今年も、残すトコロ後、二ヶ月となった
……ん? 二ヶ月? なんとッ!? 
前回ブログの更新は6月の初旬だったろうか? 
正確な日付すら思い出せない
一体、何時の間にそんなに月日が経ってしまったのだろう?
浦島太郎さんの心持ちがする………

52歳で全く未経験の分野に転職したのが、今年の6月だった
知識および経験不足を少しでも補おうと医療事務の通信講座を始め

資格試験を受けたのは8月
幾度、教えられてもなかなか覚えられない業務を過度な飲酒でふやけてしまった脳ミソに詰め込み、隙間時間で行う試験勉強に身が入るハズもなく、十分な準備をしないまま受けた試験だ
不合格ならば再試験を受けねばならぬため、一月後の結果発表まで、ブログの更新を控えていた


その一月の間に真面目に資格勉強を続けていたワケではない

転職して以来、週末の夜を迎える度にナゾの同居人・ともちと二人で、レッツパーリティ! 

小食者を返上し、食べたいものを食べ、飲みたいだけ酒を飲んでは非生産的なお喋りに興じてストレス値を下げてはまた、新しい1週間を迎え撃つ……

そんなバブル期のサラリーマンのお父さんのような生活を繰り返していた

9月の終わり、何故だか! 奇跡的に!! 合格通知を受け取った
10月、新しい職場で働き始めて早くも三ヶ月半が経過し、業務にも幾分か慣れてきた

ブログを再開しようと思えば幾らでも出来た、ハズなのだけれど……
気がつくと既に11月も月の半ばの今日は12日
明日は蠍座の新月で、星占い的には12日の今日、既に新月に入っていると言うから

もしかしたら、この新月を待ってのブログ再開だったのかも知れない

相変わらず、木っ葉の人生は星の運行に支配されているようだ
運命の横やりにお尻をぺしぺしと叩かれては前に進む、停滞するを繰り返している

蠍座の新月は、長く引きずっている問題や溜め込んでいるストレスを一掃して、心機一転、再スタートを切るための願いゴトをするには絶好の機会だという

新月には願いゴトをノートに書き込み、満月には感謝の祈りを捧げる

しかし、願いゴトはノートに書き出すだけでは叶わない

料理でもなんでもそうだが、まずは下ごしらえ、前準備が必要なのだ
今回の蠍座新月を例に上げるなら、自己の変容を妨げている、
コト:ルーティーンで続けている趣味や仕事など
モノ:着ない洋服やメイク用品、ダイエットのために買った運動器具など
ヒト:自分に益をもたらさない人間関係など
を捨て去る、手放す、実行に移さないまでも断固とした意志で手放す覚悟を決める

そのうえで、自分が心から欲する『コト・モノ・ヒト』をノートに書き出す

そこまで徹底して初めて、願いは叶うのだ

試してみると分かる
自分が心から欲しているモノを書き出すのは案外と難しい
アレも欲しい、コレも欲しいと頁をいっぱいに書き出すコトができるヒトは日頃から、自分自身と向き合って証拠だ

自分の欲求に正直で少し強欲な位でないと蠍座の恩恵は受け取るコトはできない

控え目で謙虚な良い子ちゃんなんて、蠍座の支配星である冥王星には「アウトオブ眼中」


蠍座は中途半端を嫌う

「All or nothing」の星なので、ナニゴトも中途半端を許さない

その分、強力なパワーの持っているため

どんな願いもたちどころに叶えてくれる


木っ葉は新月の度に願いゴトをするような勤勉さや殊勝な心持ちは持ち合わせていないので、ノートに願いゴトを書き出すかわりにブログを再開するコトにした

蠍座新月にあなたは何を手放し、何を願うのだろう?

