ブログネタ:小さい頃の夢は何だった? 参加中「普通の大人になること」
ですね。8歳の頃からの夢です。
人に暴言を吐かない
物に八つ当たりしない
石を人に向かって投げない
産んだ子どもを捨てない
1日中は寝ない
食事は毎日作る
人のものを勝手に捨てない
人を殴ったり蹴ったりしない
人が怪我をしたら病院に連れていく
などなど。そういうことが“当たり前”に出来る人になろうと。それをずっと願ってました。
まぁ歳とってから解ったけど、意外とそんな“普通の大人”って世の中にそんなに居ないんだね、驚いたよ。
小さい頃は周囲と比較して、なんて自分は気持ち悪い人間なのか、人間じゃないんじゃないか、こんなことを考えてる8歳が世の中に居るとは思えない。と悩んでいたけれど。
あれ、思ったより、世の中は善や幸福で溢れてるわけじゃないな、と知ってからは楽になった気がする。
芦田愛菜ちゃんが出てる「明日、ママが居ない(芦田愛菜が居ない、と韻を踏んでるのだろうか)」がなんだか大問題になってるようだけど、会見で「子どもをペットのように扱う表現をやめてほしい」と流れた時に。
「ペット扱いなら、まだ愛されてるほうじゃないのか」と真剣に考えてしまった。
あのドラマをそういう風に捉えるのは変じゃないのか。明らかに「普通の児童養護施設」とは違いますよ、という意図が最初からあったように思う、演出の随所にそれが出ているし、施設長自体「他の児童養護施設とは一線を画している」って言ってたじゃないか。
台詞のまわしかたも大袈裟だし、立ち回りもドラマというよりは“舞台演出的”だ。
「金田一少年事件簿」みたく「劇場型ドラマ」なんじゃないの?
名前を捨ててあだ名で呼び合う演出もやめてほしい言ってたけど。なんでだよ、コインロッカーに捨てられてた子どもに役名で固有名詞付けたら、同じ名前の子どもが嫌がるだろうという配慮なんでないの?
よく、わからんな、
放送倫理ってなんなんだ。基準が意味不明。
小さい頃、私はとにかく周囲と自分とを比較していた。
“自分は普通じゃない”と中二病的に思う時期がアタシにもあれば良かったのだけど、そういう意味じゃなかった。
“自分はこんな枠にはおさまらずもっと素晴らしい人間のはずだ”なんて一度も思ったことはなく。
“周囲に比べて明らかに劣っている箇所が多すぎる”と常に考えていて。それを埋めるのに必死だった。
私が他人に迷惑をかけたり、問題を起こしたりしたら、すぐに親戚に言われてしまう。
「ほら、やっぱり! お母さんに愛されてなかったからよ」
絶対に嫌だった。そんなこと言われてたまるかと思った。私は自分の存在でもって「母性が無くても人間は本人の努力でまともに育つ」ってことを証明しなきゃならない。
語彙力が無くて、それは漠然とした想いだったのだけど。10代後半で村上龍さんの小説を読んでから、それは言葉になって形を得た。だから私は氏の作品から逃れられない。命の恩人だ、読まなかったら自殺してた。
最近、くだらない比較が目に付いて、呆れることが多い。
あの店舗のほうがうちより忙しい、だの、逆に、内容が濃いからうちの店舗のが大変だのから始まり。
あいつに比べたら自分はまだマシだとか
私が一番忙しく、一番大変で、他の人は楽してる、ずるいだとか
……すげーなぁ。なんでそんなに自信あるんだ。何と比較しようが自分に都合のいいように軍配あげれるんだね、ある意味すごい才能だと思うよ。
反対なようでリンクしてるのが実は嫉妬だと思う。
羨ましい環境にある人を単純に「いいなぁ」と言えないのだ。自分が勝たなきゃいけないから。何かしら相手に落ち度を作らなきゃならない。生意気だとか、自慢したいの? とかそんなの大したことない、もっと上が居るよだの。
その人にしてみたら「日常に起きたことを話題としてふってる」だけなのに、なんとかして乏しめなきゃならないから足を引っ張る。それが嫉妬なんだろう。
比較は負けを認めた時に、初めて意味を為す。
あの人はすごい、敵わない、憧れるな。
ああいう人間になれたらいいなぁ。
どうやったらなれるだろう?
そうして、憧れの対象と自分を比較した時にだけ、人は成長できる。
自分を「勝ち側」においてる比較は意義が無い。そんなことしてたらずっと、あさましく、堕ちていくだけだ。