Teによる化学反応大学日記

Teによる化学反応大学日記

ただ単なる備忘録の予定。

ただひたすらに備忘録として出来事を綴るものである。
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思った以上の速度で日々が過ぎて生活に余裕がなくなる一方で、感覚や感情は研ぎ澄まされていくという不思議な状態に入っています。思うことが多過ぎて、今までは飲み込めていたはずのことでさえ、ふとした瞬間にこぼれてしまいます。


音楽ストリーミングサービスSpotifyを導入しました。無料では「あの曲手元にないけどどんな曲だったっけ」というリファレンス的使い方(と捨てアカなのでToneDenとかの認証用)をしていたのですが、今回は学生ライセンスで課金をするという前向きな使い方です。これまで音楽ストリーミングサービスを使わない理由を探しては自分の目の前に並び立て続けていたのですが、使う理由というのをあまり深く考えたことはありませんでした。


少し前に思い立ってiPhoneに入れる音楽の整理をしました。嵐のライブが近いので嵐の曲をとりあえず入れようとしたら、ライブラリを変えた影響で一回全部リセットされちゃったのが主な理由です。

ただ、今まではDJする前に選曲したものを全部入れて「どういう風にプレイしようかな」というのを考える用途でiPhoneを使っていたのですが、選曲が下手なのでそんなに何回もDJするわけじゃないのに1300曲くらい1回のDJごとに選んでしまっていて、正直シャッフルしたところで何の参考にもなりませんでした。


それならばと「どういう音楽なら気分に左右されず、とりあえずこれを聴くかと思えるのか」ということを考えながら、ひとまずナナシス楽曲とevery♡ingのアルバムをiPhoneに転送しました。私の音楽ファイルは(サンプル音源や自分で作ったブートレグ以外)全部ハードディスクに入っていて、ハードディスクをつないでいる間は自分のライブラリから音楽が聴けるという状況なので、とりあえずハイスイノナサ『想像と都市の子供』を適当に流していました。正直あまり気分ではなかったのですが、聴いてるうちにその気になってきて、結局そのまま『動物の身体』と『街について』も聞きました。


そこからわかったのは概ねマスロック/ポストロックと言われるものならいつ聴いてもそれなりに楽しめるんだろうということで、ハイスイノナサ、scool food punishment、the cabs、LAMAをまずは転送。今更ながらSpangle call Lilli lineが入ってないと思ったのですが、SCLLは曲数が多すぎて容量を圧迫しそうなのでやめて正解かもしれません。あとは今の気分というか流れ的な感じでダブが聴きたくなることが結構あるので、初期のTAMTAMの曲たちを入れました。


実際のところ何をなぜ入れたかというのが大事なのではなくて、なぜこのラインナップなのかというところが話としては大事で、ここがSpotify導入の話とつながってきます。


最近「これだ」と思えるバンドやミュージシャンとの出会いがめっきり減ってしまい、聴く音楽自体が狭まってきました。それはもしかしたら年をとって多くの人が老害と化してしまうのと同じように、感性が凝り固まってしまったのかもしれません。あるいは音楽を曲がりなりにもたくさん聴いてきたので、その分感性が研ぎ澄まされていき、精査しすぎるのかもしれません。いずれにしても、新しい音楽との出会いより古いものに立ち戻って「この頃の音楽好きだなあ」となることが増えてきて、少し危機感を感じ始めました。上のラインナップを見てもらえればわかる通り、自分の中で未だ現在進行形でも実際は時が止まっているような感じがしてきます。


10代の頃は信じられなかった「今の音楽には目を向けず、ひたすら自分たちの青春時代の音楽にすがる」という姿が少し見え始めてきました。それはきっと仕方のないことで、音楽のために湯水のように使えた時間がどんどん削られる一方で音楽は積み重なっていくし、時間がないから確実性というところで知っているものを手に取るのは不思議じゃない。しかも思い出補正という、あの頃の自分がどうだったかがその作品に付加されているので、余計に手を取る理由ができる。


アニソンは新しいものがいっぱい出ますが、アニメありきなのでアニメを見ていれば勝手に耳に入ってきます。それに対して、J-Popの類は自分から触りにいかないとなかなか耳に入ってこなくて、昔のルーティンにあったテレビCMの曲を調べるというのもCM自体を見なくなっちゃってなくなりました。


