◎平氏の進出
平正盛(源義親の乱を征圧)―忠盛―(清盛)
・「保元の乱」(1156年)(崇徳)上皇乂(後白河)天皇 近衛
・官職の独占→旧勢力から反感→「鹿ヶ谷の陰謀」(1177年)失敗
後白河法皇とそのけらい
↓ |
幽閉 └――――→平氏打倒
↓ ([藤原成親] [俊寛])
平氏の滅亡をはやめる結果
・「保元の乱」(1156年)
・「平治の乱」(1139年)
◎平氏の進出
平正盛(源義親の乱を征圧)―忠盛―(清盛)
・「保元の乱」(1156年)(崇徳)上皇乂(後白河)天皇 近衛
・官職の独占→旧勢力から反感→「鹿ヶ谷の陰謀」(1177年)失敗
後白河法皇とそのけらい
↓ |
幽閉 └――――→平氏打倒
↓ ([藤原成親] [俊寛])
平氏の滅亡をはやめる結果
・「保元の乱」(1156年)
・「平治の乱」(1139年)
◎院政期の様子・特徴
・(院近臣)の形成…富裕な受領 后妃 乳母
・(知行国)制度 (院分国)制度により公領が私領化
私領 院の土地
・荘園の寄進が院の周辺に集中→不輪・不入の権を持つ土地
が増え荘園の独立性が強まった
・大寺院の自衛→僧兵を組織し朝廷に(強訴)―集合行動
┌(南都)―(興福)寺…(春日神社の神木)
└(北嶺)―(延暦)寺…(日吉神社の神輿)
→(鎮圧に武士を用いたため武士の増大)
・地方武士団の強化
(奥州藤原)氏は(清衡)・(基衡)・(秀衡)の3代にわたり
(平家)を中心に繁栄
・中世社会のはじまり
┌・私的な土地の所有と権力の分化
└・社会を実力で動かそうとする風潮→武士の進出
武力
・院政の開始…(白河)上皇は堀河上皇に
讓位後(上皇)=[院]として(院庁)で
政治を行う→(院庁下文) (院宣)の効果
・院の警護→「北面の武士」
・(白河上皇)、(鳥羽上皇)、(後白河上皇)と
・3上皇とも出家し.(法皇)となり造寺、造仏、参詣
↓
費用・調達のために売位売官
↓
政治の乱れ
・(後三条天皇)の政治
・(藤原教通)を関白としたが外戚関係なし
・(大江匡房)らを登用
・(1069年)(延久の荘園整理令)―(記録荘園券契所)を設置
・(延久の宣旨枡)
◎(荘園公領制)
・一国の中に荘園と公領が併存する状態
・税・・・耕作地→(名)
名の請負人→(名主)
(年貢)、(公事)、(夫役)を納める
・(バルカン)半島は「ヨーロッパの火薬庫」
・18~19世紀 オスマン帝国衰退
→バルカン半島で独立を求める動き←ヨーロッパ諸国介入
(ドイツの3B)政策 (ロシアの南下)政策
|| | |
(パン=ゲルマン)主義 ←対立→ (パン=スラヴ)主義
・(オースオリア)による(ボスニア),(ヘルツェゴヴィナ)併合(1908年)
↓
(1914年)(サライェヴォ)事件→第一次世界大戦
オーストリアがセルビアに宣戦布告
→第一次世界大戦へ
(ドイツ ) (ロシア )に宣戦布告
(ドイツ ) (フランス)に宣戦布告
(ドイツ ) (ベルギー)に侵入
(イギリス)が(ドイツ )に宣戦布告
( 日本 )が(ドイツ )に宣戦布告
「タンネンベルクの戦い」 独乂露
ヒンデンブルク将軍勝利
「マルタの戦い」 独乂仏 → (総力戦)・(長期化)が決定
(オスマン)帝国参戦(同盟国側)
(1915年)「イーブルの戦い」・・・(毒ガス)使用
(イタリア)参戦(連合国側)
(ブルガリア)参戦(連合国側)
(1916年)「ヴェルダンの戦い」 ¬
「ソンムの戦い」・・・(戦車)使用 」
(1917年)「無制限潜水艦作戦」(ドイツ)敗色
非軍事船 アメリカ合衆国参戦(連合国側)
(ソヴィエト)「平和に関する布告」
(1918年)アメリカ (ウイルソン大統領) 「十四ヶ条の提案」
(平和の原則)
↓
国際連盟
ドイツ (キール軍港) 水兵反乱 (戦争停止、皇帝退位)
↓
(ヴィルヘルム2世) 退位、亡命「ドイツ革命」
↓
休戦調停
↓
第一次世界大戦終結
第一次世界大戦の特徴
新兵器の登場…毒ガス、飛行機、戦車、潜水艦
総力戦
長期化
情報戦のはじまり