第三話|最初にやるべきは、勉強ではなかった

 

勉強をスタートして早1ヶ月半。

私は早い段階で違和感を覚えていた。

問題が解けない。
覚えられない。
続かない。

それらはすべて、勉強の問題だと思っていた。

しかし、Kと向き合う時間が増えるにつれ、
はっきりと分かってきたことがある。

最初にやるべきは、勉強ではなかった。


文字になっていない文字と、本人の自信

Kの文字は、とても小さく、弱々しく、読みにくい。

私も文字は上手ではない。
きれいな字を書く人を羨ましく思うこともある。

ここで言いたいのは、自分を棚に上げて彼の文字を馬鹿にしたいということではない。

彼の文字は、「汚い」というよりも、
どこか自信のなさがにじみ出ている文字だった。

最初は単に「字が汚い」のだと思っていた。
しかし、違った。

文字を書くことに自信がないだけではない。
Kは、とにかく自己肯定感が低い。

本人曰く、何をやっても自信が持てないらしい。

彼には成功体験がほとんどない。
それが、そのまま文字に現れているように思えた。

学校の先生も、毎回のテストでその極端な文字の小ささや読みにくさに気づいているはずだ。
それでも、特に指摘はされていない。

忙しさもあるのだろう。
「文字の書き方は中学校の仕事ではない」と考える先生もいるかもしれない。

だが、結果としてどこまで放置されてきたのだろう。

(放置したことでアルファベットすらまともに書けない中学2年生を作ってしまった。)

何を勉強するにしても、本人が書いた文字が読めない。
答えも誤解され、評価もされにくい。

これでは、誰からも認めてもらえない。


小さな成功を、積み上げるしかない

そこで私は、やり方を変えた。

難しい問題はやらせない。
先の話もしない。
高校受験の話もしない。

ただ、
「できた」
という感覚を、ひたすら積み上げる。

アルファベットを一文字書く。
声に出して読む。
それだけでいい。

笑われない。
怒られない。
否定されない。

それが、スタートラインだった。


親が抱える、見えない焦り

親は焦る。
時間がない。
受験が迫っている。

だから、つい「勉強しなさい」と言ってしまう。

しかし、
その言葉が届かない子が、確実に存在する。

Kは、その一人だ。


本当に問われているもの

これは、Kだけの問題ではない。

勉強ができない子。
机に向かわない子。
やる気がないように見える子。

その多くは、
勉強の前で立ち止まっているのではない。

勉強にたどり着く前の段階で、止まっているのだ。

最初にやるべきは、勉強ではなかった。

それに気づけただけでも、
この一か月半は無駄ではなかったと思っている。

 

しかし受験は待ってはくれない。

もっと早く気がつけなかったのかと悔やまれるばかりだ。

第二話|なぜ「勉強しない子」は叱っても動かないのか

Kに勉強させることは、想像以上に難しかった。

まず、毎日3時間勉強するという約束をした。
高校受験まで残り1年。時間的な余裕はない。

最初に取り組ませたのは、数学と英語だった。
Kは公立高校を志望している。受験科目は5科目だ。
私立高校であれば3科目で済むが、金銭的な理由から私立は難しい。

とはいえ、いきなり5科目すべてをやらせるのは、現実的ではない。
成績を上げるうえで、数学と英語は避けて通れない
そしてこの2科目は、最も時間がかかる科目でもある。


勉強しない生活リズム

Kの生活リズムは、こうだ。

朝起きて学校に行き、部活はしていないため、15時頃には帰宅する。
その後、友達と電話をつなぎ、オンラインゲームをする。
毎日同じメンバーで、同じゲームをするのが日課らしい。