でも、それじゃダメだなと。


そういう手に届く範囲にない音楽に対してとにかくアクセシビリティを上げて、新しい音楽を探しに行く環境を作らないとこのままでは自分が腐ってしまうような気がして、どうしようかなと思ったときに目に入ったのがSpotifyでした。


本当は全て買って家で常時起動させておくPCに全部放り込んでおけばいい話ですが、今そんなPCは手元にないし何よりいちいち買っていると破産まっしぐらですよね。レンタルCDにも品揃えに限界はあるし、店舗自体がなくなりつつあるので行くのも結構めんどくさい。手元にある音楽ファイルを再生するのすらめんどくさがってる現状では現実的じゃないなと。




導入して数日経ちますが、手元にデータもCDもない音楽が聴けるっていうのはすごいです。アルバムのリード曲を1曲聴いて微妙だった人の作品が別の曲によって好きになったり、全く知らなかったけど名前をよく聞くので聴いてみた作品がめちゃくちゃ良かったり。DJをしなかったらこれでいいのかもしれないなと少し思いました。


ただ少し気にかかっている部分もあります。

すでに持っている音楽でもSpotifyにはないみたいなことがちょくちょく起きていて(ゆるめるモ!のようなぴ先生のソロとかTAMTAMの古いアルバムとか)、ここにある音楽が全てじゃないんだなというのもちゃんと頭の片隅に置いておかないと、それはそれで不健全な状態になるなと。あくまでアクセシビリティが最大の利点だと思っていないと飲まれそうな量の音楽があるので気をつけていきたいです。


そういえば最近CDを買わなくなった理由にも気付きがありました。クレジットカードが使えるようになった、もう自分がブックレットを見ることがほとんどない、バックアップを十分にとっている、単純に配信の方が安い等なのですが、何よりもワクワクして封を開ける喜びみたいなのが自分の中から消え失せていることだと思います。


買いに行くのがめんどくさい、ボタンひとつで家で買ってすぐ聴けるのにわざわざ店に行く理由とは何なのか、封を開けたらパッケージがゴミになる。開けても取り込むかCDデッキに投入しないと聴けない。


別にCDが嫌いなんじゃなくて、単に今の生活スタイルに合ってないんですよ。高校生の頃はWALKMANユーザーでiTunesなんか使ってなかったし、ソフト上のmoraは重いしカードもないし、バックアップもおぼつかなくてCDを買うのが一番合っていました。レンタルCDもCD-Rに焼いておけばバックアップくらいにはなるし、やはりCDがよかったんです。


でも今はそうじゃない。付加価値(DVDや特典等)がないと「盤で買う意味とは?」となってしまいます。「音質ガー」と言われても、そういうのが重要な音楽はちゃんとflacやwavの形でもリリースされますし。今回山崎エリイさんのアルバムもMVのメイキングが欲しかったので買った具合でした。


物質性は所有欲を満たすけど、それ以上でもそれ以下でもない。何を買っているかというところに立ち戻った結果、わざわざCDで買うものは別の何か、たとえばブックレットの作りが音楽の一部になっているだとか、オーディオドラマがついてくるだとかをプラスして買っているんだなと。






あと、最近のことで言えばインスタグラムの使い方を少し変えました。ストーリーは特に何も考えず投稿していますけど。


私がインスタグラムを使い始めたのはもう5年以上前の話です。まだAndroid搭載のスマートフォンを使っていた時代にTweetDeckのアプリが使えなくなってしまいました。画像投稿も記憶が正しければTweetDeck経由でtwitpicに投稿したものを引っ張ってくる形だったので、それができなくなったときにどうするかと考えた結果がインスタグラムの導入でした。


そういう経緯があってちょっと前まではTwitterの補助ツール(サムネイルが表示されなくなった後も)として使っていたのですが、サムネは表示されないしイマイチそういうツールとしては使い勝手が悪いし、何よりTwitterの画像投稿が楽になっているのでわざわざインスタグラムに上げる必要もないなと今更ながら気付いたのです。


でも別にインスタグラムが嫌いなわけじゃなく、むしろ必要最小限な画像がそこにあるという意味でTwitterよりログとしての力は強いのかもしれないなと。Twitterはすぐ漫画のキャプチャーを貼って会話したりするので、無駄な画像もたくさん生成されていくし、あの時のあの画像みたいな探し方はしないんですよね。