どのような願いであれ、叶うコトを祈っている

昨日、6/10は実に不可思議な一日だった



 

前日、前々日と二日間に渡る、社内研修に出席した
他8名の同期の方々と共に神妙な顔つきで、朝9:30~16:15まで、会議室の机の前に座り、講義を聴き続けていたせいだろう、腰が痛い、それもとんでもなく……
週明けてすぐの12日、要するに明日だが、の初出勤に備えて、ここは一つ、体調を万全にしておくべきだろう

そう思った、木っ葉はナゾの同居人・ともちの運転する「命からガラ号」で、我が家から一番、近い『子宝温泉』へと向かった

子宝温泉は、いつもソレなりに混んでいる

訪れたのは土曜日の昼過ぎ

それなのに駐車場はガラガラ、施設内は閑散としており、露天風呂はずーっと貸し切り状態だった
この空きっぷりは尋常じゃない、ご先祖さまバックアップなど高次元さんが介入している気配を感じる
そう言えば途中、立ち寄ったパン屋さん、駐車場が狭くて、ともちには駐めヅライ、にも車が一台も停まっていなかった

国道156号線に至っては首を傾げるほど交通量が少なく、左折時には対向車が一台もやって来ない、という徹底したサービスっぷり
有り難すぎて、むしろ、怖いわとつい、ネガティブに捉えてしまう

幸運をただ感謝して受け取るコトの難しさよ……

感慨深げに浸かる、湯のぬくもりが全身へと染み渡るのを感じた

 

疲労で強張った身体をぬるめのお湯でたっぷりと時間をかけてほぐし、「そろそろ、出ようか?」と言う段になった
脱衣場で、身体を拭い、服を纏う

洗い髪を乾かすためにドライヤーの置いてある、洗面台の前に座るとちっとも効かない、カーエアコンのようなドライヤーで、肩口まで長く伸びた髪を乾かす。ドライヤーがムダに重たい。持つ腕を幾度か変え、どうにか作業を終える

ふと鏡を覗いた瞬間だ、鏡に映っている『自分』の姿に強烈という言葉ではモノ足りないほどの違和感を覚えた
「え、誰、この人? どうして、自分を見ているの?」
本気でそう思った、いや、マジで……
誰だろう、この人?と「自分」の顔を見て思う

 

鏡に映っている人物も不思議そうな表情を浮かべている
「誰だろう、この人……見覚えがあるような気がするけど、どこで知り合ったんだろう?」
彼女はきっとそう思っている、手に取るように分かる
何故なら、『自分』だから
だけど、『自分』とは思えない
衝撃的な違和感を覚えた、木っ葉は自分のすぐ隣で、髪を乾かしている、同居人の名をすがるように呼んだ
「ねえ、ともち」
「なに?」
「なんか、自分が自分じゃないみたいな気がする………私って、こんな顔してたっけ? 鏡に映っている自分が、別の人みたいに見えるんだけど……」
「は?」
「アナタハダレデスカ?」
鏡に向かって問いかける、木っ葉にともちは一瞬、戸惑ったモノの、すぐに我に返った
「なんだ、そりゃ?」
また、妙なコトを言い出した、しかし、この程度なら、放っておいても差支えはないだろう、と彼女は判断したに違いない
あっさりと笑い飛ばした
「あははは」
まあね、そのリアクションはむしろ、正解

真顔で心配された方が、よほど困ったハズである

「大丈夫? 今から、病院に行く?」とか、シャレにならん!


温泉の帰り道には、病院に行く代わりに美濃の街に立ち寄った

観光客に交じって、滅多にしない、食べ歩きを楽しみ、これまで体験したコトのない、休日らしい、休日を送ったけれど、そこはかとなく、不可思議な一日だった

鏡に映った自分が別人に思えた、あの奇妙な感覚は一体どうしたコトだろう?

