1986年東北の片田舎に生まれた。小さい時はよく漆塗り職人の祖父の傍で過ごした。そんな祖父が9歳の時に他界する。初めての身近な人の死で、人があっけなく死んでいく虚しさが幼い僕の心に残った。その時に買い与えられた野口英世の伝記を読んだことが、僕に死にゆくものと医師という仕事をつなぎその頃から漠然と医師を目指すことになる。
夢を抱くが人生初めての大学受験に失敗するまで勉強に熱は入らなかった。仙台で二年間の浪人生活が始まり、多くの医師志望の仲間に囲まれたが念願かなわず三年目の帰郷。本屋で偶然「藤原新也」という聞いたことのない著者の本を手にとり、パラパラとページをめくっていた時に出てきた写真と言葉がその時の僕の気持ちに少なからず動揺を与えた。
「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」
死ぬことが自由だなんて、天と地がひっくり返るような気がした。その頃長期の入院生活を送っていた祖母を病室で看取ることになる。とにかく食べることが大好きだった祖母の体は腸ろうとその拒絶反応によってやせ細っていた。祖母が穏やかに逝く瞬間、その姿が僕の目には本当に幸せそうに映り「ばあちゃん、本当によかったな」と思った。例の一節を乗り越えた気がした。それからも受験生活は続くが、実質的には僕の夢は死から始まり死で終わったのかもしれない。
医師でもある革命家チェ・ゲバラの本に「本当の医師は人を治すだけでなく、時には自分で畑を耕し作物を作りそれを病んだ人に与えるのもまた医師の仕事である」とあったことを思い出し、北海道の農業大学に進んだ。大学では生命科学を専攻し授業でDNA複製など未知の分野に触れ、それ自体は楽しいと思えた。しかし、ある日の授業中に悟ってしまう。
「どんなに科学技術が発達してもそれは私達を満たすことはできない」
そう思えた途端興味を持てた科学が急速に色を失った。そのとき「藤原新也」が見たインドを見てみようと思い、大学三年の夏休みを利用してインドに渡る。24歳の青年の目に映るインドはあまりに新鮮だった。無数の物乞い、道端で死にかけている少女、駅にたむろするらい病患者、骨となり母なるガンジスへと還る骸。自分がニンゲンとして生きていることを初めて実感する瞬間だった。帰国後に目に映った東京は誰もが意識的に自己を抑制しているように見えた。とても寂しかった。本当に必要なのは最新の科学技術ではなく人間としての繋がりであると気づいた。
それが実感に変わったのは311だった。被災した友人の無事を祈る自分がいた。震災から半年経った夏に秋田から東京にかけて歩いた。たくさんの人から温かい声をかけてもらった。福島で見ず知らずの人を自車に乗るよう促してくれたおじさん、立ち寄った食堂でお腹空いたとき食べるよう栗をくれた店の主人、神社で野宿していた僕に温かいおにぎりを作ってきてくれたおばさん。歩ききったことよりもそんな人たちと出会えたことが何よりも嬉しかった。それとは裏腹に更に原発を増やそうとしている国に、社会に違和感を感じずにはいられなかった。本当に大切なものはその先にはないのに。
この旅の過程で自分以外の全てが先生だと信じている。時には宿の庭先に止まった小鳥から何かを教わる日も来るかもしれない。一体いつ来るかわからないが、自分の中で旅が終わりを感じるその日まで僕の旅は続くだろう。この旅で感じたことをここに綴っていければと思う。