イメージングのお話。
仏教では
霊界には階層があるとされていて
佛、如来
菩薩
明王
天部
水子は、地蔵菩薩に救われるとされています。
地蔵菩薩と観世音菩薩は同じ菩薩界の方で
地蔵菩薩が土地や人々の生活にまつわる救いをされる一方で、観世音菩薩菩薩は(観音様)、一切衆生
の救いを求める声を聞いてすぐに救済される、その様な菩薩です。
私は、幼い時から観世音菩薩(観音様)のほうが馴染みがありましたし、
他の困った事象にも
南無観世音菩薩
と呼ぶ事をして救われたことがあったので、
水子供養にも南無観世音菩薩
と唱えさせてもらっています。
馴染みがある、たったそれだけの理由ですが。
なんだか、よく知っている様に説明しましたが、
以前
私はなにせ仏教系宗教に親に連れられてお寺などには、青春をほっぽり出して通っていましたので、
とても詳しく説明できてもおかしくないはずなのですが、
やはりそういうところが半端な宗教信者だったわけです。半端だったからこそ、抜けるのもスムーズだったりして良いも悪いもないんですが。
そうです。私は仏教のこと、スピリチュアルなことが語れるわけでもないのです。
ただ、みたこと聞いた事感じた事をそのまま書くことしか出来ず。
語彙力もなし文章がうまくもなし。
ただそれで、自分なんて。と勇気が持てないまま、
何もせずに過ごしていたんですよね。
話がそれましたが、
見たこと聞いた事感じたことをそのまま残す。
これも八正道のなかの、
正しく見る聞く話す
に通じることなのかも知れないと。ふと思いました。
宗教2世を騙る私ですが
そこまでどっぷり宗教一家だったわけでもないのですよ。
でも元々、自分の気持ちを抑圧する という所がありまして。
そういう所が、親が宗教に入る際、一旦反発はするものの、結局親の思うように認められたい、気持ちも相まって入信することになる。親の願いを叶えたい。
そして、親の人生を代わりに生きようとしてしまう。自分を抑圧するどころか、代わりの人の人生の下敷きなることを選んでしまったのですね。
わたしのような半端宗教2世の方々はそういう、抑圧する癖があるように個人的には思いますが。
それは、また別の時にも書きたいと考えています。
イメージングからの
地蔵菩薩と
観世音菩薩のお話だったのに。
さて本題の私なりの供養のイメージの仕方
朝おきてご飯とお水を水子さんどうぞお召し上がり下さいね、と声に出してに供えて
南無観世音菩薩
と唱えながら
八正道を実践している素直な自分をイメージ。
その気持ちまでイメージして、
お坊さんのお話にある水子を自分の体内に入れて
そのまま私も地蔵菩薩、観音様に導かれながら
太陽の光で水子の黒い魂が光に変わるのを確認して
共に三途の河を渡る。
菩薩界に無事送り届けて、宜しくお願いしますと
一礼。
そのイメージをしています。
これが今やっていることです。