お久しぶりです。
物事を継続することと、整理整頓が苦手です。
ものすごく間が空いてしまいましたが、最近感じていたことを文字に起こして整理してみようと思います。
ここ2週間ほど、アカウンティングとマーケティングの授業の大きな課題(多分mid term 的な扱い)に取り組んでいました。大量のリサーチを必要とするエッセイを書かなければならなかったのですが、その中でふと思ったこと。
「これもし日本語で全部やってるとしたら、どれくらいの時間がかかって、どれくらいの理解度が得られるんだろう?」
僕は日本で生まれ育ち、英語は完全に外国語として学びました。留学中の今現在でも英語運用能力の低さを痛感しているのですが、仮に全てのインプット・アウトプットを日本語で行ったらどうなるのだろう、と考えてしまったわけです。
また同時に、バイリンガル、トリリンガルの友達たちの物事の捉え方、考え方にも興味が湧いてきました。
僕の友達のうち、マレーシア出身の友達たちは基本的に、英語、中国語(マンダリン)、マレー語を使いこなすトリリンガルです。どのように言語を習得したのかについて尋ねて見たところ、「中国語、マレー語は両方とも生活の中で習得し、英語は幼稚園の頃から勉強する中で習得した」とのこと。また、「論文を書くには、英語が最も適していると思う」と言っていました。確かに、徹底的にロジックを追求する英語の特性(日本語みたいに、原因と結果をぼかす書き方ができない)(いや、これも僕の英語能力の無さからきてる?)を考えるとわかる気がします。
実際のところ、僕は留学中はもちろん、日本の大学にいる時も一度も日本語で学術論文を書いたことはなく、日本語の論文を読んだこともほとんどありません。なので全く比較ができないのですが、どうなんでしょうか。日本語と英語のバイリンガルのみなさん、どう思いますか。僕は日本語のほうが確実にインプットは速いですが、アウトプットに関しては、アカデミックに書くとなるとどちらの方が速いかわかりません。もちろん速さだけが全てではないですしね。
加えまして、このあたりの話に少し関係があると思う日本語の短編小説を紹介してみたいと思います。言語というか文字と、人間がその文字を介して事象を理解しようとすることに対する問題提起をなした、中島敦の短編「文字禍」です。
ただの縦線・横線の組み合わせにすぎない文字に意味を持たせるものとして文字の精霊の存在を考え、その精霊の魔力が人間に作用し、能力を食い荒らしているのではないか。人が文字を介して理解するものは事象そのものではなく、その事象の「影」なのではないか。
「文字が普及して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである」
ものすごく考えさせられます。文字、言語、時には複数の言語を介してその事象を理解、表現することができたとしてもそれはその事象の本質とは異なるものであるかもしれない、と。
考えればキリのない話のようにも思えますが、実際僕もこうして自分の思考を文字に書き起こしているわけです。この思考を文字に書き起こしてしまった時点で、それは僕の思考そのものではない、ということですね。泣
文字という媒体を介することである種、咀嚼、要約されてしまうということでしょうか。
難しい。ブログの前半と後半、繋がりがあるようなないような感じですが思ってたことをざっくり書き起こしてみました。
次、いつになるかわかりませんがまた書きたいと思います。