それにTwitterはありがたいことにフォローされる数が結構多くなってきていて、迂闊なことが言えなくなってきているというのもあります。私より多い人なんていっぱいいますけど、どうやってその辺のことを考えているのだろうと最近よく考えます。嫌いなものや嫌なこと、苦手なものについてはなるべく言わないようにしてきたのもあってそこはどうにかなっているのですが(その分ストレス過多で独り言をつぶやくアカウントは爆発してきていますが……)、ポジティブなものでさえ思わぬ反応が来たりして、気分のいい時はそれが心地よいのに対して、そうでもないときはちょっと気が沈みます。


なので、ポジティブなものでもある程度長いものはインスタグラムに書こうと思いました。主には物理的に買ったもののことをある程度しっかりと書くといった具合です。素で読むとちょっと恥ずかしいような文章も、何となく画像が隠してくれるような気がして素直に書けます。実際そこそこの長文を読もうという気分でインスタグラムを開く人なんていないと思うので、隠せているのかもしれません。


Twitterを見ていて疲れることがまた増えてきたので、そのうち本当にアニメや声優さんのツイートしか見なくなってしまうかもしれません。最近Twitterを見ていて楽しいなと思う瞬間は「ゆうがなおねえさん」のパブリックサーチを見ることだけです。若者がインスタグラムやTik Tokに流れていったのもようやく身にしみてきたような具合です。


あとはなんだろう、Base Ball Bearの小出祐介氏と元チャットモンチーの福岡晃子氏のマテリアルクラブが衝撃的に良かったとか、Coaltar of the Deepersの新しいEPも良かったとか、山崎エリイさんのアルバム『夜明けのシンデレラ』に心を掴まれたとかそういう感じです。修士論文は進捗があまりありません。先生は私に優しいのであまり怒らない(ちゃんと進まなかった理由を説明したりするから怒れないのかもしれない)し、自分は甘いのですぐ別のことを優先してしまいます。


そうだ、いつになるかはわかりませんがそのうち何かがあります。面白いことになっているので私も楽しみ。あと弊イベント「#踊るかフェス」の次回企画書も書き上げました。本当は週末にしようと思っていましたが、流石にそんなことを考えている余裕はなく次回も平日で、今度はじっくりやる回になりそうです。ちょっと3月が待ち遠しいです。


こみっくがーるずという作品があります。まんがタイムきららMAXにて連載中で、今年の4-6月にアニメ化されました。


かなりざっくり言えば、主人公である萌田薫子ことかおすが、福島の実家を出て漫画家だけが住む女子寮に入り、人間としても漫画家としても成長する姿を描いたコメディタッチの物語です。もちろんほかの登場人物も成長や変化をしていくのでその様も描かれますが、やはりメインはかおすだと思います。


こみがのアニメは構成がしっかりしていて、笑えるところやほっこりするところと、悩むところや葛藤するところのバランスがよく、見た人次第で心に残る話が違ったと思います。最終話のかおすが頑張る姿に自分を重ねたり、琉姫が読者の感想に触れて「描いててよかった」と思うところで感動したりと、きらら作品ではアニメ化された後のエピソードに多い展開が12話中の各所にちゃんと詰め込まれてて良いアニメでした。


そんなこみがのアニメの第8話が「わんにゃんにゃんわんまつり」というふざけたタイトルなのですが、話自体はとても胸が締め付けられる内容で、私は未だに1回しか見られていません。


ざっと書くと、かおすの担当編集の編沢さん、担任の虹野先生、寮母さんの3人は同じ高校の漫研の先輩後輩で、集まって飲み会を開くところから始まります。


飲み会はかおすのことは好きで才能も見出だしている編沢さんが、かおすへのダメ出しが厳しすぎたかと自己嫌悪に陥ったり、昔の漫研の冊子を引っ張り出したりと和気あいあいとした空気で話が進んでいきます。


この大人組3人は(寮母さんは個人的に百合漫画を描いている設定ですが)外に向けての漫画はもう描いていないんですよね。同人活動でも描いていない。だからこそ、かおすたちにはがんばって続けてほしいと考えているし、その裏返しで編沢さんはかおすに強く当たってしまうわけです。


