『Dr.コトー診療所』の“完結篇”になります、映画版を観ての感想です。
※ ドラマ版含めてめちゃネタバレあります。
映画館での電光ポスター
👨⚕️🩺👩⚕️
👶🍼👼
観賞後はもう、ひたすら暗鬱な気分に打ちひしがれておりました…。「それだけはやって欲しくなかった…」って、ずっと胸の裡で呟いておりました。
事前にいくつかストーリーを予想する中で、これはまあやってこないだろう、これだけは(絶対に!)やって欲しくないな…というのが「コトー自身が発病する」展開だったんですが、思いっきりそこがメインにストーリー組まれてました
今作で、コトー先生は病に、しかも白血病という重病に冒されて、生命の危機にさらされます。
序盤で身体に「青あざ」があるという台詞から、「うわ、重症フラグ立った…」って思ってたら、案の定😓
以降は、悲しみ、苦しみ、自己責め、慰め、絶望、微かな希望…からの、”苦しみを克服しての他者への奉仕” と、切なすぎて予想するのも嫌だったお馴染みの展開が繰り広げられて、かなり冷めた視線でスクリーンを眺めていました。
正直、しんどかった。
👨⚕️🩺👩⚕️
この『Dr.コトー』シリーズ、それほど好きだったという訳ではなく、吉岡秀隆さんのファンなので、一応チェックしていたくらいの感じです。
ただ、この映画の直前に、シリーズ一挙再放送されまして、「一日一話」な感じで物語世界に浸ってましたので、おのずと感情移入の度合いは高まっておりました。
シリーズ見通しての感想は、これも正直、しんどかった…。
感情移入しているメインキャラクターのあの人もこの人も、発病して苦難を味わうので、今回「一日一話」ペースで見ていたこともあって、ダウンした気持ちをなかなか回復できなかった。
特に、リアルで近しい身内が脳梗塞で倒れたばかりだったので、彩佳さんの母親、昌代さんが脳梗塞を発症し、本人も家族も苦難を味わう下りは、かなり見ているのが辛かったです。
👨⚕️🩺👩⚕️
やっぱりどうしても深く考察することが必要だったみたいで、未読だった原作コミックもKindleで購入して、読み始めています。
かなりドラマ版は設定を変更してるようなのですが、最も驚いたのは、ドラマでは柴咲コウが演じた看護師の彩佳さん、既に両親を失くして一人暮らしだということです。
つまり、父の正一(小林薫)さんが役場の職員でコトー先生を誘致したことや、母の昌代さんが脳梗塞を患うことや、おそらく彩佳さん自身が乳癌になって闘病するという一連のシークエンスも、ドラマのオリジナルだったんですね。
👨⚕️🩺👩⚕️
コミックでのコトー先生こと五島健助と、吉岡秀隆演じるコトー先生とは、思っていたより近似値が高くて、まさに吉岡さんが演じるべくして演じたのが、コトーというキャラクターだったんだなと、改めて実感しました。
個人的な想いですが、吉岡秀隆さんって、ほぼ同年代だし、『寅さん』で甥っ子の満男を演じてたこともあって、単なるファンというよりは、「もう一人の自分が俳優として別の人生歩んでくれてる…」みたいな、不思議な思い入れがあります😊
彼の当たり役であるコトー先生に関しても、自分の理想とする医師の姿や、人としての生き方を、期待している所があったのかも知れません。
👨⚕️🩺👩⚕️
ドラマ版のファーストシーズンでは、コトーが島民に受け入れられ、彼が島に来たきっかけになる事件が明らかになり、彼なりの決着をつけるまで、2004年の特別編では、彩佳さんの母が脳梗塞で倒れる件、そしてセカンドシーズンでは、剛洋くんの進学と彩佳さんの闘病が、メインストーリーになりました。
感動したしないはさておき、特にセカンドシーズンは、堺雅人演じる鳴海医師のキャラクター造形はじめ、よくできた構成のドラマだと思いました。
少し違和感があったのは、キャラクターたち、特にコトー先生と彩佳さんが、気の毒に思えるくらいに「反省」したり、「自分のことを責める」んですよね。
例えば、セカンドシーズンで、桜井幸子演じる坂野ゆかりさんが癌を患うエピソードで、科学治療ではなく彼女自身の自己治癒力で癌が消失してしまうのですが、コトーは一度は「余命宣告」してしまったことを、深々と頭を下げて涙ながらに謝罪するんです。
この辺りのコトーの心境は、なかなか共感しきれなくて、同じエピソードは原作コミックにもあるそうなので、どう描かれているのか、興味深く読んでみたいと思います。
👨⚕️🩺👩⚕️
今回の映画版で感じた残念感、一言で表すと、「コトーがあんな重病になるとは、どうしても思えない」ことに尽きます。
人が病になるには、必ず何か要因があると思っています。
食べ物、嗜好品などの生活習慣、生活環境、人生(仕事)の充足度、ストレス、生い立ち、周囲の人たちとの関係、本人の思考癖……などが複雑に影響し合って、不具合があれば不調として身体に現れるのが、病気だと信じています。
穏やかな環境の南の島で、体力的にはハードかも知れないけれど、誇りを持って医療に尽くしていて、人格的にも高潔なコトー先生が……
白血病?
