超犬リープ [SECOND] 2 | 平井部

平井部

平井和正愛好部

神社仏閣巡りレポ
& ほめほめ雑記

 

 

 

 

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 久しぶりに吸った外の空気は、凶意の予感に満ちていた。

 東京郊外の私鉄駅を降りて、小さな噴水がある駅前広場を抜け、学生相手の飲食店や書店が並ぶ商店街へと進む。

 なるべく、人通りの多い道を選んで歩く。行き交う人々の中に、自分を注視する凶悪な視線が潜んでいる気がして、自然と身体は縮こまる。

 あれが起こってから三日間、父が大学の近くに借りているアパートに身を潜めていた。研究が立て込んだ際に利用する別宅として用意したもので、ごく近しい人にしか知られていない。放置されがちな自分のことを、父は申し訳なく思っていたようだが、気兼ねなく“趣味”に没頭できる一人っきりの夜を、ワタルは決して嫌いではなかった。

「ワタル、すまない、今日も帰れそうにないんだ」忙しさの合間を縫ってかけてきてくれる、電話から聞こえる父の優しい声を思い出して、また涙が溢れてくる。これからはもうどんなに待っても、父さんからの電話がかかってくることはない。

 買い置きのカップ麺はすぐに尽きて、丸一日以上何も食べていない。空腹は耐え難いが、それ以上に大きい悲しみの塊が、胸につっかえている。コンビニで冷たい食料を買い込む気にはなれないし、買ってもきっと喉を通らない。

 これから、どうすればいいんだろう……

 波のように押し寄せる、不安と悲しみで、小さな胸は潰されそうになる。黒縁のメガネを外して、右腕で涙を拭うと、きっと顔を上げてワタルはまた、買い物客で賑わい始めた夕刻の商店街を歩き出す。

 

 入り口の守衛に簡単に会釈をして、大学の構内に入る。馴染みの場所で、見咎められないことは分かっているし、もしもの時には言うべき言葉も用意してある。

「ワタルくん! どうしてたんだ!」

 直接研究室のドアを開くと、幸運なことに柴山が居てくれた。

「心配してたんだよ。事件に巻き込まれたんじゃないかって。今までどこに居たんだい?」

 久しぶりに触れる人の温かさに、緊張しきっていた心が緩む。三十代の柴山はS大学の教授である父の助手で、子供好きなのか忙しい父に代わって、プライベートでもよくワタルの相手をしてくれたりする。数少ない、心を開いて話せる大人の一人である。

「ところで、先生は? 今まで一緒だったんだよね?」

 助けてほしい、かくまってほしい……と言いかけて、口をつぐむ。助けを求めて来てはみたものの、どこまで話すべきなのか、未だ結論が出せずにいる。

 柴山も、父の“表の顔”しか知らない。最後に父を見た“ラボ”の存在も知らないし、極秘で関わっていた研究についても当然知る由もない。彼の口ぶりでは、父・日向 透(ひむかい・とおる)教授は「行方不明」扱いになっているらしい。事態がどのように推移しているのか、ワタルには想像すらできない。

「とにかく無事でよかった。落ち着くまで、そこでゆっくりしていると良い」

 全く要領をえないワタルの返答を、混乱の為と受け取ったらしく、それ以上追及するのを柴山は控えてくれた。背負っていたカーキ色のリュックを大切そうにお腹に抱きしめて、ワタルは応接コーナーの大きいソファに沈み込む。柴山が入れてくれたミルクティーの甘さをゆっくり味わっていると、追い払いたくても追い払えない、凶夢そのもののあの日の出来事が、次々と蘇ってくる……

 

 

 父さんからの不穏なメールが送られてきたのは、三日前の夕刻だった。

「航(わたる)、緊急だ。今すぐ家を出てアパートに行きなさい。しばらく隠れているんだ」

 いつまで? 何かあったの?…という問いかけに、「父さんが迎えに行くまでだ。心配するな」と、逆に心配をあおるような差し迫ったメールが返ってきただけだった。

 胸騒ぎを覚えながらも、慌ただしく出発して駅の改札をくぐった頃、再び携帯端末に着信があった。

「エルをさがせ」

 エル?

 疑問符を浮かべながら、父さんの身に何かあったことを確信する。逡巡を振り切って、“ラボ”へ向かうアパートとは反対方向の電車に飛び乗る。

“ラボ”は、千代田区のありふれた雑居ビルの地下2階にある。セキュリティは万全で、ビル入口を含め、計3ケ所を通過しないと本丸である“ラボ”にはたどり着けないのだが、入口のセキュリティが解除されていることに気づき、ワタルは不安で身が凍りそうになる。

 階段を使って地下2階に下りる。やはり廊下のセキュリティも機能していない。開いたままになっているスライドドアの影から、廊下の奥をうかがう。“ラボ”の入口に、暗色のスーツを着たカニを思わせる体躯の男が立っており、慌てて身体を引き戻す。

 しばらくして、カニ男は動き出し、足早にスライドドアを抜けると、エレベーターを使って階上へ移動する。深呼吸して、勇気を振り絞って、ワタルは足音を忍ばせながら“ラボ”へ向かう。

 室内は壁一面に広がったディスプレイの明かりのみで薄暗い。身をかがめて、様子をうかがいながら、ゆっくり“ラボ”の中に入る。ぬるっとしたものに足をとられる。何か赤黒い液体で、床に大きな水たまりができている。

「父さん!」

 思わず叫んで駆け寄る。赤黒い水たまりの中心に横たわった白衣の人物は、まぎれもなく父、透だった。

「父さん! 父さん!」

「わたる……ダメだ……に、げろ……」

 かすれる声でそれだけ言うと、透の意識は途切れる。

 声に気付いたのか、奥の部屋で何かを物色していた男が姿を表す。浅黒い、ほお骨の高い顔に驚きの表情を浮かべると、切れ上がった眼で射すくめるようにワタルを凝視しながら、ゆっくり近づいてくる……

 

 

「……タルくん、ワタルくん」

 軽く肩を揺さぶられながら、呼びかける声に意識を引き戻される。

 自分が今どこにいるのか、思い出すのに時間がかかる。緊張しきっていた心が緩み、しばらく寝入ってしまっていたらしい。

「気持ちよさそうに寝てるのに、ごめんねワタルくん。実は、警察の人が来てくれてるんだ。君のこともお父さんのことも、とても心配してる。きっと力になってくれると思うんだ」

 そう言って、柴山は背後に立っている男性をワタルにも見えるように身体を反らす。

 悪夢の続きそのままのように、ほお骨の高いその男は、笑みのつもりなのか切れ長の目を奇妙に歪めて、じっとワタルを見つめている。

「いやだ、いやだ!」

 ワタルは首を振りながら叫ぶと、必死で柴山の腕にしがみつく。

「ワタルくん、怖がることはなんだ。手がかりを探るためにいくつか聞きたいことがあるらしい。もし危険がありそうなら、安全な場所で保護してくれるって」

「こいつが、こいつが父さんを殺したんだ!」

「え?」

「日向 航くんだね。怖がるのも無理はない。きっと怖い思いをしたんだろう。でももう大丈夫、私たちがちゃんと保護してあげる。一刻も早く君のお父さんを見つけられるよう、協力してくれないかな」

 暗鬱な浅黒い顔に笑顔らしき表情を浮かべて、その男は歩み寄ってくる。

 

 

 

続く