そのあと寮母さんの部屋で2次会を開き、結構酔っ払った編沢さんがかおすの様子を覗きにいきます。すると(予想に反して?)深夜アニメを見ずに頑張ろうとするかおすの姿があり、それを見て編沢さんは涙を流しながらかおすに優しい言葉をかけてあげるという感じです。


この8話だけエンディングがメインキャラ4人のイラストから漫研の3人に入れ替わっていて、しかもそれの心憎いところは、高校時代の3人から大人になった3人が肩を組んで笑顔でいるところまでちゃんと描かれているところなんですよね。メインキャラ4人ではできない時間の流れをそこに作り上げている。


そこにはこの3人の当時の夢と、道は違ってしまったけどそれぞれの思うところに立って漫画に触れ、未だに仲良くしている現在が息づいていて、漫画を描き続けるかどうかという彼女たちのモラトリアムでの葛藤を推し量らずにはいられませんでした。


また、別の話で本編中にかおすたちが進路について書く話があり、漫画家以外なら何だろうかと話し合うシーンがあります。これは漫画家が一番に据えられていることが前提になっていて、それ以外がifのルートになっているんですよ。


これは彼女たちが楽観的というわけではなくて、漫画家になることを信じて疑わない自信となってみせるという信念のようなものがそこにある。そこは結局プロの漫画家にならなかった漫研の3人の現状と対比になっている気がしています。



ちなみにこの話は原作に続きがあって、書いた進路希望表を元に三者面談が行われます。察しのいい方はわかるかもしれませんが、翼の母親が降臨します。めちゃくちゃ面白いし、親の思いみたいなものにも触れられる話なのでぜひ読んでください。



話を戻すと私は高校時代「25で死にたい」と言っていた人間だったのですが、それでもそれなりに将来の夢みたいなものはあって、その夢に折り合いをつけるなんてことを考えもしませんでした。


そんな私ももう24歳になり(放映時は23でしたが)、当時思っていたライターという夢は諦めながらも、やっぱり音楽は好きでDJイベント等で自分なりのアプローチはかけているんですよね。


これは自分に一番身近なものでかつ大切なものだからこそ適切な距離を取ったということで、悪く言えば諦めと妥協なんですよね。よく言えば知識の増加で現実が見えてきたということなんでしょうが。


まだ前のハンネでライブレポやディスクレビューを書いていた頃は、周りの人も褒めてくれるし、自分でももしかすると私は文が上手いのかもしれないとどこかで思っていて、これならライターも行けちゃうんじゃと思っていたんですよね。


そういう「自分ができると思っていることはなんでもできる気がする」という無知だからこそ飛び込んでいける無鉄砲さと、そこから生まれるチャレンジ精神にそろそろ折り合いをつけなきゃいけない年齢になったんだなと気付いてしまったんです。つまり私も大人組の方にもう沈んでしまっている。


自分なりのアプローチと言いながら選択肢がどんどん現実的になっていることに気がつかないまま「自分はこれがやりたい」と考えて都度選択していたのか、あるいは現実的になっていく思考に知らないフリをしていたのか。とにかく、まだどこへでも行けると思っていたのに、知らない間にもう見える景色が狭くなってしまっていて……。


でもまだ行けるんじゃないか、本当はまだやれるんじゃないかと、無知ゆえの衝動と決別しなきゃいけない事実と向き合えなくて、こみがアニメ8話が見られなくなってしまったんですよね。




同じようなものを最近感じたのが「サンボンリボン - 14歳のサマーソーダ」という曲なんですけど……。


というか、この曲で感じたものがフィードバックの形でこみが8話に戻ってきたというか。8話でぼろぼろになった理由を視聴時点でなんとなくは掴んでいたけど、上で書いたようなしっかりとした言語化は正直できてなくて「もう若くないんだな」くらいの感じだったんですよね。


歌詞はインターネットを開けば出てきますが、2番のAメロのここ。



別に難しく考えた末じゃなくて

胸騒ぎとか向日葵とか

いつのまにかもう消えていたんだ

(サンボンリボン - 14歳のサマーソーダ)



歌詞の解釈をちゃんとしてるわけではないんですが、14歳の時の夏の思い出が遠くなっていくような内容だと私は思っていて、14歳の歌ではなく、20歳前後のモラトリアム期の歌だと思うんですよね。