今しがた、ふとした拍子に思い出したので、ネットで調べてみるコトにした
 

出てきた答えは離人症性障害〔りじんしょうせいしょうがい〕

ああ、隣人症。そう言えば若い頃に軽度の離人症になったコトがあったなぁ……

自分の意識が、右手後方上部、首の斜め後ろ辺りに、あるような気がする

家族と会話をしていても自分が発している言葉とは思えない、など生活に支障がない程度の症状だったから、医者にもかからなかった。離人症だと知ったのは本屋さんで立ち読みした、『家庭の医学』で調べたからだ
症状は数年後に消えてなくなったが、重篤な方になると布団から、立ち上がることも出来なくなるそうだ

離人症の人は、覗き込んだ鏡に映っている自分の姿を自分と認識できない、赤の他人が映っているような気がする、そのため、鏡を見るのを極端に恐れるという
しかし、木っ葉は「誰だろ、この人、どこの人だろ? 自分の知っている人かな? どこかで見覚えがあるけど……」とどちからというとポジティブなリアクションをしているので、離人症が再発したとは考えにくい

勉強か? 医療事務の勉強のしすぎで、頭がパーンってなっちゃったのか?

いささか心配になったので、ダンナに尋ねてみたトコロ、出勤前で歯を磨いていた、ダンナのけ~サマは首を振った
「ひがう、ひがう。ほれ、ひりん、しょー、りゃ、らい」
「いや、何を言っているか、さっぱり分からんけど?」
お口の中をさっぱりとキレイにした後で、彼は続けた
「自分の変化に感情が追いついてないんだ、離人症じゃないよ」
「あ、それ、きっと正解」

自身の直感が、彼の意見に賛成挙手しているのを感じる

自分は離人症ではない

というコトは?

なにやら、見た目が変わるほど著しく変化している、ようだ

確かに小食主義を未だに続けているから、体重はかなり落ちた

美容院にもついこの間、行ったばかりだから、髪型も整っている

メイクもYouTubeの動画を見て学び、「こち亀」の両津勘吉風だった眉毛をうんと細くしたから、以前に比べれば少しは垢ぬけたやもしれない。ただ、ちょっとばかり、イジリ過ぎたようで、眉毛の一部が、欠けてしまった……


52歳にもなるニンゲンが使って良い言葉ではないが、以前と比べると「大人っぽくなった」のかも知れない、もしくは「年並みの落ち着きを手に入れた」のだろうか?


見た目が変わるほどの激しい変化が何故、突然、起こったのだろう?
こればかりは分からないとしか言いようがないが……
意図的に行っていたのは不要になった価値観の手放しである
主に「自分」という思い込みを徹底的に排除した

自分は「こういう人」。「こういうのが好き」で「こうじゃなきゃダメな人」の「こう」を一つ一つ、石膏をハズすように取り除いて行った
何故そんなことをしたのか?
「こう」という価値観で固められていたセルフイメージが、本来の自分とはあまりにもかけ離れていたから
その結果、表出してきた自分が、鏡の中に映っていた、今現在の自分、つまりは本来の自分の顔なのではないか?

まあ、あくまでも仮説でしかないが、可能性としてはあり得る


ニンゲンはどこまでも変われる
環境に適応して生き残っていくために人には変化に対する順応力を進化の過程でゲットした

明日から、働く新しい職場でもヒトが本来、生まれ持っている「柔軟性」や「適応力を」をフルに発揮して、適者生存の社会生活を快適に過ごしていきたい、と思っている
 

木っ葉は自分でもしばしば忘れしまうほど「敢えて空気を読まない、普通の人より神経が太い、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)」だ
矛盾している、と自分でも思う



 

しかし、久しぶりにフルタイムで働き始めるに当たり、いささかナーバスになっているようで………

これから始まる新生活:週4日、8:30~17:30まで勤務し終えた後で、家族にご飯を作って食べさせ、8月の最終・日曜日に行われる医療事務・資格試験に合格できるだろか?といささか、不安になってきた

不安を不安のまま放置しておいてはいけない
何故なら、不安は更なる不安を生むからである
そこで、対策を講じるコトにした

不安の大本は何か?とまず、考える
試験に落ちるコトである
合格するためにすべきコトは?
勉強に十分な時間をかけるコトである

試験までに使用できる「時間」は限られている
となると成すべきコトは?
ムダを省く

というワケで、就業開始から資格試験に合格するまでの間は必要最小限なコトしか行わない、今時のコトバで言う、「ミニマムな暮らし」を心がけるにコトにした

ミニマムな暮らしを実現するためには「行うコト」と「行わないコト」の選定から始める

行うコト
◇家族の食事は作る←外食は出費がかさむ、さほど美味しくない、出かけると時間的コストがかかるなど、良いコトが一つも無い
◇仕事に行く
◇資格試験の勉強をする
◇ブログは書ける時に書く→今までだって月に10日ほどしか掲載していなかったのだから、可能なハズだ、多分………
◇写真は撮りに行ける時は行く
◇ニンゲンとしての機能を維持するための最低限のコト