もっと言うなら、「天命があれば人は死なない」とも信じています。
あの南の島の物語を追う中で、穏やかな笑みを浮かべたコトー先生が、おじいちゃんになっても自転車に乗って、住民たちに「先生先生」と慕われている姿は、自分の中では確定路線であり、侵せない神話みたいになってしまってました。
そんなコトー先生が白血病って……。
👨⚕️🩺👩⚕️
観賞後の気鬱があんまり重いので、どうにか気持ちの落とし所はないものかと思っていたところ、ちょうど「キネマ旬報」の『コトー』巻頭特集号が発売されまして、ああ、やっぱこう言うことだったかと、胸落ち致しました。
(ちなみにパンフレットは買ってません。)
中江功監督のインタビューの中で、中江氏はこんな風に述べてるんです。
「最初は、星野さんが不治の病にかかるとか、原さんが余命いくばくもなくなる話も考えたんですが、やっぱりよくある話になる」
と。
つまり、物語世界の必然性として、誰かが病気になるのではなく、ストーリーを盛り上げる為に、作為的に誰かを病気に仕立ててる…と言うことですね。
いや、それが作劇だろ? って思われる向きもいらっしゃるかとは思いますが、ぼくはキャラクターにも、物語世界そのものにも、ちゃんと生命は在って、決して侵してはいけない部分があると思うんです。デスノートじゃないですけれど、世界の必然性を無視して、恣意的にキャラクターの運命をいじると、物語世界は破綻します。
もちろん、「作劇の妙」と言うのも確かにあって、例えば朝ドラの『おちょやん』なんかも、めっちゃ作者の意図を感じるんですが、それがちゃんと「芸になってる」ので、上手いよな~って心から拍手送りたくなるんです。
👨⚕️🩺👩⚕️
さらに中江監督の言葉。
「コトー先生は自分が病気になったときに『本当の患者の気持ちがわかってなかった』みたいなことになる。これに落ち着きました」
ここもねえ、感情移入できなかったシーンの一つで、病を妻である彩佳さんに打ち明けたコトー先生は、苦悶に耐える形相でこの言葉を吐露するんですが、全くと言うほど胸に響いてこず…。
思い出されるのが、2004特別編において、自分の母が脳梗塞で半身不随になると知った彩佳さんが、「今まで患者さんの家族の気持ちを分かってなかった」と涙ながらに語るシーンがあるのですが、あの台詞とぴったり相似形で。
「製作者がキャラクターに”言わせたかった”言葉」の良い例だと、ぼくは判断しています。
👨⚕️🩺👩⚕️
コトー先生の病気以外にも、違和感のある箇所は多かったです。
まずは懐かしの剛洋くん。
医者になれてなかった設定は、まああるかなとは思いますが、成績落ちて奨学金打ち切られるって、あり得ることなんでしょうか? 奨学金は島から出てたんじゃなかったでしたっけ?
神木きゅんも、ちらっと調べただけで剛洋くんの履歴書までゲットできるのが不思議だし、そもそもそんなに親しくなかったみたいだし、「とりあえず神木きゅん出したかった」みたいな感しか伝わってこなかったです。
あと、「参考人聴取」だけのために、東京からわざわざ警察が追いかけてくるって、あり得るのかな?
