのたしなみは忘れてはいけませんからね。ところでネットで調べておりましたら、皮膚というのも、いつも呼吸をしているのだそう。それはもちろん普段は服に覆われている部位もさします。覆うことによって、皮膚が弱まることもあるのだとか。それで「家の中でより健康的に過ごすにはどうするか?」ということを考えた結果、できるだけ窓を開けて、外気に肌をさらして生活することにしました。冬の間に大事にしまっていた肌を、衣替えするのです。ここで出てくるのは、「全裸」になるか「半裸」でいるか、という選択。より野性味を感じたく且つ、色気を高めたい人ならば、全裸になることでしょう。(裸で過ごすことについての効能?についてはネットをご覧ください)しかしご家族と同居の方なんかは突然、着ていた服をぜんぶ脱ぎだしたら、「あんた、気でも狂ったんか?」と言われます。わたくしは単身住まいですけれども、それでも全裸はちょっとハードルが高いです。家事などをするときは、男性器がブランブランして、ちょっとバランスがとりにくいですし。なので「半裸族」です。半裸もしくは全裸で過ごすメリットとしては、2つあります。①つ目は、やはり「解放感」が挙げられるかと思います。より自分が「生きもの」だと実感するには、とてもいい経験です。②つ目は、服を着たときの「ありがたみ」です。裸で何時間も過ごしたあと、服を着て散歩に行くと「ああ、洋服はこんなに自分を守ってくれているんだな」と感じます。そして心なしか歩行中に小汗をかいたりしているので、「代謝も上がっているのでは?」という気もします。汗をかきにくい体質なので、これは小さな喜びです。もちろんデメリットについてもネットでは述べられていますが、ここでは割愛します。すっぽんぽんになるかどうかは、自己責任において実践なさってください。より快適に、からだを締め付けるものをすべて脱ぎ捨てて過ごすことは、ストレス解消になるかもしれません。新しい「おうち習慣」に、ぜひ取り入れてみてはいかがでしょうか?
みなさん、こんばんは。いつもご覧いただいている方、いいね!を押してくださる方、本当にありがとうございます。今日は、あらためて心新たにしていきたいことがあり、ここに記すことにしました。先日深夜ラジオの番組でナイナイの岡村さんが不適切な発言をされたということで、岡村さんは翌週の番組内で、謝罪しておられました。番組の途中、相方である矢部浩之さんが登場されて矢部さんが岡村さんに「公開説教」するという形で、番組は進行していきました。はじめはいちリスナーとして、このラジオを聴いておりましたが、途中からまるで自分ごとように思えて、反省の気持ちが湧いてきました。特に矢部さんが「(岡村さんは、人と接することに)逃げ癖がついてる。コンプレックスがあるかもしらんけど。岡村さんの”根本”に問題がある」「50になるオッサンがそういう(配慮がない)ことも分かってへんのは、引く」と言っておられたことが、自分の生活にもあてはまるなぁと思いました。年齢を重ねると、怒られることも少なくなり、無意識のうちに周囲への配慮や思いやりに欠ける行動を取っていたかもしれません。また、岡村さんがラジオ番組内で不適切な発言をした後、お笑い養成所の恩師だった方に「(不安定な世情の中で)今は不安を感じている人に寄り添うべき」と叱咤されたことを語っておられました。それを聞いて自分はどうだったかなぁと考えさせられました。こうして文章を書くことひとつとっても、少なくとも不特定多数の方の目に触れる機会も十分ある中で、「読む人を不快にさせるような無神経なことを書いていなかったかな」と振り返る機会になりました。(物理的、精神的ともに)どの人とも距離を置いて生活している身ですから、自分中心で知らずしらず心無い言葉を使っていたり、傲慢になっていたり、特定の人を傷つけるような発言をしていたかもしれません。本当に矢部さんのお話される一言一言が、自分へのメッセージだったように思います。今後は、自分の言動や行動にももっと注意していきたい所存です。ぼくの文章を読んでくださる数少ない方が、ほんの少しでも心が和らいだり、明るくなってもらえるようにしたいなと思いました。距離を置いていても、”寄り添う方法”がきっとあると信じて、また気持ち新たに日々のことを綴って参ります。ありがとうございました。