行わないコト
◇それ以外、全部
特に、考えてもムダなコトは一切、考えないようにする
考えゴトは脳にムダな負荷をかけるだけだ、なんら、益するモノがない
ムダなコトバを発すのも止めた、その分の体力を温存……しようと試みたが、これが、なかなかに難しい
なにせ、木っ葉はお喋りなので……と、この一文が既にムダなお喋りでしかない

しかし、よくよく考えてみれば、そもそもブログとは「ツイッターより長い」だけの「ムダなお喋り」でしかない
よって、ムダなお喋りに関してはカットできそうもないから、目をつぶるコトにした

出来ないコトを出来るように工夫するのもムダなコストである、さっさと忘れて次、行こ、次!

次に「行う」項目に着目してみる
これらの中で、木っ葉の裁量でできるコトは「食事作り」に関してのみである
更なるコストダウンを図るために「食事作り」について考えてみる

食事を作る上で、最もムダな作業は何か?というとメニューを考える手間である

次におかずの品数を増やせばその分、労力、食材も増え、比例して金銭的なコストも増える
よって、1週間のメニューを全て、ルーチーン化するコトにした

我が家では曜日によって、食事を取る人数が違う
月曜日はカレー。二名分が必要。カレーは前日に作っておく
火曜日はダンナが仕事で、必要な食事はナゾの同居人の分だけなので、肉
同居人は肉さえ食べさせておけば文句は言わない
水曜日は二名分。ラーメンか、うどんか、はたまたパスタなど麺類
木曜日はトモチだけだから、肉の日
金曜日は二名分、メニューに変化を出すため、魚の日
土日は仕事が休みなので、敢えて決めずに流動的にしておく

要するにこれ以上、考えるのが面倒になった


食材の買い出しは土曜日のみとし、その際は毎回、必ず決まった食材のみを購入する
購入品は、冷凍可能で、価格の変動が少なく、常備菜になり得る食材のみ

なお、特売品など価格が下がっている商品に関しては例外的に購入を認める

メニューをルーチーン化する決定に際しては、無論、家族の了承を取った
不満そうではあったが、彼らがモノを言わぬのを良いコトに知らん顔しといた

ご飯を作るモノが、家庭では王さまなのである

文句があるなら、ベルサイユにいらっしゃい、いつでも受けて立つ!

他にもっとコストダウンできるモノはないか?と目を血走らせている内に、ふと思いついた
食費である
先月終わり、27日に食費としてダンナから、二万円貰い受けた
「足りなければ補充するので、その都度、申告するように」と言われたが、木っ葉はその二万円を一月分の食費に当てようと目論んでいる

我が家では調味料や米、コーヒー・紅茶などの嗜好品類は全て、ダンナの財布から出ており、ともちはともちで食べたい食材を購入して来る

なので、切り詰めようと思えば、どんだけでも切り詰められるのである


木っ葉が預かっている金額を全て使い切らずに一月賄うコトはできれば………ヘソクリが出来る、へへへへ、へそくりが出来る、ふふふふふ

「ミニマムな暮らし」のおかげで、我が家の食卓はますます、貧しくなりそうである
 

 

