【真・日本史⑥】初代天皇「ニギハヤヒ」と第2代「神武天皇」・出雲と大和の国譲りの真相
『記紀』によると、紀元前660年、天照大神の5世孫の「イワレヒコ」が日向国から大和国に東征し、初代「神武天皇」として即位したことになっているが、アリオンによると、それは史実ではないという。
ここで少し話の舞台が変わるのだが、年代順に書いているのでご容赦願いたい。
前回も少し触れた【出雲の国譲り】である。
【西暦180年頃】
オオクニヌシ(20歳)、スサノオとクシナダ姫の末娘「スセリ姫」に婿入り。
スセリ姫との間に3人の子をもうけた。
長男「山代日子尊」
次男「木俣神」
三男「建御名方神(タケミナカタ)」
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【西暦185年頃】
スサノオ(63歳)、出雲国八雲村熊野で崩御。
オオクニヌシ(25歳)、出雲・日向連合国の王に即位し、日向国でスサノオとアマテラスの長女「タギリ姫」とも結婚。
タギリ姫との間に3人の子をもうけた。
長男「武角身命(タケツノミ)」
長女「下照姫(シモテルヒメ)」
次男「事代主命(コトシロヌシ)」
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【西暦215年】
オオクニヌシ(55歳)、日向国の西都原で崩御。
【出雲の国譲り神話】
意外なことに、あまり知らないという人が多いので、『記紀』に記される国譲り神話を超簡潔にまとめてみた。
主な登場人物は、前出の「アマテラス」と「オオクニヌシ」、オオクニヌシの子「タケミナカタ」と「コトシロヌシ」、そして新登場の「タケミカヅチ」である。
『高天原のアマテラスが地上を治めるべく、オオクニヌシに出雲の国を譲らせようと考え、「タケミカヅチ」を地上(出雲の国)に派遣した。
するとオオクニヌシは、2人の息子に判断を任せると言った。
息子の「コトシロヌシ」は素直に承諾したが、もう1人の息子の「タケミナカタ」は武力で対抗した。
だが、タケミナカタに勝ち目がなく諏訪(長野県)まで逃げた。
結果、オオクニヌシは国譲りを承諾したが、条件として、宮殿(出雲大社)を建てて自分(オオクニヌシ)を祀ることを求めた。』
以上が『記紀神話』の国譲りの概要だが、『出雲風土記』ではオオクニヌシは無条件で国譲りに合意している。
為政者が編纂した『記紀』と、出雲側が歴史を記録した『風土記』のどちらが信憑性があるかというと、『風土記』の方が信憑性は高いだろう。
この『出雲風土記』が事実だとすると、オオクニヌシは初めから国譲りを目的に、スサノオの出雲の娘に婿入りして出雲国を乗っ取ったとしか思えない。
だとしたら、やはりオオクニヌシのバックには、忌部氏(アマテラスの義弟たち)がいたはずだ。
【国譲りの真相】
だが、アリオンによると、国譲りの真相は「オオクニヌシの相続権争い」で、オオクニヌシの死後に発生した問題だという。
当時は「多夫多妻」が認められていたので、オオクニヌシが出雲と日向に妻子を持つことに問題はなかったが、オオクニヌシの死後、相続問題が発生した。
オオクニヌシの後継者として「出雲・日向連合国」の王になるのは、出雲の「タケミナカタ」か、日向の「コトシロヌシ」か……。
その頃、「コトシロヌシ」はまだ幼くて、5歳くらいだったらしい。
一方、出雲の正妻の子である「タケミナカタ」は成人し、スサノオ譲りの剛毅な性格で、周囲からも跡継ぎにふさわしいと思われていた。
タケミナカタの立場としては、日向に「国譲り」をするわけにはいかない。
そこで、日向国は独立する動きを見せ始めた。
幼いコトシロヌシを正統相続人として立て、アマテラスが代行政治を行うことになったのだ。
それが「邪馬台国の卑弥呼」である。
その翌年、日向国では、タカミムスビとアマテラスの孫「イワレヒコ(後の神武天皇)」が誕生した。
【西暦215年頃】
