人生は一度きりしかない。そのことを大体の人が理解している。

だから自分の好きなように生きるのがいい。みんなそう言う。


では、しがらみに捉われずに生きている人はどれだけいるだろうか。


俺の周りにはいくらかはいる。そういう人を羨ましいと思ったりもする。

何故羨ましがる必要があるのだろうか。

今、俺は自由だ。政治にも、宗教にも、民族にも、人種にも、縛られてはいない。

ではなぜ俺は自由に生きられないのだろうか。



そもそも自由に生きるとは何なのか。

好きなことをすることだろうか。

それだけではないのはわかる。



目的意識というのは非常に大事である。

この世の中に「やりたくないこと」などいくらでも存在する。

「やりたくないこと」が自分にとってプラスになるのかどうかが大事だ。

自由に生きるということは「やりたくないことをやらない」ことではない。

「自分がやりたいことをあらゆる手段を用いて遂行する」ことだ。


俺には野望がある。そのために就職活動をする。割り切れれば良いのだ。



俺が「やりたいこと」を出来ない理由を自己分析すると、

「能力が足りない」
「親の存在」

だろう。どちらも言い訳にはなりはしない。

能力が足りないのは、寝る間も惜しんで勉強すればよい。親は好きなことをしろと言うだろう。自分たちに金を還元するために高給取りになれなどとは言わない。


つまりは「覚悟」が足りないのだ。出来ないじゃなくてやっていないだけなのだ。俺はこの言葉は大嫌いだが、「モラトリアム」というわけだ。


悪の秘密結社は世界征服のためにどんな労力も努力も惜しまない。

彼らのようにがむしゃらに野望達成に力を注ごう。







どんな結論だ。まあ誰も読んでないからいいか。
俺はツンデレが好きだ。

ツンデレとは言わずもがな、「普段はツンツンしているが、ふとした瞬間にデレた態度を出す様、またはそのように振る舞う人」である。

と世間のほとんどの人は思っているだろう。
まず、この定義自体が「原義としてのツンデレ」とは全く違ったものであると私は考えている。

というか、三次元に於けるツンデレの定義というものが、二次元のそれと乖離してしまったのである。
得てして現実の世界では、所謂二次元よりも物事についてのハードルが下がる傾向にある。
それはなぜか。簡単な話である。ほとんどの人が二次元に対して、こんなこと実際には起こりっこないと認めているからである。アニメの中に完璧な人間がいるからといって現実の世界でも同じようなものを相手に求めるだろうか?答えはノーである。
もちろんこれには例外もいて、二次元で理想を高めすぎて現実にもどってこれない人々もいる。三次元の人間に失望してしまっている人もいる。俺である。

ここで私が言いたいのは、現実世界におけるツンデレとは「ちょっと毒を吐く、もしくは冷たいけど根はやさしい」タイプの人間も含む「広義のツンデレ」であると言える。これが前述した「普段はツンツンしているが、ふとした瞬間にデレた態度を出す様、またはそのように振る舞う人」だ。

では考えてみて欲しい。上の広義のツンデレをツンデレとするのであればドラえもんにでてくるジャイアンもツンデレになる。
普段は弱いものいじめをしているが、いざという時に助けてくれる。これは「映画のジャイアン現象」と呼ばれている。

どうだろうか。ジャイアンはツンデレであろうか。ではどうであろうか。あなたが実世界で「ツンデレ」と称したことがある人間は。ジャイアンなのではないだろうか?

ではツンデレとは何なのか。ツンデレの本質はどこにあるのだろうか。

ここに高らかに宣言しよう!

「ツンデレとは<恥ずかしがり屋で不器用>の究極の形である」と!

ツンデレは恥ずかしがり屋なのである。これは諸君もわかっておられるだろう。
しかし、ツンデレになる人間はそれだけでは終わらないのだ。好きという気持ちを伝えたいのだ。でも伝えられないのだ。ではそこで彼女らはどうするのか。相手に突っかかるのである。
不器用故の悲劇である。そして毎日、本当は好きで好きで仕方がないのに何であんな事を言ってしまったのだろうと自省してまくらを濡らすのである。
それは然ながらクラスの女子を苛める小六男子である。
そう。現実に存在する唯一の本物のツンデレ、それは小学生男子である。

そう考えると男どもがツンデレをこれ程にまで崇める理由も合点がいく。私たちはあの頃の、好きなのに言えないもどかしさ、思っている事と反対の事を言ってしまう幼さに未だに憧れをいだいているのだ。
当然である。人間とは幾つになっても昔の経験を忘れられないものだ。ソースは俺。

さて、私の求めるツンデレの定義はなんとなく伝わったであろうか。
それでは良いツンデレ、悪いツンデレとは何か。

悪い例を上げる。
鷲宮の神社の娘(姉)である。彼女はツンデレと呼ばれている。実際、上のツンデレの定義にも当てはまっている。では何がダメなのか。彼女はデレが多過ぎる、のである。

人生の時間はとても限られている。ではその時間の間毎日毎日よい事ばかりだったらどうだろうか。飽きる、とかそういう話ではない。例え毎日とっかえひっかえ違う種類の幸せがあなたに訪れたらどうだろうか。あなたは幸せに違いない。毎日幸せに違いない。ではそのあなたの明日と、今日は飢餓で今にも死にそうだった子供が急に沢山の食べ物と家と服を手に入れた明日、もしくはスポーツ万能、頭も良くて毎日とっかえひっかえ美人とやりたい放題のイケメン俳優が明日美人女優とするセックスと、今年で35歳、童貞を守り抜き今にもピクシーにならんとするあなたが美人女優とするセックス、どちらが幸せと感じるだろうか。

つまりそういうことである。

涼宮ハルヒという女がいる。
彼女が2シーズンのアニメの中で何回デレたというのだろうか。逢坂大河はどうだ。

これはツンデレに限った話ではない。
人生というのは、我慢して我慢して手に入れたものの方が何万倍も嬉しいに決まっているのだ。
だから世の作家は是非我々に我慢を強いて欲しい。私が求めているツンデレというのはそういうものなのだ。

ここまで読んでくれた皆さんには「鴨川ホルモー」を読んで、ツンデレに浸っていただきたい。

それでは、寝る。
Veronicaです。

日々色々思う中で、忘れないように恥ずかしいことを書いていこうと思います。
Mixiで書いてもどうせみんな聞きたくないだろう、Twitterに書くには長すぎる、ってことを日々書いていこうと思います。
どうせ三日坊主になるのでなんでもいいです。

天狗は南足柄市の最乗寺ってとこにいるらしいですよ。地元です。
それだけです。