みなさまにおかれましては、ごきげん麗しく存じたてまつります。最近は、とても暖かく(暑いくらい)なってきました。ぼくは、汗をかくのが苦手な体質なので、「一日一汗」を目標に過ごしております。ちょっとだけ厚着をするとか、できるだけお湯につかるとか、そのような程度なのですけれども。ですから、じっとしているだけで汗がふきでるこれからの時期は、個人的には好んでいます。夏場、一日に何度もTシャツを着替えるくらい汗かきの友人のことを、うらやましく思うのを通り越して、神々しく思ったものです。さて「ゆっくりとお湯につかる」というのは気持ち良いとは思うのですが、それまでのプロセスが少しだけ面倒に感じるのです。まずバスタブを洗って、お湯はり装置ボタンを押す。お湯はりが終わると「お風呂がわきました」と音楽つきで知らせてくれます。その音声の高らかなこと。隣家まで聞こえそうです。(いや絶対聞こえてるはずです。なぜなら、同じ音をお隣の部屋から聞こえたことがあるからです)そのあと、「今日は入浴剤を入れるか?」でちょっと考えます。→バブにするか、→レモングラスの入浴剤にするか、→食塩をいれるか。次に、 「風呂場に何を持ち込むか?」 でまた考えます。→スマホ→ワイヤレスイヤホン→小説→水分基本的に「一回湯をはったら30分以上はつからないともったいない」という概念があるため、お風呂で楽しむグッズ選びは慎重なのです。準備万端。いざ湯舟に入りまして、いい感じに頬が赤くなり、腕の内側から小汗がふきだしてきた頃、「トイレにいきたい……」と思うようになります。なんで湯につかる前に済ませておかなかったんだ、ゆうや君よ!とちょっと自分を責めます。しかし、濡れたからだを一度拭いて用を足し→また風呂場に戻ってくるという一連の動作、これが面倒くさい。かといって子どもの頃のように、風呂の排水溝に向かってピーピーするのは、サムライ紳士の精神に反する。というか汚いとか思ってしまう。結果、しぶしぶタオルでからだの水滴を少しだけ拭った「半ぬれ」の状態でトイレに入ることになるのです。余談ですが、すっぽんぽんで用を足すのって、野生に戻った感じがしますよね。セックスも裸でしますから、何かこう、「わたしは生き物なんだ」ということを思いださせてくれる瞬間かもしれません。加えて、とても無防備な瞬間。ああ、人間とは、なんと愛しい存在なのでしょうか。【大容量】 バブ 6つの香りお楽しみBOX 48錠 炭酸 入浴剤 詰め合わせ [医薬部外品]Amazon(アマゾン)1,640円
みなさま、ごきげんよろしくお過ごしでしょうか!最近Netflixを見ていると、「世の中には、たくさんの映画やドラマがあるなぁ」などと、あたりまえのことを思ってしまいました。そして、こんなにたくさん作品があるのに、どれを見ようかと考えている時間の長いこと長いこと。しかもタイトルとパッケージだけを眺めて結局、見ない(笑)そこで満足する、というかちょっと疲れてしまう•••。さて映画やドラマの脚本、小説、詩なども含めて《書く者》が創作の最初に向き合うのは、ノートの白いページ(あるいは白い画面)です。あたりまえだけどそこから全てが始まります。文章を重ねて、並べていくことで世界が回り出す。そのとき《書く者》は世界の創造者(神)になる。登場人物ひとりひとりを愛し、命を吹き込む神だ。神が思考し、ペンを走らせるまでは、世界は止まったまま。もしかしたらこのブログも、ひとりの人間が書いているように見えて実は、思考した神がそうさせているかもしれないのです。真っ白い紙の上で始まった物語の世界ではなく、現実世界にもそのような《書き手》=創造者がいるかもしれないのです。ぼくたちは、ただ《体験する者》=登場人物として存在しているだけかもしれません。このブログに登場するのは、ゆうや君という1人の青年で、彼の人生のほんの一部分を切り取って、記されています。ゆうや君個人として「幸せとは何か?」という問いに向き合う姿や、小さな葛藤や、あらゆる欲を自覚する様が描かれています。個人としての在り方、世界との関わり方をページを繰るごとに読者に明かされていきます。この画面を開いた読者が、何かしらの思いを抱いて(あるいは何も意識に残ることもなく)、その読者自身の物語を綴っていく。Netflixのように、そんな物語たちを集めた装置がどこかにあって、「ゆうや君の物語か、つまんなそうだね」なんて言いながら、リモコンを操作している《視聴者》がいるかもしれません。物語はどこから始まったのでしょうか?それは、ノートの白いページか、白い画面。そう想像してみると、心がすっと軽くなったように感じます。「なんだ、何もないところから始まったんじゃないか」その最初のページから、過去と現在と未来のすべてが描かれていったのです。