アマテラス(62歳)、コトシロヌシの代行で日向国の女王(邪馬台国の卑弥呼)となる。
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【西暦216年頃】
日向国でイワレヒコ(後の神武天皇)が誕生。
日向国の独立により、「出雲・日向連合国」は崩壊し、出雲国の国力は衰退していった。
その頃、大和では初代天皇「ニギヤハヒ」が崩御して、三輪山の磐座に埋葬された。
そして、ニギヤハヒの死の知らせを受けた日向国は、そのタイミングで出雲国に侵攻し、国譲りを迫ってきたのだ。
【西暦220年頃】
初代天皇ニギヤハヒ(69歳)が崩御。
日向国が出雲国に侵攻開始。
日向国が独立したことにより、出雲国は「タケミナカタ」が王として国を治めていた。
そこに日向の軍勢が攻め込んだのだが、その時の武将が「フツヌシ」と「タケミカヅチ」と「アメノコヤネ」だった。
この3人の名前は重要で、後にも登場するので覚えておいていただきたい。
フツヌシ(忌部氏の祖フトダマの子)
タケミカヅチ(中臣氏)
アメノコヤネ(中臣氏の祖)
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中臣氏(タケミタヅチ)も「ユダヤ教レビ族」で忌部氏と同族である。
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タカミムスビの弟の子のフトダマの子が「フツヌシ」だが、もう1人の弟の子が「アメノコヤネ」である。
アリオンが「アマテラスの義弟たち」とか「真の闇帝王」と呼んでいるのは、彼らのことなのだ。
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「フツ」といえばスサノオ(フツシ)の父の名前だが、フツヌシは全くの別人である。
フツヌシの本名は「天日鷲神(アメノヒワシ)」という。
なぜスサノオの父と同じ名前を名乗っているのかは不明だが、出雲の霊力を得るため、及び出雲の呪いを受けないためだったのかもしれない。
ここから『記紀』の国譲り神話と少し一致するが、出雲と日向の乱戦は、最終的に「タケミカヅチ vs タケミナカタ」の戦いとなり、タケミナカタは諏訪(長野県)まで逃げ延びた。
そして、諏訪から出ないことを約束させられ、タケミナカタは諏訪を中心とする「信濃王朝」を樹立した。
出雲国の王「タケミナカタ」が出雲から逃亡したことにより、王不在となった出雲国は日向国の手に落ちた。
それが「出雲の国譲り」の真相らしい。
【タカミムスビの陰謀】
だが、そのストーリーの裏を読み解けば、やはり全ては「タカミムスビの陰謀」としか考えられない。
オオクニヌシの出自は『記紀』に記述があるが、その系図に信憑性は1mmもない。
アリオンもオオクニヌシの出自を明らかにしていないので、オオクニヌシの正体は不明である。
だが、おそらく忌部氏で、タカミムスビの息がかかった「アマテラスの義弟たち」の1人だったことは間違いないだろう。
実際に、オオクニヌシはアマテラスに可愛がられ、晩年は日向国に住み着いたまま出雲国には帰らず、日向国で亡くなっている。
で、何が陰謀かというと、オオクニヌシを出雲国の王にするために、まず、スサノオの相続人のスセリ姫に婿入りさせた。
そして日向国にも家族を持たせ、出雲と日向で相続権争いを起こすように仕向けたのだ。
日向族はユダヤ人だが、これはまさにユダヤの伝統的な常套手段「双頭戦略」である。
その間、出雲国よりも戦力の弱かった日向国は、戦力と経済力を着々と高めていた。
その後、出雲の承諾を得ずに勝手にコトシロヌシを正統相続人として立てて、アマテラスを女王にすることで日向国を独立国にし、出雲国を弱体化させた上で攻め込んだのだ。
しかも、その時の三大武将(フツヌシ・タケミカヅチ・アメノコヤネ)が「アマテラスの義弟たち」である。