ここ最近、ブログが更新できていない……
というのも来週から働き始める、医療事務の資格習得に向けて、勉強を開始したからだ

就職した会社が行っている『医療事務講座』に内定を知らされた当日、5/29に受講を申し込んだ
教材(テキスト4冊と重すぎて持ち上げるコトすらできない「医科診療報酬点数表」、その他諸々)が自宅に届いたのが、5/31
学習を開始したのが、6/1
その日から、突貫工事で知識を詰め込み、テキスト二冊分の学習は終えた←終えただけ、理解はしてない、既に記憶から、削除されつつある
一回目のレポートをなんとかパスした
今後、二回目のレポートと修了試験で合格点を取りさえすれば講座は修了となる
最も、ここからの道のりが果てしなく長い。医療事務最大の難関である「診療報酬」が、ガンダーラへとたどり着くことを阻む、タクラマカン砂漠のように広がっており、早くも尻尾を巻いて逃げ出したい気持ちでいっぱいだ


講座を修了しても医療事務の資格試験に合格せねば、なんにもない
それは分かっている
しかし、この際、そこはどうでも良い、まずは講座を終らせねばならぬ……と、ちょっと、いや、かなり焦っている

何故なら、講座を三ヶ月以内に修了しないと『教育給付金』が下りないからだ

教育給付金とは?
厚生労働省のホームページによると『働く方々の主体的な能力開発やキャリア形成を支援し、雇用の安定と就職の促進を図ることを目的として、厚生労働大臣が指定する教育訓練を修了した際に、受講費用の一部が支給されるもの』

木っ葉は給付の対象者なので、条件さえ満たせば、支払った金額の最大二割が、戻ってくる

二割だから、給付される金額など、たかが知れている
が! 貰えるハズのモノが、貰えないとなると話しは変わり、目の色も変わる

これぞ、「The・日本の主婦!!」

そんなワケで、日々、受験生になった心持ちで、机にかじりついている

資格試験の勉強を始めてみて、気がづいたコトがある
それは「自分、勉強するのキライじゃなかったんだ………というか、むしろ、勉強、好き、なの、か………?」

これまで知らずにいた、自分の新たなる側面を知って、呆然としている

木っ葉は自分のコトをずっと「お勉強のできない、おバカさん」だと思ってきた

事実、学校の成績は全く振るわず、中学生の頃の通信簿は「あひるさんの行列」、2という数字が、横一列に並んでいた
祖母はそんな木っ葉に「お前は学習障害に違いない、障害児のための特殊学級に編入されたくなければ、もっと勉強をしなさい」と言った、小学校一年生の時だったと記憶している

トラウマ級のエピソードではあるが、しかし、木っ葉には大変、都合が良かった
何故なら、木っ葉には学習障害があるから、お勉強ができなくとも当たり前で、だから、お勉強はしなくても良い、と自分に都合の良いように解釈したからである

今だから、分かる
木っ葉は学習障害があるから、お勉強が出来なかったのではなく、好きなコトしか学ぼうとしない、典型的な「魚座」ニンゲンだったのである
かの有名なアルベルト・アインシュタインも、木っ葉と同じ、魚座の生まれであり、彼もまた、子供の頃、学習障害があると母親に見なされておった

アインシュタインが後に物理で頭角を現わしたように木っ葉も自分の好きな課目だけは成績が良かった

主に「社会」とか「社会」とか「社会」とか

つまりは「社会」だけで、他の課目は総じてキライで、勉強の時間が苦痛でならなかった

だのに現在、通信講座で行っている、学習は全く苦にはならない
両者の違いとは何であるか?
その理由について考えてみた

①授業ペースの違い
通信講座は自分のペースに合わせて学習を進められる
しかし、学校では教師のペースに合わせなければらない

②学習方法の違い
この点については詳しい説明が必要だろう

学校の授業では教科書の最初の頁から始まり、一章ごとに石を積み上げるようにして学んで行く
足し算、分数、小数点という「小項目」を学び終え、算数・数一・数二という「中項目」が集まって、最終的に数学という「大項目」になる

木っ葉のようなタイプは、そうした細切れの方法では、自分がなんの勉強をしているのか、サッパリ分からないため、勉強する意義を見いだせない

「数学」を学ぶのであれば「数学とは何であるか?」という「全体像」を理解してからでないと「足し算」にすら、着手できないのである
要するに偏屈で、理屈っぽい、子供だったんだろう……