14歳、思春期の頃の胸をスーッと駆け抜けていく感情や情緒は本当に気付かないうちに消えて行っちゃって、しかもあれ?と思ったときには思い出すことすら難しくなってる。確かにそこにあったことは忘れずにいられても、もう自分の中にその感覚はない。いつ失くしたのかもわからない。それは誰かが言っていた「人は大人になるんじゃなくて、子どもでいられなくなるんだよ」という言葉そのもので。


でも「待って ロンリー・フォーティーン・ソーダ」というフレーズの通り、やっぱりそのときの感覚って捨てきれないんですよね。味のないガムになっても何となく捨てられなくなってる。


はっきりと感じられるほど無邪気じゃないし、でもそれを諦めきれるほど大人でもなくて、幻影をどうしても追いかけてしまう。もう若くないと口では言いながらも、まだイケるとどこかで思っている自分もいる。


これは趣味に全力の大人が言う「何歳でも青春できる」というのとは全然違うんです。むしろできるものじゃなくて何をしても結果青春になってしまう、そういう無自覚の青さのことで。


そろそろそういう青さともちゃんと向き合って終わらせなきゃいけないんだなと。


そんな話。




ナナシスの幕張2日目に行きました。

声優さんが歌う楽曲は好きでも、コンサートやイベントには自分が出したい金額と内容が釣り合っていない感じがあってそんなに興味がなかったんですが、幕張はとても満足で正直今でも引きずっています。


いつのまにかしっかり自分の心に根を張ったコンテンツであり、むしろ何をそんなに敬遠してたんだろうと思うほどです。こういうところが良くないんですよね、私。流行ってる理由とかが納得できないと入っていけないくせして、あんまり調べたりしない。


歌詞に出てくるワードやテーマが結構好みで、「14歳のサマーソーダ」をはじめサンボンリボンの楽曲もそうだし、「4U - メロディーフラッグ」がとにかく全部好き。


「メロディーフラッグ」は自分に今不足している女性Vo.のギターロックで、しかも2番に入って音数がグッと減る感じがめちゃくちゃ好きです。ここギターのネックも持たずマイクを掴んで歌ってるのかな〜とか思うと余計に。歌詞も好き。


なんというか、アニソンやダンスミュージックに触れながらも、ここに来て原点回帰する自分がいて、疾走感あるギターロックもちゃんと好きだったよな〜とか、歌詞の言葉のチョイスも好きな要素に入ってきてたよな〜とか。いろいろ思い出すことが多くなってきました。


捨てて行かなきゃいけないところは捨てて、持っていけるところだけは全部持っていかないとなと思わされる最近です。



フォカまぜとbasspotの間にあった駐車場での雑談から気付いたことと常々思っていることがリンクしそうなのでそのことを書こうと思います。雑感なので特に主張があるとかではなく、ダラダラと思ったことを書いたので、主旨はあんまりないです。


どういう話をしたかというと、声優さんやアニメ周りの楽曲、アルバムの形などかなり深く掘り下げて話をすることができまして「そうだよな、一人で聞いて楽しんでるだけじゃ見えてないことだってあるよな」と改めて確認できました。


というか、素養のある人と話をするのはめちゃくちゃ面白くて、中高時代にブログを立ち上げわざわざ誰が読むかわからないディスクレビューを何周も聞いて書いていた頃のことを思い出しました。今から思うとあれは「表現の始まりと向かう先」という流れの中に自分を放り込みたかったんだと思います。表現できないからこそ、他人の創作の中に入っていく行為が必要だったんだと思います。



その中で「いい曲が入っているけど、アルバムとして評価できるかというと、去年や今年は評価できる作品が思い当たらない」という話になりました。言われてみれば東山奈央さんの『RAINBOW』も全体通していいかと言われるとそこは微妙で、途中で再生を止めてまた再開しても何の差し支えもない作品だった気がします。


インディーズで精力的に活動する方もいるし、メジャーでも限りなく自由な人もいるので一概には言えませんが、私みたいな人間が手に取る作品というのはやはり大手レーベル(LantisとかKING RECORDとか)からリリースされる今をときめく声優さんのものがほとんどです。こういう言い方は元も子もないですが、商業的側面をどうしても無視できないものなんですよね。