もはや、この仮説に疑念の余地はなく、出雲の国譲りの真相が解明できただけではなく、その後の歴史のミステリーも氷解するのだ。
【神武天皇即位の真相】
ここで舞台を「大和国」に戻すが、混乱しないようにご注意願いたい。
出雲国を掌握した日向国が次に狙うのは「大和国」である。
アマテラスが日向国の女王になった翌年、イワレヒコが誕生したという話をした。
【西暦216年頃】
日向国でイワレヒコ(後の神武天皇)が誕生。
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【西暦220年頃】
初代天皇ニギヤハヒ(69歳)が崩御。
このニギヤハヒ崩御のタイミングを狙って、日向国は出雲国に侵攻したのだが、タカミムスビはもう1つの陰謀を企んでいたのだ。
末子継承の習わしに従えば、ニギヤハヒの継承者は末娘の「イスケヨリ姫」である。
だが、イスケヨリ姫が「天皇」になることはできない。
そこでタカミムスビは、「タケツノミ」を遣わして大和国に次のような提案をしたという。
『大和(出雲)と日向の和合のため、ニギヤハヒの後継者の「イスケヨリヒメ」に、日向の王となる予定だった「イワレヒコ」を婿入りさせたい。』
タケツノミは先程も登場したが、日向国でのスサノオとアマテラスの長女「タギリ姫」と「オオクニヌシ」の間に出来た長男で、コトシロヌシの兄である。
オオクニヌシタギリ姫の子
長男「武角身命(タケツノミ)」
次女「下照姫(シモテルヒメ)」
三男「事代主命(コトシロヌシ)」
尚、下照姫は「2代目ヒミコ」で、『魏志倭人伝』では
※歴史研究家の原田常治氏が、『記紀』が編纂される以前の古代史を調査するため、歴史の古い神社を渡り歩き、そこに伝わる古文書を詳細に調べあげて作成した系図だが、あまりにも『記紀』の記述と異なるため、俄に信じがたい内容だが、アリオンが伝えている古代史とほぼ一致しているのだ。
さて、イワレヒコの婿入りの話だが、イワレヒコを「天皇」として、以降、天皇は「日向族」から選任し、皇后は「出雲族」から選任するという条件だったが、ニギハヤヒの長男の「ウマシマジ」がそれに同意したという。
なぜこのような提案にウマシマジが乗ったのかは不明だが、何か利害関係が一致したのだろう。
但し、ナガスネヒコ(ニギヤハヒの妻の兄)は大反対していたようで、その事は『記紀』の「神武東征」の神話に記されている。
その神話にはニギヤハヒも登場し、ニギヤハヒがイワレヒコの大和入りを認め、それを認めないナガスネヒコをニギヤハヒが殺したことになっているが、それは事実ではないという。
当時、ニギヤハヒは既に崩御していて、大和(ニギハヤヒの長男ウマシマジ)の合意の上でイワレヒコの婿入りが決定していたので、「東征」ではなく「東遷」だったという。
やはり『記紀』の神武東征神話は、日向族を正当化して優位にする目的で改竄されていることが分かる。
ニギヤハヒは「大和の王」として登場はするが、その出自や功績などは一切記述がなく、妻の兄でもある家臣のナガスネヒコを殺した酷い男というイメージを植えつけている。
だが、そこまでして「イワレヒコ」を天神として認めて迎え入れ、イワレヒコが初代天皇(神武天皇)になったというストーリーだからである。
また、その東征神話は、アレクサンドロス(スサの王)の伝説を重ねることで、「出雲族の権威」まで奪っているのだ。
しかも、イワレヒコの大和入りを道案内したのが「八咫烏(ヤタガラス)」だが、「八」は「出雲族」を象徴する数字である。
これではまるで、「ヤタガラス=出雲族」と思わせるような記述である。
実際にその洗脳力は大きく、「ヤタガラス(賀茂氏と)は出雲族である」というような記事をネットでよく見かけるが、大きな間違い(嘘)である。
ボタンを1つかけ間違えただけで、その後の歴史認識は本質的な部分で全て間違いとなるのだ。
ヤタガラスは三本足だが、「三」は「日向族」を象徴する数字なのだ!