Kは、自己肯定感が極端に低い
そのため、友達からの誘いを断ることができない。

ちなみに、その友達は成績が「中の上」程度だという。
勉強しないKとの差は、時間とともに、確実に広がっていく。

ゲームが終わると、YouTubeを見て、夕食を取り、風呂に入り、
深夜0時頃に寝る。
この生活が、毎日繰り返されていた。


約束は、ほぼ守られなかった

1月の1か月間、毎日3時間勉強すると約束した。
しかし結果は、厳しいものだった。

一番勉強した週ですら、合計5時間
目標に対する達成率は、**わずか23%**に過ぎない。

自信のなさは、字にも表れていた。
文字は小さく、雑で、
数字と数学記号、アルファベットの区別すら曖昧だ。

ここまで、
親も、学校の先生も、誰も気づかなかったのか
——そう思うと、悔しさが込み上げてくる。

成績はオール2だと聞いていたが、
それより低い成績の子がいると知り、
逆に驚いてしまった。


強制は、逆効果になる

このままではいけないと思い、
Kとは毎日連絡を取り、勉強時間を確認することにした。

ただし、いきなりゲームを取り上げることはしなかった
それはKにとって「強制」になり、
関係そのものが壊れると判断したからだ。

代わりに、
「週に3時間だけゲームをしてよい」
という約束をした。

小学校から現在まで、
8年間ほぼ勉強をしてこなかった子どもに、
いきなり「毎日3時間机に向かえ」と言う。

それが、どれほど無謀な要求なのか。
実際に向き合ってみて、初めて分かった。


叱っても動かない理由

Kには、とにかく基礎がない

英語を勉強する前に、
まずアルファベットを書かせ、
自分で声に出して読ませるところから始めなければならない。

これはもう、
高校受験の勉強ではない
出来の悪い小学生が、高校受験に挑むようなものだ。

正直に言えば、
「本当に1年で、どこまで成績を上げられるのか」
分からない。

教えている私の心が、
先に折れそうになることもある。

だからこそ、はっきり言える。

怒っても、怒鳴っても、意味はない。
根暗で引っ込み思案なKにとって、
それは逆効果でしかない。

勉強しない子は、
「やる気がない」のではない。
動けなくなるほど、積み重ねを失っているだけなのだ。


どのように勉強をさせれば続けていけるか。

本当に心が折れる

第一話 なぜ、この記録をブログに残すのか

令和8年1月。
甥っ子Kの勉強を、私が見ることになった。

私にも仕事があるため、勉強を教えられるのは週1回
1週間分の宿題を出し、次の週に添削し、解き方や考え方を説明する——
ごく一般的な「家庭学習支援」から始めた。

ところが、開始して間もなく、私はある現実に直面することになる。
それは「つまずき」という言葉では、到底表現できないレベルだった。


見えてきた現実

勉強を始めてすぐ、次のことが分かった。

  • アルファベットを a から z まで順番に書けない

  • そもそも a から z を言えない

  • 英単語は、ほぼゼロ

  • 数学は 中学1年生の計算問題から理解できていない

  • 小学校レベルの分数計算ができない

  • テレビを見ないため、
    総理大臣の名前は言えても、
    どの政党に所属しているかは分からない
    ——政治の話以前に、社会の前提知識がない

正直に言えば、私は言葉を失った。


勉強ができないのは「本人の責任」なのか

確かに、勉強ができないこと自体は、本人の責任だと言われるかもしれない。
しかし、ここまで基礎が抜け落ちている状況を見ると、
「一体、これまで学校では何が行われてきたのか」
という疑問が、どうしても湧いてくる。

Kは、小学校も中学校も、地元のごく普通の公立学校に通っている。
特別な事情があるわけではない。

それでも、この状態だ。


宿題が「ない」中学校

実は、Kが通っている某K県Y市の中学校では、
原則として宿題が出ないらしい。

子どもにとって、「勉強しなさい」と言われない環境は、楽だ。
私自身も、子どもの頃、宿題は面倒で仕方なかった。

しかし今、はっきりと分かる。

英語でも、数学でも、漢字でも、
「書かされる」ことでしか、知識は定着しない。

毎日出された計算ドリル。
何度も書かされた英単語。
意味も分からず書いた漢字練習。

あれは確実に、
知識の土台を作っていた。

今回の出来事で、私はその重要性を、痛いほど思い知らされた。


できる子は拾われ、できない子は捨てられる

現実は、残酷だ。

できる子は、先生の目に留まり、褒められ、伸ばされる。
できない子は、静かに置き去りにされる。

これは批判ではない。
学校現場の忙しさも、事情も分かる。

しかし結果として、
「できない子ほど、何も与えられない」
という構造が生まれている。

中学校は、すでに社会の縮図なのだ。


義務教育とは何なのか

高校に進学すれば、公立学校であっても、
人生で初めて、明確なレベル分け・ランク分けが行われる。

一度貼られたレッテルは、簡単には剥がれない。
進学先、交友関係、自己評価——
すべてに影響する。

では、その前段階である義務教育は、
一体、何のために存在しているのだろうか。

最低限の学力を保障するためではないのか。
社会で生きるための基礎を、全員に与えるためではないのか。


なぜ、この記録を残すのか

このブログは、誰かを糾弾するためのものではない。
教師を責めたいわけでもない。

ただ、
「何もせずに見過ごされる子どもが、確実に存在する」
という現実を、記録として残したい。

塾に通わせられない家庭。
共働きで時間が取れない親。
勉強が分からないまま、置いていかれる子ども。

これは、特別な家庭の話ではない。
多くの親が、同じ不安を抱えている。

だからこそ、このブログを書いている。

この先、うまくいくかどうかは分からない。
失敗するかもしれない。
また挫折するかもしれない。

それでも、
この1年で、何が起きたのか
何ができて、何ができなかったのか

それを、正直に記録していく。

それが、このブログの原点である。