売るためにはやっぱり売れ線がいるのでシングル曲が入ったり、ターゲットが好きな曲を否応なしに入れたりするはずですが、よっぽどの世界観作りをしていない限りは先にアルバムコンセプトを決めちゃうとそこから浮きがちです。それは声優さんだからというわけではないけれど、やっぱり外注してる限り起こりうることで、仕方のないことだとは思います。


ただ、こういう1枚としての完成度が下がっているという話は、別に声優さんのアルバムだけじゃなくて上記と同様の理由でポップスのアルバムにも散見されるし、最近はロックバンドにも増えてきているような気がします。


これには共通する理由があると思っていて、それはメディアの変化とミュージシャンの作品への向き合い方の変化なんだと考えています。


もう何度も言われている話ですが、配信のプラットフォームが整備されてもう随分経ちます。形やモノに縛られないそれは、CDとは違ってそれなりの即時性もある(それなりと言うのはbanvox氏が一時期言っていた話で、なんだかんだすぐは出せないという意味です)し、なんならサクッと試聴までできちゃう。しかも好きじゃない曲は買わなくてもいい。


それに対してCDやレコードはそこに行かないとどうにもならないし、試聴がデフォルトでできる作品も限られていたりします。加えて、割って持って帰るわけにはいかないので、気に入らない曲があってもそれも一緒に持って帰らなくてはなりません。


まあ買う、あるいはレンタルするところまで行ったとして、パソコンに取り込んで好きな曲だけピックアップする行為が発生しても不思議ではないし、そうなると配信とやってることは変わらないので、もしかするとiPodやWALKMAN、もっと言えばMD、カセットテープというものの登場に起因しているのかもしれないですね。


いずれにせよ、なんか微妙だなと思った曲はプレイリストからすぐ弾かれる。これは昔の私の話ですが、ヒップホップのアルバムによくあるskitやインタールードのような曲は取り込んだ上でWALKMANには入れていませんでした。


こういうことが当たり前になると、1枚というフルアルバムでは40分を優に超える時間に対して集中力が持たなくなるはずです。全曲好きだとしても、やっぱりその前後のことは考えられなくなっていく。


それが悪いことかと言われると、快楽をいちいち好きな曲で感じられるということと違わないはずで、決して悪くはないと思います。音楽は別に芸術としての側面だけではないはず、いやむしろ起源を考えると芸術的側面を楽しむ方が後のような気すらします。


そういえばPeople In The Boxが昔80分弱というCDギリギリの長さで、しかもCUEシートなしの1トラックのアルバムを出していましたね。あれはそういう「単曲で気持ちよくなるドラッグ的な用法」へのアンチテーゼだった気がします。



そしてもう一つが、これはあくまで私の観測範囲内の話で、アルバム制作の流れにコンセプトや1枚としてのテーマを後付ける傾向が見られているんですよ。「曲を並べてみたときに見えてきたものが〜だったんですよね」と答えるインタビューがかなり多くなっている気がする。アルバムが曲の集合体でどう現出するかという結果を見てそれを考えてるということは、頭から「こういうものを作るぞ」というのがないことを逆説的に意味していて、そりゃまあ1曲1曲は良くても1枚としての完成度はある程度になりますよね……という感じです。


そういう制作スタイルが流行ってるのかなんなのかはわかりませんけど、妙に「自分のやりたいことだけやりました」というものが多くて、そのやりたいことが1曲1曲への執着になっていて、それがクロスオーバーだったりルーツへの回帰だったりするんですよ。


回帰はまだしもジャンルのクロスオーバーは自分の中“では”新しいこととしてそれを打ち出しがちで、そこに個人的な新規性があっても、やっぱり大きく見るとどこかで見たような気がするものが多くてオリジナリティすら消え失せていってて。本当にそれがやりたいことだったの?と思わされることも増えました。




何が言いたかったかというと、ちゃんと1枚としての意味がある作品が恋しくなってきましたということです。2020年になる前のこの時代に、何が80分以内に収められるのかというのが見たい。そうじゃないと1枚のアルバムとしてリリースする意味がどんどんなくなっていくような気がしてそれは寂しいなって。


悠木碧さんの移籍前みたいな強烈な作品がもっとあればいいなと思います。