だが、これは後世の国民を欺く為だけの目的だったわけではない。
なぜ、出雲族の象徴数が「八」で、日向族の象徴数が「三」なのか……。
出雲族のシンボルは「八光星」で、日向族のシンボルは「三日月」だが、アリオンによると、お互いの呪い(制限)を受けずに霊力を顕現させる為に、出雲族は「三日月」を、日向族は「八光星」を使用していたという。
そして何を隠そう、イワレヒコを大和に導いたヤタガラスの正体が、あの「タケツノミ」なのだ。
あくまでも私の推理だが、日向族の黒幕「タカミムスビ」は、スメラの証「十種神宝」を手に入れるために、スサノオの相続人であるスセリ姫にオオクニヌシを婿入りさせた。
だが、その陰謀に気づいたスサノオは、ニギハヤヒに「十種神宝」を授けて出雲国から脱出させ、タカミムスビの計画は失敗した。
しかし、オオクニヌシは「出雲国の王」という地位は手に入れた。
そこでタカミムスビが計画したのが「国譲り」で、オオクニヌシに日向にも家庭を持たせ、「相続権争い」が起こるように仕組んだのだ。
そして、西暦220年頃、ニギハヤヒが崩御したタイミングで日向族が出雲国に侵攻したのだが、その4年前からタカミムスビは出雲国の次に「大和国を落とす下準備」を実行していた。
西暦216年頃にイワレヒコが誕生した時、、オオクニヌシの日向の長男「タケツノミ」を使って、大和に「イワレヒコの婿入り」を提案したのが、それだ。
そして、イワレヒコを大和に道案内したヤタガラスの正体も「タケツノミ」だったすれば、全て辻褄の合うシナリオとなる。
実際に、賀茂氏の伝承でも、イワレヒコを大和に導いたヤタガラスは、賀茂氏の祖「タケツノミ」とされていて、現在の賀茂氏の本拠地である京都の下鴨神社の「主祭神」となっている。
【西暦241年頃】
イワレヒコが大和入りを果たし、ニギヤハヒの末娘イスケヨリと結婚。
スメラの証である十種神宝を継承して第2代天皇に即位し、後に「神武天皇」と呼ばれるようになる。
だが、これも「タカミムスビの陰謀」だったのだ。
当初は約束通り、物部氏(ニギヤハヒの長男のウマシマジの子孫)が天皇に仕え、皇后も出雲族から選定されていたが、やがて物部氏(出雲族)は宮中から排除され、皇后も日向族から選任されるようになった。
斯くして、天皇家は日向族に乗っ取られたのである。
ニギハヤヒは「事実上の初代天皇」として大和を治めて偉大な功績を残したが、その記録は『記紀』から削除され、神武(イワレヒコ)が「初代天皇」として記録されている。
更に、真の皇祖神でもある「天照大神(ニギハヤヒ)」は、イワレヒコの祖母「アマテラス(卑弥呼)」に塗り替えられたのだった。
結論として、真の天皇(スメラミコト)の系統は初代「ニギハヤヒ」で終了し、父「スサノオ」の功績もろとも闇に封殺されていたということである。
■ついでの話
【真・日本史①】で、第2代~第9代天皇も実在したという話をした。
アカデミズムの定説では、初代「神武天皇」が即位したのは紀元前660年で、第10代「崇神天皇」は3世紀頃に存在したと推定されている。
そのため、第2代~第9代まで架空の天皇を記述することで辻褄を合わせたと考えられている。
だが、実際には神武天皇が生まれたのは西暦216年頃で、崇神天皇の没年は西暦300年前後だったと考えられる。
それなら尚更のこと、80年程度の間に10人の天皇が存在したという話には無理があると思うのだが……。
前述の原田常治氏が、旧家に伝わる孝元天皇の系図を入手したところ、以外な事実が判明したという。
神武天皇には5人の子供がいて、そのうち3人の兄弟が天皇になっていたのである。
そのことを裏づける根拠もあるのだが、ここでは長くなるので割愛するが、僅か80年~100年程度で10人の天皇が存在してもおかしくはない系図になっている。
神武天皇の即位は『日本書紀』の記述に基づいて、紀元前660年とされているが、それは「聖徳太子」の陰謀である。
この話の続きは少し長くて文字数オーバーになるので、次回の記事に譲りたい。
ちなみに原田氏の研究によると、『古事記』は半分が嘘で、『日本書紀』は8割が嘘だという。
原田説が100%正しいとは思わないが、『古事記』と『日本書紀』を読み比べただけでも、親子や兄弟の関係でさえ大半がデタラメである。
その『記紀』を元に多くの学者が様々な仮説を立てているが、『記紀』を元にしているだけでは歴史の究明は絶対に不可能である。