君も私も歓喜と栄光の大合唱 | くにゆきのブログ

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今、自分が感動したこと、また知っていただきたいことを、主に記していこうと思います。

(随筆『桜の城』2000年刊より)

【君も私も歓喜と栄光の大合唱 1999年3月22日、全文】

 

 新たに来る日、来る日を、わが家族と、わが同志と、前進して生き抜くことは、なんと素晴らしいことか!

今日も、ともどもに勝利の杯をあげたい。この世を遊戯しゆく活発な魂を、わが胸中に抱ける者は、

自由の帝王である。

 

 一九七九年(昭和五十四年)の二月のことである。

 私は、二十年前のこの時、鹿児島空港から、インドの広宣流布の旅立ちをしたのであった。

 「仏法西還(ぶっぽうせいかん)」の予言の実現のために、私は真剣であった。

 ともあれ、その意義深き旅立ちは、東洋広布の先駆けたる九州の天地から開始したのである。

 

 それから二ヶ月余り後、私は名誉会長になった。

 次に九州を訪問した時も、アジアとの交流ー五度目の訪中の帰りであった(昭和五十四年四月)。

 当時、九州も、あちらこちらで、理不尽な策謀の嵐が吹き荒れていた。私自身も、

会合で自由に指導することもできない状態であった。

 陰険な坊主たちと結託した、何人かの裏切り者の狂気じみた芝居があった。

人間として失格者たるを証明している輩である。

 「必ず三障四魔(さんしょうしま)と申す障りいできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(御書1091ページ)

 この年は、青年部結成から、また、恩師の「青年訓」の発表から、三十周年の佳節にあたっていた。

 瞬間、私は思った。

 ー今こそ青年に新しい指針を贈りたい、と。

 大分指導の三日目のことである。忘れもしない十二月十日の夜、大分青年部の幹部会が予定されていた。

 その直前の、大分平和会館の管理者室。

 わが胸には、既に、万感の戦う魂が光っていた。

 わが愛する青年たちが待っている。彼らの代表者たちが、新しき「正義の詩(うた)」をつくりたい、

その詩とともに、二十一世紀へ、厳然たる前進を開始したいと、言うのであった。

 私もそれに応えた。

 「よし、やろう!」

 狭い六畳の部屋は、たちまち詩人の戦場と化した。

 「『なぜ山に登るのか』『そこに山があるからだ』と・・・」

 約四十分間、あとから、あとから、言葉は奔流となり、炎の噴出となって、ほとばしった。

 私の口述を、五人の男女の青年たちが、ペンも折れよと、無我夢中で、メモをとってくれた。

 このあと、彼らが清書した原稿に、さらに何カ所も朱を入れていったが、その

清書がまだ完成しないうちに、会合の開始時間が来てしまった。

 添削で真っ赤になった原稿のまま、発表となったのである。

 「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」の誕生の瞬間である。

 

 私は、祈る思いで謳った。

 「今、君達が存在するその場所で、断じて勝たねばならない!」「信心の二字だけは 決して

敗れてはならない!」と。

 仏法は「勝負」である。仏と魔の戦いであり、正義と邪悪との攻防戦である。

 ゆえに青年には、明快に、魔を魔と見破り、邪悪を打ち砕きながら、民衆をリードし、

安心させゆく、強い強い使命があることを訴えたい。

 そして私は、万感の期待をこめて、こう呼びかけたのである。

 「二〇〇一年五月三日ー この日が 私どもの そして君達の 大いなる 

目標登攀の日であると決めたい! 広布の第二幕の勝負は この時決せられることを

断固として忘れないでほしい」

 この最大に意義ある年も、間近になった。

 その道を、若き弟子達たちは、今日も新しい友だちと、新しい兄弟と、新しいスクラムを

組ながら、生き生きとした魂で、最高に価値ある一日、また一日を進んでいるにちがいない。

 

 当時、私は世界芸術文化アカデミーから「桂冠詩人」の称号を受けることが決定していた。

「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」は、決定後、最初の長編詩となったのである。

 

 大分の南西部の、有名な竹田の岡城址で、寒風が飛び来るなか、私は若き瞳輝く、血潮流るる、

わが青年たちと名曲「荒城の月」を大合唱した。烈風に耐えて勝った、庶民の英雄たちと

声たからかに歌った。

 親しげな眼ざしで直立した、厳かな青年たちは、永遠なる、荘重な心で、

深い何かを誓い合っていた。

 この歓喜の勝鬨の波は、大分より、熊本へ、福岡へ、全九州へ、いな、日本へ、

世界へと轟いていったのである。

 偉大なる佐賀も勝った!宮崎も、さらに長崎も、鹿児島も、見事に、すべてに勝ってきた。

わが九州は、難攻不落の正義の城を、清々しい民衆の栄光の宮殿を、堂々と築いた。

 今は、吉橋九州総合長(故人、管理者記)、山本九州長をはじめ、嵐のなか、同志を守り、

戦った闘将を中心として、厳然たる布陣ができあがった。この大九州城をば、

私は、仰ぎ見つめている。

 

 あの日、あの時、われらが登攀の目標と定めた、二十一世紀の夜明けは始まった。

「二〇〇一年五月三日」の、山嶺は目前にある。そこに君も!そして私も!

ともに勝利と栄光と幸福の、創価の三色旗(さんしょくき)を打ち立てよう!

 十万人の青年が「第九」を合唱する、「アジア青年平和文化祭」の開催も決まった。

 われらは、幸福な太陽の光に包まれながら、固い握手と握手を交わしながら、

あの九州勝利山から、再びの行進を開始するのだ!天使のごとくに!