困難な道であるからこそ、やっぱり剛洋くんには医師への道を歩んでて欲しかったし、作中でわざわざ疑問を呈している、離島医療の微かな希望になって欲しかったです。
(エンディングで、再び医療を学び始めたようなシーンは挿入されますが、どの様に学費を捻出したのか等、詳しい説明はありません)
(あと“ちむどんどん後遺症”の一つで、前田公輝@智にいにい暑苦しかった💦 ちむ子出てくるかと思った。)
👨⚕️🩺👩⚕️
そして、クライマックスの台風のシーン。
そもそも沖縄台風多くて慣れてるだろうに、そんなにひどい大災害だったの? と言う疑問も残ります。
診療所に運ばれてきた怪我人たちも、そんなに重症とは思えないのにパニックを煽るように助けの声をあげ続けて、普通皆さんもっと静かにしてらっしゃいませんか?
あの場面での「必ず全員助けますからね」という決め台詞には、原作者がかなりの抵抗を示されたそうですが、映画製作側にもそれなりの思惑があったようで、予告スポットにも使われてバンバン流れてましたね。
最後の大手術になる、土砂崩れに巻き込まれたおばあさんですが、せっかく避難所に案内されたのに、自分の我がままで自宅に帰ってわざわざ被害に遭ってるので、正直ほとんど同情できなかったです。軽く認知症がある設定のようで、「生還して彩佳さんの赤ちゃんを取り上げて!」…みたいな願望も、持ち辛かったかったです。
白血病でまさに生命の危機にあって、一度倒れても、立ち上がって治療をし続けるコトー先生の姿…。
痛々しくって、見ているのが辛かったです…。
👨⚕️🩺👩⚕️
映画のエンディング、結局コトー先生が助かるのか、はっきり分からないようになってます。
怪我人の治療を全て終えて、彩佳さんの切迫流産の危険もなくなって、二人きりの病室で、コトーは意識を喪って、スクリーンは白光に満ちる…
って、これって完全に、死亡演出ですよね…。
もう、ほんまに、やめて頂きたい😓
場面は転換して、無声のまま、診療所の待合室で、笑顔の皆んなが彩佳さんの赤ちゃんをあやすシーン。
赤ちゃんは歩んで、診療室に向かって、藁草履を履いた”その人”が、赤ちゃんを抱き上げる…
ここも、画面の色調が違っていて、本当に起っている出来事なのか判然としません。よくある「スピリットが見守っている」のではなく、物理的に“我が子”を抱き上げているので、おそらくちゃんと復帰できてるんだとは思います。
この辺りも、曖昧な形で終えるんじゃなくって、ちゃんとはっきり示して欲しい。
個人的な感想としては「不快極まりなかった」と、はっきり記しておきます。
ただ、吉岡秀隆さんはインタビューにおいて、「コトーは倒れて運ばれて、(病を治して)また彩佳さんと診療所に戻ってくる」とはっきり認識されていて、その世界線をぼくもフォローしようと思います。あの”死亡演出”は忘れよう。
👨⚕️🩺👩⚕️
研修医の判斗先生の疑念など、作中で何度か呈示される「離島医療の問題」も、結局解決策も、進むべき方向性も示されないまま、物語は終了します。
製作者側は、島の医療を一人で背負ってきたコトー先生の重責を、視聴者に認識させたいようですが、そうなのかなあ…。そんなに大変なことなのかなあ…。
自転車に乗って、島を巡って、島中の人々の健康を気遣うコトー先生、幸せそうでありこそすれ、苦難の道を歩んでいるようには、どうしても思えないんですけれど。
それは、全ての病を、忌むべきもの、闘うべきものとみなしてしまうと、全ての死は悲劇だし、離島医療の先行きも真っ暗に見えますが、でも、尊厳に満ちた幸福な死というのも必ずあるはずだし、沖縄の“命どぅ宝”という教えにもヒントはある気がする。
吉岡秀隆演じるコトー先生は、心身丸ごと含めての平穏を、患者に伝えるに足る高潔さと精神性を、はっきり漂わせていたように思えます。
原作コミックでは、「島の環境そのものが備える癒し」についても触れられているようで、その辺りもじっくり読み込んでから、また考えてみます。