理解の仕方一つとっても人は個々に違う
ニンゲンはここまで多様性に溢れている

しかし、人が作り出した『社会』は多様性を受容し切れない

だから、不都合が生じる度に是正して行くない

私たちの後に続く、子供たちが不自由な思いをしないように

受容性の高い社会を自分たちの手で作って行くしかない


学習に必要なスキルは、なにも知性だけではない

集中力や忍耐力、時間の管理などの自己マネージメントなど多岐に渡った、複合的なスキルが必要で、だからこそ、個人に見合った、勉強方法を独自で開発して行くしかなく、それゆえに大人になってからの勉強の方が、進捗率が高いのである

私たちが勉強ができなかったのは、あるいは勉強が苦痛でならなかったのは、型にハマった勉強方法を押しつける他、最善策を見い出すコトができない、義務教育の許容量の低さであって、どうやら、私たちの頭が悪かったワケではないようだ

自分に見合った最善策を個々に見出すコトさえできれば、勉強は最もお金のかからない娯楽である。スキルアップや収入アップにつながる、豊かさへの切符でもあり、自己肯定感を上げるための便利なツールにもなり、更には……

実はこれが言いたくて本稿を書いた

今この瞬間、いかなる困難な状況下におかれている人であっても「新しい学び」=「自分の可能性」に心を開くコトさえできれば、ネガティブから、ポジティブに無理矢理、意識をフォーカスせずとも意識を明るい方向へと切り替えてくれる、魔法のスイッチとなる

ツライ………
シンドイ………
という感情は自己に対する無力感や無価値感から生まれる
しかし
デキタ!
ワカッタ!
と思う瞬間、あなたはそれまで知らなかった、新しい自分を発見するコトになる

勉強や資格習得でなくともいい、なにか新しいコトや今まで目を向けてこなかったコト、自分には出来ないと思って今まで、ずっと目を背け続けてきたコトの中にキラリと光る、あなたがこれまで想像すらしなかった、素晴らしい才能が潜んでいるハズだ
それを見つけ出して欲しい
人生は、たった一度の冒険だ
冒険するためにはまず、出発しなければならない
どこへ?
どこへだって構わない
自然の中でも
本の中でも
ネットの中でも
ユーキャンの受講リスト一覧の中にでも
新しい、あなたへと通じる、扉がきっとある

ネガティブからポジティブへと意識を切り替える、魔法のスイッチは、あなたに押される瞬間を待っている
 

撮影地:各務原市民公園

 

あんまりにも心がバタバタと騒がしいので

久しぶりに撮影に出かけた

六月は紫陽花が咲く

好きな花の一つだ

 

 

紫陽花は雨上がりが格別に良いのだけれど

新しい職を得た代わりに

天候を選んでいる「余裕」を失ってしまった

 

だが、それも必然だ

 

 

出会うべき時が来て

出会うべき命と出会い

別れるべき時が来れば

さよならも告げる間もなく

去りゆく別れもある

 

だが、そうした痛みを通してしか

得られないモノもある

 

それは優しさや共感という

名前で呼ばれている

神さまからの贈り物であり

神さまの宝ものである

そんな歌を子供の頃に聴いた

 

 

血肉の服を纏っている間に

命と命が出会い

別れるまでの時間は

瞬きするほどに短い

 

その一瞬の間に

向き合った命と

どう接するか?

私から、何を差し出すか?

相手から、何を感じ取るか?

それを知るコトが

命が出会う意味なのだと

教えてくれたのは花だった気がする

 

 

永遠を生き続ける霊(いのち)とは異なる

有限の命は一人に一つしかなく

多少、似通った部分はあるモノの

皆が皆、単一で、独立した存在である

それゆえに孤独ではあるが

だからこそ、出会いが輝く

 

 

その日、公園で出会った

雨を待つ、紫陽花も

雨が降った後の紫陽花同様

素晴らしく、素敵だった

 

 

出会い

別れ

命は独りに立ち戻って

また、誰かと出会う

 

三次元世界の、表層に浮かぶ

仮想現実も時には良いモノだと思った